生きながらにして死ぬ者、重い皮膚病(tzaraat:ツァラアト)の真実 (上)――皮膚の異変が無言で告発する罪
*聖書の中で「重い皮膚病」と訳される「tzaraat(ツァラアト)」。しかし、これは現代医学が定義する皮膚疾患ではありません。
なぜイエスは彼に触れたのか?なぜ彼らは「生きながらにして死んでいる者」として宿営の外へ追放されなければならなかったのか。
旧約聖書の最高権威モーセ五書(トーラ)と口伝律法ミシュナに準拠しながら、現代の訳語では見えにくくなった「tzaraat(ツァラアト)」という真の姿と、その背後にある神と人の霊的な関係性を浮き彫りにします。
福音書が記す「重い皮膚病」への接触
マタイによる福音書8章には次のように書かれている。
イエスが山を下りられると、大勢の群衆が従った。 すると、一人の重い皮膚病を患っている人がイエスに近寄り、ひれ伏して、「主よ、御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」と言った。 イエスが手を差し伸べてその人に触れ、「よろしい。清くなれ」と言われると、たちまち、重い皮膚病は清くなった。 イエスはその人に言われた。「だれにも話さないように気をつけなさい。ただ、行って祭司に体を見せ、モーセが定めた供え物を献げて、人々に証明しなさい。」
マルコによる福音書1章では次のようになっている。
さて、重い皮膚病を患っている人が、イエスのところに来てひざまずいて願い、「御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」と言った。 イエスが深く憐れんで、手を差し伸べてその人に触れ、「よろしい。清くなれ」と言われると、たちまち重い皮膚病は去り、その人は清くなった。 イエスはすぐにその人を立ち去らせようとし、厳しく注意して、言われた。「だれにも、何も話さないように気をつけなさい。ただ、行って祭司に体を見せ、モーセが定めたものを清めのために献げて、人々に証明しなさい。」
同じことはルカによる福音書5章12~16節にも書かれており、共観福音書の内容は以下の点で一致している。
①重い皮膚病の人はイエスの所に来た。
②彼は「御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」という趣旨のことを述べた。
③イエスは彼に直接触れた。
④イエスは「祭司に体を見せ、モーセが定めたものを清めのために献げること」を命じた。
この箇所は旧約聖書の律法が矮小化されやすい福音書において、かなり忠実に記載している。これについて、重い皮膚病に関する次の一般的な原則を述べたい。
大原則:重い皮膚病(tzaraat;ツァラアト)は「医学的疾患」ではない
まず、大原則として、重い皮膚病は皮膚病の一種ではないという事である。これは医学的な問題ではない。重い皮膚病を祭司が確認したことから、今でも「祭司は医学的な仕事にも携わった」ような記述を見かけることがある。しかしそれは完全に間違っている。
重い皮膚病は身体的な疾患なのではなく、その者と神との関係を表している。かつて神が直接イスラエルを導き、臨在の幕屋(神殿)において臨在していた頃には、民も霊的に高い次元にいた。
霊的に高い次元にある者は、罪によって損なわれた場合、身体的なしるしが現れる。それが重い皮膚病であり、以前扱ったzovと呼ばれる漏出である。
(漏出についての記事はこちらです)
◉なぜ洗礼は「川」でなければならなかったのか? ――レビ記と口伝律法から探る「内面的な崩壊」の清め
https://note.com/mishnah/n/nde4490bf1199
ミリアムの罪――霊的高次にある者が受ける「身体的しるし」
旧約聖書の最高権威であるモーセ五書(トーラ)の次の箇所を見て欲しい。
彼らは更に言った。「主はモーセを通してのみ語られるというのか。我々を通しても語られるのではないか。」主はこれを聞かれた。モーセという人はこの地上のだれにもまさって謙遜であった。主は直ちにモーセとアロンとミリアムに言われた。「あなたたちは三人とも、臨在の幕屋の前に出よ。」彼ら三人はそこに出た。主は雲の柱のうちにあって降り、幕屋の入り口に立ち、「アロン、ミリアム」と呼ばれた。二人が進み出ると、主はこう言われた。
「聞け、わたしの言葉を。
あなたたちの間に預言者がいれば
主なるわたしは幻によって自らを示し
夢によって彼に語る。
わたしの僕モーセはそうではない。
彼はわたしの家の者すべてに信頼されている。
口から口へ、わたしは彼と語り合う
あらわに、謎によらずに。
主の姿を彼は仰ぎ見る。
あなたたちは何故、畏れもせず
わたしの僕モーセを非難するのか。」
主は、彼らに対して憤り、去って行かれ、雲は幕屋を離れた。そのとき、見よ、ミリアムは重い皮膚病にかかり、雪のように白くなっていた。アロンはミリアムの方を振り向いた。見よ、彼女は重い皮膚病にかかっていた。
この箇所はモーセの姉妹ミリアムが主導して、同じく兄弟であるアロンを連れ、モーセの権威について問題にした場面である。
姉妹ミリアム自身、預言者であったのだが、神はモーセが他の預言者とは異なる点を指摘される。それは他の預言者に対しては、神は夢や幻によって語るが、モーセとは「口から口へ、わたしは彼と語り合う、あらわに、謎によらずに」(ibid.)と言明される。
ミリアムは、言われのない中傷をしたのである。その結果、彼女は「見よ、ミリアムは重い皮膚病にかかり、雪のように白くなっていた」(ibid.)とある。
この通り、重い皮膚病が現れるのは、主に言葉による罪とされる。神は過ちを重ねる者に対して、皮膚の上にしるしを表し、彼が自らの行為を吟味し、悔い改めることを促すのである。その者は最初にも、最後にも祭司に自分の体を見せなくてはならないが、それは祭司によって適切に掟を守るように教示されるべきだからでもある。
これが重い皮膚病の根本的な原則であり、この訳語は著しく読者の理解を損なっている。そこでユダヤ教の聖書では現代語には翻訳せず、「tzaraat(ツァラアト)」と音訳しているだけである。本稿でも今後は重い皮膚病の単語は使わずに、tzaraat(ツァラアト)と表記することにする。
「段階的な警告」としてのtzaraat(ツァラアト)――衣類、家屋、そして人へ
ここに来る読者の方は相当に聖書も読み込んでいるだろうから、同様のことは衣類や家屋にも起こることを知っていると思う。こちらは本題ではないが、トーラ本文だけは掲載する。
衣服にかびが生じた場合、羊毛や、亜麻の衣服でも、亜麻や羊毛の織り糸でも、あるいは革やどのような革製品でも、青かびか赤かびが、衣服か、革か、織り糸か、どのような革製品かに生じたならば、それはかびの繁殖によるものであるから、祭司に見せなければならない。
ここで語られている「かび」の原語はtzaraat(ツァラアト)である。
主はモーセとアロンにこう仰せになった。
あなたたちが所有地としてわたしから与えられるカナンの土地に入るとき、あなたたちの所有地で家屋にかびが生じるならば、家の主人は祭司に「かびらしきものがわたしの家屋に生じました」と報告する。
家屋に現れる「かび」もtzaraat(ツァラアト)である。人の皮膚、衣類、家屋に現れる重い皮膚病なり「かび」は、全て神から現れる不興のしるしとして、共通しているのである。
上記の通り、レビ記本文で扱われる順序は「人 → 衣類 → 家屋」だが、ユダヤ教の伝統的な解釈では、神が警告を与える際の「実際の発生順序」はその逆であるとされている。つまり、一番外側のものから警告のしるしが現れ、それでも悔い改めない場合に、本人にまで及んでいくのである。
生きながらにして死ぬ者――宿営の外への隔離と喪の作法
実際に自分がtzaraatを診断されてしまったなら、共同体における生活は不可能になる。次のように書かれている。
重い皮膚病にかかっている患者は、衣服を裂き、髪をほどき、口ひげを覆い、「わたしは汚れた者です。汚れた者です」と呼ばわらねばならない。 この症状があるかぎり、その人は汚れている。その人は独りで宿営の外に住まねばならない。
ここには2つのことが語られている。1つは「衣服を裂き、髪をほどき、口ひげを覆い、『わたしは汚れた者です。汚れた者です』」と叫び続けて、自分が汚れていることを周囲に知らせる義務である。
もう1つは「宿営の外に住まねばならない」という事である。荒野における宿営全体の領域は、王国時代のエルサレムの城壁内部に相当する。そこで王国時代に言い換えるなら、tzaraatを言い渡された者(metzora;メツォラと言います)は町の外に住まなくてはならない。
最初に警告された時に悔い改めていれば、家屋の一部の交換で済んだかもしれないが、それでも聞かなかったので最悪の場合、共同体から事実上の追放処分になる。
これは彼自身が自己中心的に振る舞い、共同体の一員としての行いを顧みず、それを否定していたので、今度は自分がそこから追放されて、省みる機会を与えられたことを意味する。この点、口伝律法ミシュナには次のように書かれている。
もしmetzoraが家の中に入るなら、そこにある道具は全て汚れる。
汚れの中でも最も重い汚れを持っているのは人の死体であるが、死体は同じ屋根の下にある全てのものを汚す。metzora(メツォラ)も家の中に入ったら、その中のものを全て汚すとされている。
そこでmetzoraは生きながらにして死んでいる者とされる。先程彼は衣服を裂き、髪をほどき、口ひげを覆い、「わたしは汚れた者です。汚れた者です」と叫び続けることに触れたが、「衣服を裂く」「髪を振り乱す」「口を覆う」ことは、肉親を亡くした遺族が取る作法である。
サマリアの門にいた四人の男たち――列王記に見るmetzora(メツォラ)
以上の内容は列王記下7章に見ることが出来る。
城門の入り口に重い皮膚病を患う者が四人いて、互いに言い合った。「どうしてわたしたちは死ぬまでここに座っていられようか。 4町に入ろうと言ってみたところで、町は飢饉に見舞われていて、わたしたちはそこで死ぬだけだし、ここに座っていても死ぬだけだ。そうならアラムの陣営に投降しよう。もし彼らが生かしてくれるなら、わたしたちは生き延びることができる。もしわたしたちを殺すなら、死ぬまでのことだ。」
これはアラムの王が攻めてきた時、サマリアの城門の外にいた者たちの会話である。当時サマリアは酷い飢饉に見舞われており、彼らは投降について相談している。
その彼らがなぜ「城門の入口」にいたのか。それは彼らが皮膚の上にtzaraat(ツァラアト)が出たと宣言されたmetzora(メツォラ)であり、中に入ることは出来なかったからである。
悔い改め、皮膚の上のtzaraat(ツァラアト)が消えたなら、その者は祭司に見せに行く。
その内容は次回にする。
(この記事は、旧約聖書の最高権威モーセ五書[トーラ]と口伝律法[ミシュナ]及びその膨大な参考書の研究に基づいています。日本語圏における聖書学の再構築を継続し、さらなる『掃除』を推し進めるための研究費として、志ある方のご支援をいただければ幸いです)
本記事周辺の時系列目次は以下からご覧になれます。
◉【全体目次Vol.1】ミシュナと旧約聖書・新約聖書:全研究記事リスト(No.1〜No.200)
https://note.com/mishnah/n/nf0de8c6c7334
全記事の時系列目次は以下からご覧になれます。
◉【時系列総目次】ミシュナと旧約聖書・新約聖書:全研究記事インデックス
https://note.com/mishnah/n/nd780d32f266c
(ミシュナの構造による目次は以下からご覧になれます)
◉ミシュナの部(seder)に基づく全記事の目次
ミシュナは生活と信仰の全領域を「種子」「祭日」「女性」「損害」「聖物」「清浄」の6つの部(セデル)で網羅している。各記事を法典本来の分類に配置し直すことで、2,000年前の「律法の現場」における聖書の背景をより明確に提示する。
