ミシュナ『Machshirin』の法理研究 第4回:tahorとtameiの境界線、及び「満足」が左右する雨水と廃水の先後関係(2章3節)
*本稿の解説において「小便」や「廃水」といった排泄物・汚水に関する用語が頻出するが、これらは口伝律法ミシュナ『Machshirin』第2章3節のハラハー(ユダヤ教法理)における不浄の伝播・液体の法的カテゴリーを正確に検証するための学術的な翻訳および法理分析に基づくものである。
古代の祭儀的清浄規定における宗教法学的な厳密性を維持するための記述であることをあらかじめご留意下さい。
本稿は口伝律法ミシュナ第6部『Tohorot(トホロット)』に属する『Machshirin(マフシリン)』の第4回目の解説である。
今回は『Machshirin』第2章3節を取り上げ、tahor(清い状態)とtamei(汚れた状態)の異なる水源が並置された場合、周囲の湿気がtahorであるか、tameiであるかの境界線を解説する。また異邦人の汚れをzavと同等に見なすラビ規定と小便の混合の問題、「廃水」と「雨水」の混合の問題を取り上げる。
特に、液体が不浄への受容性を獲得する契機としての「人間の満足」が、法理的な「無効化(nullification)」の成否にどう関わるかという核心的論理を解明する。
前回の振り返り:微細な水分(湿気・汗・蒸気)とhechsherの境界線
前回は「Machshirin」第2章1節〜2節を取り上げ、湿気、汗、蒸気といった「微細な水分」が、食品を不浄に対して感受性のある状態にするプロセス(hechsher:ヘフシェル)を成立させるかどうかの境界線について解説した。
主な内容は以下の通りである。
【1】tahor(タホル)とtamei(タメイ)」の二重意味論
ミシュナ全般に渡って、これらの用語は通常の「祭儀的に清い状態」、「祭儀的に汚れた状態」とは異なる意味で用いられることがある。
①tahor
その液体によってhechsherが成立しないことを指す。
②tamei
その液体によってhechsherが成立することを指す。
ただし、文脈によってはそれぞれ「祭儀的に清い状態」、「祭儀的に汚れた状態」そのものを指す場合もあり、注意が必要である。
【2】湿気と汗の法的地位
①壁の湿気
家や洞窟の壁に生じる湿気は「実体に乏しい」ため、hechsherを成立させない。
②人間の汗
原則としてtahorであり、hechsherを成立させない。不浄な飲み物を飲んでかいた汗であっても、その汗自体は不浄な液体そのものではないため、同様に扱われる。
③乾燥後の汗
お湯から上がって体を拭いた後ににじみ出る汗は、純粋な汗と見なされ、hechsherを成立させない。
【3】祭儀的にtahorのsheuvin(シェウーヴィン:汲み上げられた水)と結露
sheuvinとは、人の意図によって土地から切り離された水のことである。
①sheuvinの浴場と結露
浴場がsheuvinを用いている場合、そこに入ってかく汗は、体内の分泌物ではなく、お湯から上がった蒸気が凝縮した「結露」と見なされる。この場合、水が土地から切り離された時点で人の「満足」が伴っているため、hechsherが成立する。
②土地に接続された水
大地に接続された自然の水(泉など)に不意に落ちてかいた汗(結露)は、意図や満足が伴わないため、hechsherを成立させない。
【4】tameiの浴場とプールの蒸気
①浴場の湿気
tameiな浴場の湿気は、それ自体がtameiであり、食物に触れると直ちにその食物をtameiにする。
tahorな浴場であっても、蒸気として分離した時点で「大地から離れた水」と見なされ、意図的に発生させていることから、hechsherを成立させる。
②家の中のプール
プールの水がtameiであれば、そのプールのために生じた家全体の湿気もtameiと見なされ、食物に触れればhechsherを引き起こすと同時に、その食物をtameiにする。
以上のように、tahorとtameiという用語は、2重の意味で使われる。すなわちtahorは「祭儀的に清い/hechsherを成立させない」、tameiは「祭儀的に汚れている/ hechsherを成立させる」を意味しえるので、文脈に従ってその意味の射程範囲を正しく理解する必要がある。
以上の内容に不安を感じる方は、下のリンクから確認して欲しい。
◉ミシュナ『Machshirin』の法理研究 第3回:湿気・汗・蒸気を巡るhechsherの境界線と、tahor/tameiの二重構造(2章1節〜2節)
https://note.com/mishnah/n/n0d0d7a5b720d
ミシュナ『Machshirin』2章3節:tahorの水、tameiの水の並置と近接性の原理
今回はその続きで、口伝律法ミシュナ「Machshirin」2章3節からである。まずは本文を引用する。
1つはtahor、1つはtameiであるプールについて、tameiに近い方の湿気はtameiである。しかしtahorに近い方の湿気はtahorである。同じ距離にあるものは、tameiである。
本節ではtameiの水を貯めているプールと、tahorの水を貯めているプールの両方がある場合である。どちらのプールからも水が蒸発している。
基準となるのは、問題となる場所がtameiのプールとtahorのプールのどちらに近いかである。もしも問題となる場所がtameiのプールに近いなら、その壁面の水分はtameiである。逆に問題となる場所がtahorのプールに近いなら、その壁面の水分はtahorである。
問題となる場所がtameiのプールからもtahorのプールからも等しい距離にあるならば、どちらのプールの蒸気もあると判断され、
その壁面の水分はtameiである。
以上で「Machshirin」2章3節における、最初の段落の解説を終えた。この後2章の終わりまで、tahorとtameiのもの双方が関わる場合の裁定を記している。それらは「Machshirin」のメインテーマからは外れた内容であるが、「口伝律法らしい」脱線の仕方であり、興味深い内容でもあるので、幾つか紹介しておく。
ユダヤ人と異邦人の尿における法的位置づけと過半数無効化
ユダヤ人と異邦人が小便をしたポットについて、もし大部分がtameiであるなら、それはtameiである。もし大部分がtahorであるなら、それはtahorである。半分ずつであるなら、tameiである。
まず冒頭のポットであるが、破損した壺を指している。他の用途に使えないので、小便に用いているとされる。
異邦人はラビの規定によって、zavの同じ程度に汚れているとされている。zavについては以下のシリーズで既に詳しく解説した。不確かな方は確認して欲しい。
◉【シリーズ目次】ミシュナ『Zavim』法理研究
https://note.com/mishnah/n/nebdd61e61049
zavの小便は汚れているが、異邦人の小便も同じ程度で汚れているとされる。しかしzavについてはトーラで規定された汚れであり、異邦人の汚れはラビの規定によるものである。
そこで次の違いが生じる。zavの小便が汚れているのは、トーラの次元の汚れであるので、tahorの小便と混ざった場合、それをtameiにする。従って、tameiのものとtahorのものが混ざるという問題ではなく、tameiのものがtahorのものを汚すという問題になる。
異邦人の汚れはラビの規定によるものであるので、tahorのものを汚すとまでは扱われない。ラビの規定によるものは、トーラの規定に比べて緩やかに扱うからである。
そこで異邦人の小便はtahorの小便を汚すことなく、tameiの小便とtahorの小便が混ざるという問題になる。
ミシュナ本文に戻ると、「もし大部分がtameiであるなら、それはtameiである」とあるのは、異邦人の小便の方が多いなら、ユダヤ人の小便を過半数で無効化するので、全体としてtameiになるという事である。
「もし大部分がtahorであるなら、それはtahorである」とあるのは、ユダヤ人の小便の方が多いなら、異邦人の小便を過半数で無効化するので、全体としてtahorになるという事である。
「半分ずつであるなら、tameiである」とあるのは、互いに等しい量であるのなら、どちらも無効化されないので、tameiとして扱われるという事である。
廃水と雨水の混合における先後関係と「満足」による受容性
次は似たような事例である。
使用済みの水に雨が降り注いだ場合について、もし大部分がtameiの水であるなら、それはtameiである。もし大部分がtahorであるなら、それはtahorである。半分ずつであるなら、tameiである。
まず「使用済みの水」とは洗うことや風呂などの用途に用いたものを指す。そのような水は汚れに対して守られているという状態ではないので、祭儀的に汚れているものと前提される。他方で雨水はtahorであり、祭儀的な清めにも用いられる。
なお本稿では以後「使用済みの水」を「廃水」と呼ぶ。
この箇所では、廃水と雨水が混ざった場合について言っている。結果は次の3つに分けられる。
①もし大部分が廃水であるなら、全体はtameiである。
②もし大部分が雨水であるなら、全体はtahorである。
③半分ずつであるなら、全体はtameiである。
ここまでは小便の事例と同じである。しかしこの事案においては、もう1つ考慮しなくてはならない要素がある。それが続きに書かれている。
いつこのようになるのであろうか?廃水が雨水よりも先にある場合である。しかしもし雨水が先にあるなら、たとえ少量であったとしても、それはtameiになる。
上記の①~③までの結果が生じるかどうかは、ここで述べられている条件にかかっている。
「いつこのようになるのであろうか?廃水が雨水よりも先にある場合である」とは、①~③の結果が生じるのは、先に廃水があり、その後に雨水が注がれた場合を言っている。
「しかしもし雨水が先にあるなら、たとえ少量であったとしても、それはtameiになる」とは、もしも雨水が先に取られていて、そこに廃水が注がれた場合、たとえ廃水の方が少量であっても、全体はtameiになる。
この違いは以下のように説明される。
人間の「満足」が決定する汚れの受容性(susceptibility)の有無
通常、tahorな液体とtameiな液体が混ざった場合、「無効化(nullification)」という概念は適用されない。tahorな液体がtameiな液体に触れた瞬間に、tahorな液体自体がtameiになってしまうからである。
ただし、これには重要な条件がある。tahorな液体が「tameiに対して受容的な状態(susceptible to tumah)」にある場合にのみ、tameiが伝播する。もし受容性がなければ、多数派(マジョリティ)を占めるtahorな液体が、少数派のtameiな液体を無効化することが出来る。
水がtameiの影響を受ける(受容性を持つ)ようになるには、その人がその水の存在に対して「満足している(pleased and satisfied)」必要がある。
雨水と廃水については、この点で次のようにまとめられる。
①雨水
飲料や料理に適した純粋な雨水に対して、人は通常「満足」を感じるので、その雨水はtameiに対する受容性を持つ。
②廃水
廃水には、通常、人は「満足」を感じない。
このポイントを踏まえて、ミシュナの事案に戻る。
雨水が最初から廃水に流される前提であれば、その水に対して「満足」が生じることはない。したがって、その雨水はtameiへの受容性を持たないので、tahorの水とtameiの水の混合の問題になる。すなわち、雨水が廃水よりも多いなら、廃水を「無効化」し、全体をtahorにすることが出来る。
他方、雨水に廃水が混ざる場合、雨水は純粋であらゆる用途に利用可能であり、人は「満足」を感じていたと見なされる。この時雨水はtameiへの受容性を持っている。
そのため、たとえ極少量の廃水であっても、接触した瞬間に雨水全体がtameiとなり、混合物全体がtameiになる。
器に取られた水と土地に付従する大地の水の違い
ここで注意しなくてはならないのは、雨水は器に取られているという事である。もし地面に付従した状態であるなら、すなわち池や泉の状態であるなら、汚れを受けないので、そこに廃水を入れても汚れない。
今回の内容は以上である。
(この記事は、旧約聖書の最高権威モーセ五書[トーラ]と口伝律法[ミシュナ]及びその膨大な参考書の研究に基づいています。日本語圏における聖書学の再構築を進めるためのご支援をいただければ幸いです)
シリーズ目次は以下からご覧になれます。
◉【シリーズ目次】ミシュナ『Machshirin』法理研究
https://note.com/mishnah/n/n36a7a5cdda45
本記事周辺の時系列目次は以下からご覧になれます。
◉【全体目次Vol.2】ミシュナと旧約聖書・新約聖書:全研究記事リスト(No.201〜No.300)
https://note.com/mishnah/n/na80e65fb273e
全記事の時系列目次は以下からご覧になれます。
◉【時系列総目次】ミシュナと旧約聖書・新約聖書:全研究記事インデックス
https://note.com/mishnah/n/nd780d32f266c
(ミシュナの構造による目次は以下からご覧になれます)
◉ミシュナの部(seder)に基づく全記事の目次
