「安息日の癒やし」の真実――ミシュナから読み解く、イエスと律法学者の攻防
*福音書に記された、安息日の「癒しの奇跡」。この逸話は一般的には「愛と形式主義の対立」という図式で捉えられますが、当時のユダヤ教の律法から見ると、そこには緻密かつ厳格な「法の論理」が浮き上がります。
本記事では、旧約聖書の最高権威であるモーセ五書(トーラ)と口伝律法『ミシュナ』を参照しながら、安息日に禁じられた39の労働(melachah:メラハー)や、「私的な場所」・「公的な場所」・「半公共の場所(karmelit:カルメリット)」の3つの空間の定義を説明し、イエスの行動が当時の社会にどれ程挑発的であったのかを徹底解説します。
38年病んでいた男への「床を担いで歩け」という言葉に隠された意味を見て下さい。
安息日における癒やし
福音書の中で、イエスは何度か安息日に癒しの業を行っている。
福音書が記す「安息日の衝突」:マタイとヨハネの証言
イエスはそこを去って、会堂にお入りになった。すると、片手の萎えた人がいた。人々はイエスを訴えようと思って、「安息日に病気を治すのは、律法で許されていますか」と尋ねた。そこで、イエスは言われた。「あなたたちのうち、だれか羊を一匹持っていて、それが安息日に穴に落ちた場合、手で引き上げてやらない者がいるだろうか。人間は羊よりもはるかに大切なものだ。だから、安息日に善いことをするのは許されている。」そしてその人に、「手を伸ばしなさい」と言われた。伸ばすと、もう一方の手のように元どおり良くなった。ファリサイ派の人々は出て行き、どのようにしてイエスを殺そうかと相談した。
もう1箇所挙げておこう。
その後、ユダヤ人の祭りがあったので、イエスはエルサレムに上られた。エルサレムには羊の門の傍らに、ヘブライ語で「ベトザタ」と呼ばれる池があり、そこには五つの回廊があった。この回廊には、病気の人、目の見えない人、足の不自由な人、体の麻痺した人などが、大勢横たわっていた。さて、そこに三十八年も病気で苦しんでいる人がいた。イエスは、その人が横たわっているのを見、また、もう長い間病気であるのを知って、「良くなりたいか」と言われた。病人は答えた。「主よ、水が動くとき、わたしを池の中に入れてくれる人がいないのです。わたしが行くうちに、ほかの人が先に降りて行くのです。」イエスは言われた。「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい。」すると、その人はすぐに良くなって、床を担いで歩きだした。
その日は安息日であった。そこで、ユダヤ人たちは病気をいやしていただいた人に言った。「今日は安息日だ。だから床を担ぐことは、律法で許されていない。」しかし、その人は、「わたしをいやしてくださった方が、『床を担いで歩きなさい』と言われたのです」と答えた。
実際、安息日にこれらの癒しを行うことは如何なる意味を持ったのだろうか。旧約聖書の最高権威であるモーセ五書(トーラ)及び口伝律法ミシュナを元に、この問題について解説する。
律法の原則:「生命の危険」は安息日の掟を凌駕する
まず、福音書では、彼らの教えは厳格な律法遵守、形式主義というイメージで語られているが、実はそれにも程度が存在する。ミシュナ「Yoma(ヨマ)」8章を見てみよう。
もし誰かがbulmos にかかってしまったら、たとえ食べてはならないものであっても食べさせる。その視力が回復するまで。
・・・(中略)・・・
ラビ・ベン・ハラシュはまた言った。「もし喉に症状を感じているなら、安息日であってもその口に医薬を点滴する。生命の危険があるかもしれないから。あらゆる生命の危険は、安息日の律法を凌駕する。」
一行目のbulmos(ブルモス)とは、極度の空腹による虚脱状態(低血糖ショックや飢餓による失神に近い状態)を指す。この場合は「たとえ食べてはならないものであっても食べさせる」とある。
ユダヤ教では食べてはならないものが定められているが、この状態に陥った者には、その状態から救う為に食べさせるように命じている。
「視力が回復するまで」とあるのは、「目の光が灯るまで」ともされる。正気を取り戻す程度までということであろう。いずれにしても、飢餓の為に生命の危機に迫られた場合、律法で禁止されたものを食べさせるべきとされている。
後段は「喉が痛い」という、死に直結しなさそうな初期症状である。この場合、ラビ・ベン・ハラシュは安息日における処方を認めているが、それは喉の腫れ(炎症)が窒息や重病につながる可能性を見たものである。
これらは一部の事例であり、「死に至る疑いがある段階」においては安息日の掟の遵守は乗り越えられることを示している。これが1つの原則である。
禁じられた39の「仕事(メラハー)」:幕屋建設との関連性
次は安息日における仕事の禁止についてである。出エジプト記では20章の他、35章でも安息日の仕事の禁止について触れている。35章を引用する。
これは主が行うよう命じられた言葉である。六日の間は仕事をすることができるが、第七日はあなたたちにとって聖なる日であり、主の最も厳かな安息日である。その日に仕事をする者はすべて死刑に処せられる。安息日には、あなたたちの住まいのどこででも火をたいてはならない。
出エジプト記では既に20章で安息日の仕事の禁止について触れている。なぜここで再び同じ掟を書いているのだろうか?
旧約聖書の最高権威はモーセ五書(トーラ)である。トーラ学者たちは、意味なくトーラが同じことを繰り返して言うとは考えない。そこで同じ掟が再び言われた時、その理由を探さなくてはならない。
彼らは次のように考える。「再び安息日の仕事の禁止に触れているのは、その直後に幕屋の建設について書かれていることがヒントになる。トーラでは直接的に禁止される仕事を列挙していないが、禁止される「仕事(melachah:メラハー)」とは、幕屋建設に関連したものであると解釈する。
具体的には、安息日に禁止される「仕事(melachah:メラハー)」は基本的に39あるとされている。以下、そのリストを列挙する。
蒔くこと
耕すこと
刈り取ること
集めること
脱穀すること
簸る(ひる)こと
選別すること
挽くこと
ふるい分けること
捏ねること
焼くこと
毛を刈ること
白くすること
梳くこと
染めること
紡ぐこと
経糸を張ること
2つの綜絖に糸を通すこと
2回織ること
2本の糸を抜くこと
結び目を作ること
結び目を解くこと
2針縫うこと
縫うために破くこと
罠にかけること
屠ること
皮を剥ぐこと
塩をふること
皮をなめすこと
皮から毛を取ること
切ること
2文字以上書くこと
2文字以上書くために消すこと
建てること
壊すこと
消すこと
点灯すること
完成すること(最後の一打)
空間から空間へ運ぶこと
これらの「仕事(melachah:メラハー)」の本質や分類については、以前の記事で詳しく解説した。まだ理解していない方はそちらを読んで欲しい。
◉安息日に禁じられた39のmelachah(メラハー):ミシュナ「Shabbat(シャバット)」により解明される、幕屋建設に関わる創造的活動
この内、「8. 挽くこと」とあるのが分かるだろう。当時は現代のように薬は買うものではなく、植物の根や実を挽くことによって作っていた。
薬を飲むこと自体は安息日に禁止されていない。しかし「安息日に薬を飲んで良いことにしてしまうと、うっかり自分で薬を作ろうとして材料を『挽いて』しまうかもしれない。」
従って、ラビたちは軽度の不調への治療を一律に禁じたのである。
「トーラの周りに垣根を巡らす」:軽度の不調への治療が禁じられた理由
私たちの感覚でも分かると思うが、重要な規則をギリギリのラインで定めても、侵犯してしまう恐れがある。ラビたちは最高権威のモーセ五書(トーラ)の掟を確実に守る為に、その手前に多くの規則を定めているのである。
これらの手前を規則を定めることは、「トーラの周りに垣根を巡らす」と言われる。
また、次の観点からも軽度の不調の治療は安息日にそぐわない。
ユダヤ教において安息日は聖なるものであり、日常からの解放である。
明日でも治せる軽微な不調(鼻風邪や軽い痛み)の治療に没頭することは、「日常の煩わしい事柄」に注意をそらしてしまう事になる。
ベトザタの池の奇跡を検証する:三つの「空間」と運搬の定義
以上は一般的な原則だが、これを前提に、冒頭で引用したヨハネによる福音書5章1~11節の奇跡の場面を解説する。
これはエルサレムのベトザタの池で、38年も病気で苦しんでいた男がおり、イエスが「起きて床を担いで歩きなさい」と言葉をかけると、男は即座に癒やされて歩き出したという逸話である。
上の安息日に禁止される仕事(melachah:メラハー)を見て欲しい。39番目は「空間から空間へ運ぶこと」とされている。床を運ぶことは、このmelachahに関わるものである。「空間から空間へ運ぶこと」の定義は複雑であるが、ここでは以下の通りに整理する。
「空間」は主なもので3つある。厳密には4つだが、話を簡単にする為、3つのみ話すことにする。
①私的な場所
少なくとも4手幅四方で、また少なくとも10手幅の高さの壁に区切られていることを要する。自宅、フェンスで囲まれた庭など。
(1手幅 = 8~10センチ)
②公的な場所
町の道路や広場などで、道路の場合、少なくとも16キュビットの幅(1キュビット = 約50センチ)がある。屋根はついておらず、多くの人の往来があることを要し、その人数を60万人とする人もいる。
都市の主要な大通り、市場など。
③半公共の場所(karmelit:カルメリット)
公的な場所ほどの往来もなく、かつ私的な場所でもない。海、野原などが該当する。
聖書的には、karmelitは「空間から空間へ運ぶこと」の禁止命令からは免責になる。
しかしある点では私的な場所に似ており、別の点では公的な場所に似ており、文字通り「半公共の場所」である。ラビたちは私的、公的双方の規則を適用している。
具体的には、この場所(karmelit)から私的な場所、公的な場所への運びは禁止され、その逆も認められない。それはトーラでは禁止されていないとしても、安息日の景観を損なうからであり、一般のユダヤ人にも躓きになる。もしもこれを認めたら、事実上「空間から空間へ運ぶこと」の禁止は忘れられるだろう。
「床を担いで歩け」という宣告:三重の律法侵犯が意味するもの
さて、以上の前提で福音書の事例に戻る。ベトサダの池は③(半公共の場所:karmelit)に相当する。つまりそこから公共の場所にも、私的な場所にも物を運んではならない。
しかし実はそれ以前の前提もある。そもそも「空間から空間へまたぐような運搬」をしなくても、安息日には4キュビットを越えて運んではならないという掟がある。
上記の通り、1キュビットは50センチほどであるので、私たちの単位では2メートル程になるが、4キュビットを超えて運ぶことは「社会的な活動(労働)」と見なされる。それは禁止されるのである。
最後に、もう1つ床を運ぶことの障害について述べる。それはムクツェ(muktzeh)である。
安息日においては仕事に使う道具や、その日に使う予定のなかった物は、動かすこと自体が禁じられている。それは使わなくてもいいものに触れることで、結果的に仕事(melachah)を行うことになるからである。
従って床を運ぶことは、以下の3つの禁止に触れることになる。
①安息日には「空間から空間へ」動かさないこと
②安息日には4キュビットを越えて動かさないこと
③安息日にはmuktzehを動かさないこと
結論:「何の権威があってそのようなことを言うのか?」
イエスは「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい」と宣言した。それはモーセ五書(トーラ)の掟も、それを守る為にラビたちの定めた規則も侵犯する行為であり、周囲にいた者たちにとっては、許し難い暴挙であったろう。
(この記事は、旧約聖書の最高権威モーセ五書[トーラ]と口伝律法[ミシュナ]及びその膨大な参考書の研究に基づいています。日本語圏における聖書学の再構築を継続し、さらなる『掃除』を推し進めるための研究費として、志ある方のご支援をいただければ幸いです)
本記事周辺の時系列目次は以下からご覧になれます。
◉【全体目次Vol.1】ミシュナと旧約聖書・新約聖書:全研究記事リスト(No.1〜No.200)
https://note.com/mishnah/n/nf0de8c6c7334
全記事の時系列目次は以下からご覧になれます。
◉【時系列総目次】ミシュナと旧約聖書・新約聖書:全研究記事インデックス
https://note.com/mishnah/n/nd780d32f266c
(ミシュナの構造による目次は以下からご覧になれます)
◉ミシュナの部(seder)に基づく全記事の目次
ミシュナは生活と信仰の全領域を「種子」「祭日」「女性」「損害」「聖物」「清浄」の6つの部(セデル)で網羅している。各記事を法典本来の分類に配置し直すことで、2,000年前の「律法の現場」における聖書の背景をより明確に提示する。
