ミシュナ『Makkot(マッコート)』の法理 第7回――karet(断絶)の免責要件と禁止命令遵守における倫理的功績の相関性
*本稿は、口伝律法ミシュナ『Makkot』3章14節〜16節に基づき、鞭打ち刑の過失致死(流刑)や排泄による免責規定、および刑事罰と悔い改めによるkaret(断絶)の免責要件を神学的・法理学的に解説する。
更に血の禁止命令(申命記12章)を精査し、受動的遵守(禁止命令行為の拒絶)がもたらす世代を超えた倫理的功績の大きさを、ラビ伝統の厳密なテキスト解釈によって網羅する。
前回の振り返り:ミシュナ『Makkot』3章11節〜14節の法理
前回はミシュナ『Makkot(マッコート)』3章11節から14節に基づき、鞭打ち刑の具体的な執行手続き、医学的査定、および執行中に朗読される聖句について解説した。
主な内容は以下の通りである。
【1】医学的査定と「3の倍数」の法理
鞭打ち刑の回数は、執行前に法廷が受刑者の身体的耐性を評価して決定するが、そこには厳格なルールがある。
①3の倍数ルール:
刑の回数は必ず「3で割り切れる数」でなければならない。これは、後述するように打撃を「前面に3分の1、背面に3分の2」と配分する為である。
②事後的な変更の禁止
執行中に受刑者が耐えられないと判断された場合、残りの刑は免除される。
逆に、当初「18回」と査定された者が、実際に打ってみて「40回耐えられる」と判断されても、後から回数を追加することは出来ない。
③罪の累積
複数の禁止命令を犯した場合、一度に耐えられるならまとめて執行してよいが、無理な場合は回復を待ってから再評価し、執行される。
【2】執行時の姿勢と空間配置
刑の執行は、以下の手順と配置で厳かに行われる。
①受刑者の姿勢
高さ1.5〜2キュビットの柱を抱きかかえるようにして、前かがみの姿勢で両腕を縛られる。この受刑者の姿勢は申命記25章2節の規定に基づいている。
②衣服の剥ぎ取り
役人は受刑者の胸が露わになるまで衣服を下に引き下げる。衣服を引き下げる際、服が破れても構わない。
③執行官の立ち位置
受刑者の後ろに置かれた石の上に立ち、片手で力いっぱい打つ。
【3】鞭の構造と打撃の配分
鞭の仕様についても細かく規定されている。
①構造
牛の皮とろばの皮を組み合わせて作られ、ハンドルと紐の幅はどちらも1手幅(約8〜10cm)とされている。
②打撃箇所
全体の3分の1を前面(胸)に、3分の2を背面に打つ。
③長さ
執行官は常に受刑者の後ろに立つため、前面を打つ際には背中越しに振り下ろした鞭の先が「へそ」まで届く長さが必要とされる。
【4】執行中の聖句朗読
刑が執行されている間、特定の聖句が朗読される。この朗読される聖書箇所については、2つの伝統的な見解が入り混じっている。
・見解1
申命記28章58〜59節(律法を守らない者への災害の警告)を、執行が終わるまで繰り返し朗読する。
・見解2
申命記28章58〜59節に加え、申命記29章8節(契約の遵守)と詩編78編38節(神の憐れみと罪の贖い)を組み合わせて朗読する。
以上の内容に不安を感じる方は、下のリンクから確認して欲しい。
◉ミシュナ『Makkot(マッコート)』の法理 第6回――医学的査定に基づく鞭打ち刑の回数と、執行時の姿勢・鞭の構造・朗読聖句の法理
https://note.com/mishnah/n/n1d4fbba98432
刑の執行における過失致死と「失禁」による免責判定(「Makkot」 3章14節)
今回はその続きである。口伝律法ミシュナ「Makkot」3章14節から引用する。
もし死んでしまったら、彼は免責される。もし1回余計に加えて死んでしまったら、-彼は彼の為に流刑になる。もし彼が自分の大便や小便で汚れてしまったら、彼は免責される。ラビ・ユダは言う、「男は大便で、女は小便で。」
まず「もし死んでしまったら、彼は免責される」についてだが、正当な刑の執行中に受刑者が死んでしまった場合、執行官に責任は問われないことを言っている。
しかし「もし1回余計に加えて死んでしまったら、-彼は彼の為に流刑になる」とある。執行官は自らの過失で受刑者を殺してしまったのだから、逃れの町に流刑になる。
逃れの町について確かめたい方は、以下のシリーズから確認して欲しい。
◉【シリーズ目次】「逃れの町」とレビ族の町の法理:ミシュナが解き明かす律法の執行と都市空間の全貌
https://note.com/mishnah/n/nf1b99ffb956e
申命記25章3節「卑しめられないため」にみる排泄免責の法理
次に「もし彼が自分の大便や小便で汚れてしまったら、彼は免責される」については、若干の解説を要する。トーラには次のように書かれている。
四十回までは打ってもよいが、それ以上はいけない。それ以上鞭打たれて、同胞があなたの前で卑しめられないためである。
受刑者は失禁することで、既に「あなたの前で卑しめられた」状態になっている。そこで、たとえ刑の執行が行われる前であっても、恐怖のあまり失禁した場合は免責される。
ラビ・ユダはこの点具体的な意見であり、男性は大便、女性は小便で免責されるとする。
次節は重要である。
刑事罰と悔い改めによる刑事責任の昇華(「Makkot」 3章15節)
karetについて有責である者で、鞭打たれた者は、karetに関して免責される。
本稿では解説の便宜から、以前「鞭打ち刑の対象になり、またkaretの対象になる罪」という仕方で幾つかの罪を紹介した。
例えば一定の近親者との性的な関係である。これは「民から断たれる」karetの罪であり、かつ鞭打ち刑の対象になる。読み方を含めて一度まとめて表記すると、karet(カレート:民からの断絶)である。
しかし本節のミシュナて分かる通り、鞭打ち刑を受けた者はkaretについて免除されることが分かる。ただしこれは本人が悔い改めている場合であり、鞭打ち刑を受けたら自動的にkaretは免責されるという事ではない。
この続きには次のように書かれている。
彼が鞭打たれたのであるなら、彼はあなたの兄弟である。
鞭打ち刑を受け、悔い改めたのなら、彼は最早兄弟である。これは上に引用したトーラの箇所でも明記されている。少し前から引用しつつ、一部再掲する。
1二人の間に争いが生じ、彼らが法廷に出頭するならば、正しい者を無罪とし、悪い者を有罪とする判決が下されねばならない。 2もし有罪の者が鞭打ちの刑に定められる場合、裁判人は彼をうつ伏せにし、自分の前で罪状に応じた数だけ打たせねばならない。 3四十回までは打ってもよいが、それ以上はいけない。それ以上鞭打たれて、同胞があなたの前で卑しめられないためである。
有罪判決を受けた者は、1節で「悪い者」と呼ばれている。しかし鞭打ち刑を受けた後は「同胞」と呼ばれている。
罪によって「兄弟」の地位を失った悪人は、刑事罰を受け、悔い改めることによって再び兄弟になる。彼はkaretも免責される。
「Makkot」3章15節に戻る。続きには次のように書かれている。
懲罰(3〜4代)に対する「慈しみ(幾千代)」の数理的優位性
ラビ・ハナニヤ・ベン・ガマリエルは言った。さて、1つの罪を犯した者が自分の魂を失うなら、1つの掟を実行する者はどれだけ与えられるだろうか?ラビ・シモンは言う、それは引き出される、次のように書かれている。「これらのいとうべきことの一つでも行う者は、行う者がだれであっても、民の中から断たれる」(レビ18:29)、次のようにも書かれている。「わたしの掟と法とを守りなさい。これらを行う人はそれによって命を得ることができる」(レビ18:5)。これが意味するところは、誰であれ落ち着いて罪を避ける者は、掟を実行したかのように報われるという事である。
冒頭の「1つの罪を犯した者が自分の魂を失う」はkaretになる罪を犯した場合について言っている。「民から断たれる」と警告された罪を犯す者は、天の法廷による裁きによって若死に、あるいは来るべき世における分を失う。
しかし神は罰することよりも慈しみを望まれる方である。トーラで神ご自身、次のように宣言されている。
主、主、憐れみ深く恵みに富む神、忍耐強く、慈しみとマッコートに満ち、幾千代にも及ぶ慈しみを守り、罪と背きと過ちを赦す。しかし罰すべき者を罰せずにはおかず、父祖の罪を、子、孫に三代、四代までも問う者。
これを図式化すると、次のようになる。
慈しみ:幾千代
懲罰:3代、4代
従って、「幾千代」を仮に3,000代、4,000代と仮定しても、神は罰するよりも赦しを与え、慈しみを施すことを1,000倍望まれる方であることが分かる。
話を戻すが、「Makkot」3章15節で、ラビ・ハナニヤ・ベン・ガマリエルは、1つの罪でkaretになるのなら、掟を遵守することでどれだけ大きな報いを得られるだろうかと説いている。
禁止命令の受動的遵守における倫理的功績(「Makkot 」3章15節)
ラビ・シモンはラビ・ハナニヤ・ベン・ガマリエルの主張を支持し、その正当性は次のトーラの2つの箇所から引き出すことが出来ると言う。
これらのいとうべきことの一つでも行う者は、行う者がだれであっても、民の中から断たれる。
これは近親相姦など、許されない性行為について述べたものである。「民の中から断たれる」とは、もしも犯したならkaretになることを言っている。
同じレビ記18章には、次のようにも書かれている。
わたしの掟と法とを守りなさい。これらを行う人はそれによって命を得ることができる。
禁止命令を守ることによって、「命を得ることができる」と神が約束されている。
これらの箇所から、ラビ・シモンは肯定的命令を実行する場合だけでなく、誘惑に従わず、禁止命令を守ることも、等しく大きな功績であると主張する。
続きには次のように書かれている。
申命記12章23節「血の禁止」と「盗み・不道徳」への誘惑対比
ラビの息子であるラビ・シモンは言う、「トーラには『ただ、その血は断じて食べてはならない。血は命であり、命を肉と共に食べてはならないからである』(申12:23)と書かれている。さて、もし血に対して避けようとする者が報われるなら、盗みや不道徳、それは人が求めるものであるが、それを避けることでどれだけ報われるであろうか、彼の為に、子供たち、孫たち、そして全ての世代の終わりに至るまで!」
この「ラビの息子であるラビ・シモン」の父は、ラビ・ユダ・ハナシというミシュナを編纂した指導者である。
「ラビの息子であるラビ・シモン」はその息子である。
これに対して、上の「ラビ・シモン」は別人で、ラビ・シモン・バル・ヨハイとも呼ばれる。それぞれの人物については、ここでは立ち入らない。
ともあれ、ラビ・ユダ・ハナシの息子であるラビ・シモンは、ラビ・ハナニヤ・ベン・ガマリエル及びラビ・シモン・バル・ヨハイと同じような主張を展開する。以下のようにまとめられる。
①トーラは他の箇所と合わせて、申命記12章23節で「血を食べてはならない」と戒めている。
②その直後、申命記12章28節では次のように書かれている。
わたしが命じるこれらのことをすべて聞いて守りなさい。こうして、あなたの神、主が良しとし、正しいと見なされることを行うなら、あなたも子孫もとこしえに幸いを得る。
血を食べてはならないという戒めを守ることは、自分も、自分の子孫も永遠に報いを得ることになる。
③一般的に人は血を食べる誘惑よりも、盗みや不道徳に対する誘惑の方が遥かに大きい。
④血を食べてはならないという禁止命令を守ることさえ、これだけ大きな報いを得られるのだから、盗みや不道徳を行わないことは、どれだけ大きな功績になるだろうか。
これがラビ・ユダ・ハナシの息子であるラビ・シモンの主張である。
次は「Makkot」の最後を締め括る節になる。
結論:イスラエルへの恩恵としてのトーラと掟の豊穣性(「Makkot」 3章16節)
ラビ・ハニーナ・ベン・アカシアは言う、「聖なる方はイスラエルに恩恵を施そうとされた。そこで神は彼らにトーラと掟を豊かに与えた、次のように書かれている。「主はイスラエルの正しさの為に教えを広げ、強められた 。」(イザ42:21)
これは次のようなことを言っている。
神はイスラエルの民に恩恵を施すことを望まれている。トーラには様々な禁止命令が記されているが、それによってイスラエルが掟を守ることで、豊かな報いが得られることを期待している。
神がトーラを与え、それに多くの禁止命令を含ませているのは、まさにイスラエルへの慈しみの為に他ならない。
してはならないことをイスラエルが守り、永久に至る報いを得ることを望まれているのである。
本稿では「Makkot」3章のほぼ全ての節を扱ったが、それは鞭打ち刑について述べたものである。その最後を飾る教えとして、これ以上相応しい教えがあるだろうか?
罰するよりも数千倍慈しみを望まれる方、私たちの主に永遠に至るまで栄光がありますように。
今回の内容は以上である。
(この記事は、旧約聖書の最高権威モーセ五書[トーラ]と口伝律法[ミシュナ]及びその膨大な参考書の研究に基づいています。日本語圏における聖書学の再構築を継続し、さらなる『掃除』を推し進めるための研究費として、志ある方のご支援をいただければ幸いです)
シリーズ目次は以下からご覧になれます。
◉【シリーズ目次】ミシュナ『Makkot』法理研究
https://note.com/mishnah/n/n66ed90d1aaf4
本記事周辺の時系列目次は以下からご覧になれます。
◉【全体目次Vol.1】ミシュナと旧約聖書・新約聖書:全研究記事リスト(No.1〜No.200)
https://note.com/mishnah/n/nf0de8c6c7334
全記事の時系列目次は以下からご覧になれます。
◉【時系列総目次】ミシュナと旧約聖書・新約聖書:全研究記事インデックス
https://note.com/mishnah/n/nd780d32f266c
(ミシュナの構造による目次は以下からご覧になれます)
◉ミシュナの部(seder)に基づく全記事の目次
ミシュナは生活と信仰の全領域を「種子」「祭日」「女性」「損害」「聖物」「清浄」の6つの部(セデル)で網羅している。各記事を法典本来の分類に配置し直すことで、2,000年前の「律法の現場」における聖書の背景をより明確に提示する。
