見出し画像

ミシュナ『Sanhedrin』法理研究 第11回:大サンヘドリンの戦争承認権と王の土地通行権・戦利品分配法理、および后妃の上限数(18人)を巡る論争

【学術的免責事項】本稿は、古代ユダヤ法(口伝律法ミシュナおよびタルムード・ゲマラ)の文献記述に基づく、純粋な法制史および比較法学の研究を目的としている。

 本稿は口伝律法ミシュナ第4部『Nezikin(ネジキン)』に属する『Sanhedrin(サンヘドリン)』の第11回目の解説である。

 今回は『Sanhedrin』2章4節に焦点を当てる。ここでは、絶対的な権力を持つとされる「王」であっても、国家の運命を左右する「戦争の開始」には71人の大サンヘドリン(最高法院)の同意が必須とされる法理を解き明かす。さらに、王に認められたインフラ整備のための土地接収権(通行権)、戦利品の優先的・半数分配の聖書的根拠、そしてダビデ王の記述から導き出される王妃の上限「18人」の規定について、ラビ・ユダやラビ・シモン、後世のマイモニデスやラヴァドの法理論争を交えて徹底的に考察する。


前回の振り返り:王の裁判権と証言能力における王朝間の峻別、および王の威厳に伴う婚姻法(chalitzah・yibum)の制限

 前回は『Sanhedrin』2章2節を取り上げ、「王」の法的地位について、ダビデ王朝とそれ以外の王朝(非ダビデ王朝)を厳格に区別した裁判権、証言能力、および婚姻法上の制限について解説した。

 主な内容は以下の通りである。

【1】王の裁判権:裁く権利と裁かれる義務

 ミシュナは「王は裁いてはならないし、裁かれてもならない」と規定しているが、これは王朝の系統によって適用が異なる。

①非ダビデ王朝の王

 第2神殿時代のヤンナイ王が法廷の権威を軽視した逸話に基づき、裁判に関与させない(裁くことも裁かれることもない)というルールが確立した。これは「自ら裁きを受け入れる者のみが他者を裁ける」という法理に基づいている。

②ダビデ王朝の王

 ダビデ家の王は預言者(エレミヤ)によって正しい裁きを行うよう促されているため、自ら裁判を行い、また法に従って裁かれる対象でもある。

 Maimonidesによれば、彼らは律法を遵守し法廷の権威に従うと信頼されていた為である。

【2】王の証言能力を巡る3つの見解

 王が法廷で証言すること(あるいは証言されること)については、以下の3つの法理的視点がある。

①裁判権と同様とする説

 非ダビデ王朝の王には証言能力がないが、ダビデ王朝の王にはあるとする見解。

②威厳重視説

 どちらの王であっても、他者のために証言することは王の威厳を損なうため認められないとする見解。

③聖書解釈説

 申命記の「王に対する畏敬」の規定と、証人が「裁判官の前に出る」という役割は相容れないため、どちらの王も証言できないとする見解。

【3】婚姻法(chalitzahとyibum)の制限

 王の尊厳と王妃の地位の不可侵性を守るため、通常の律法の義務が制限されている。

①chalitzahの禁止

 王が法廷で義姉妹から唾を吐きかけられることは、王の威厳に相応しくないため禁止される。

②yibumの禁止

 王が亡き兄弟の家を再興するために結婚することは威厳に欠けるとされる。また、一度王に嫁いだ女性は他の誰とも結婚出来ないため、王女がやもめになってもyibumの対象にはならない。

【4】「尊厳の放棄」を巡る論争と結論(ハラハー)

 王が自ら志願してこれらの義務(mitzvah)を果たそうとする場合について、意見が対立している。

①ラビ・ユダ

 掟(mitzvah:ミツヴァ)の遂行のためであれば、王が自ら尊厳を放棄してchalitzah等を行うことは許容され、むしろ模範的であるとした。

②ラビたち(多数派)

 聖書の「必ず(王を)立てよ」という記述に基づき、王は常に民に畏敬される存在であるべきで、尊厳の放棄は認められないと主張した。

③ハラハー

 ラビたちの見解を支持し、王によるchalitzahやyibumは一切認められない。また、先代の王の未亡人と結婚することは、たとえその後に即位した王であっても禁じられている。

 このように、王という絶対的な権威であっても、法廷の秩序や聖書が求める「王への畏敬」を維持するために、法的な権利や義務が特殊な形に調整される。

 以上の内容に不安を感じる方は、下のリンクから確認して欲しい。

◉ミシュナ『Sanhedrin』法理研究 第10回:王の裁く権利・裁かれる義務及び証言能力におけるダビデ王朝と非ダビデ王朝の法理的峻別と、王・王女に関わるchalitzah・yibum

https://note.com/mishnah/n/nba9c9d4e8856


大サンヘドリンの合意と戦争の分類


 今回はその続きで口伝律法ミシュナ「Sanhedrin」2章4節である。まずは本文を引用する。

 王は71人の法廷の同意を得て、戦争することが出来る。

(Sanhedrin 2:4)

 王は71人で構成される最高法院(大サンヘドリン)の同意がある場合に限り、任意の戦争(discretionary war)を仕掛けることが出来る。

 トーラで命じられた戦争(カナンの7つの民族に対する征服戦争やアマレクとの戦い)は義務の戦争である。それ以外の戦争を始める前には、必ず大サンヘドリンと協議し、その承認を得なければならない。

王の通行権・接収権と中世法学者の解釈対立


 続きには次のように書かれている。

 自らの為に道を作ることが出来、誰もそれを妨げることは出来ない。必要なだけの広さで作ることが出来、際限は無い。

(Sanhedrin 2:4)

 王は自分の畑やぶどう畑への道を作るために、迂回する必要はなく、他人の所有地の柵を壊して突き進む権利がある。しかしこの箇所について、他にも解釈がある。

①必要な限りにおいて通行することが出来るという意味であり、永続的な仕方で接収することは出来ない(Yad Ramah)。

②王が通行権を行使出来るのは、戦争の時だけである(Maimonides)。

戦利品分配の法的根拠


 続きには次のように書かれている。

 略奪した物は彼の前に置かれ、彼が最初にその分け前を取る。

(Sanhedrin 2:4)

 戦争で得た戦利品について、半分は王のものとなり、残りの半分は、実際に戦った兵士と宿営を守っていた兵士の間で分配される。王は自分の取り分を最初に選ぶ権利があり、かつ敵の国庫(宝物庫)から奪ったものはすべて王のものとなる。

聖書解釈による王と大祭司の法的平等の導出


 王が戦利品の半分を得ることの根拠は、歴代誌上29章22節に求められている。

 その日、彼らは主の御前で大いに喜び祝って食べて飲み、ダビデの子ソロモンを改めて王と宣言し、油を注いで主のものとし君主とした。また、ツァドクを祭司とした。

(歴上29:22)

 この箇所は一見すると、ソロモンの即位について扱っている場面の1つである。しかしここで油を注がれて王となる立場が、大祭司の立場と並べて置かれている。

 神殿の聖所では毎週の安息日にlechem hapanimを置き、先週置いたlechem hapanimは下げる。lechem hapanimは12個あるが、その内の6個は大祭司に与えられ、残りの6個は祭司たちの間で分けられる。

 ここから、ちょうど大祭司が半分のlechem hapanimを受け取るように、王も戦利品の半分を受け取るという法理が引き出されている。戦利品について、後方の守備隊にも分けられることは、サムエル記上に書かれている。

前線兵士と後方守備隊による戦利品の分配

 22ダビデに従って行った者の中には、悪意を持つならず者がいて、言った。「彼らは我々と共に行かなかったのだ。我々が取り戻した戦利品を与える必要はない。ただ妻と子供を受け取り、連れて行くがよい。」 23しかし、ダビデは言った。「兄弟たちよ、主が与えてくださったものをそのようにしてはいけない。我々を守ってくださったのは主であり、襲って来たあの略奪隊を我々の手に渡されたのは主なのだ。 24誰がこのことについてあなたたちに同意するだろう。荷物のそばにとどまっていた者の取り分は、戦いに出て行った者の取り分と同じでなければならない。皆、同じように分け合うのだ。」

(サム上30:22~24)

 これは前線に出ていった兵士が、後方の守備隊にまで戦利品を分けることに難色を示した場面である。ダビデは後方の部隊にも戦利品を分けるように裁定した。

后妃の最大数制限


 続きは王に許された妻の人数である。次のように書かれている。

 多くの妻を娶ってはならない。18人までである。

(Sanhedrin 2:4)

 まず、許可される妻の最大数は18人とされている。これは、ダビデ王に対する預言者ナタンの言葉から導き出された数字である。

 あなたの主君であった者の家をあなたに与え、その妻たちをあなたのふところに置き、イスラエルとユダの家をあなたに与えたのだ。不足なら、何であれ加えたであろう。

(サム下12:8)

 「不足なら、何であれ加えたであろう」の「何であれ加えたであろう」の部分の原文は「わたしはあなたにこれらのように、またこれらのように加えたであろう(I add unto you like them and like them)」である。

 この時、ダビデの妻は6人であった。「これらのように」を2回繰り返しているので、6人を更に2回まで繰り返した数が上限と解釈されている。そこで王の妻は最大で18人になる。

正妻と側女の数に関する中世法学派の対立


 ただ、この18人の立場については専門家の間で争いがある。Maimonidesは正妻と側女を合わせた数であるとし、Ravadは正妻の上限は18人であるが、側女には制限がないとしている。

 これに対してラビ・ユダ(Rabbi Judah)は異論を唱えている。

 ラビ・ユダは言う、「それよりも多くの妻を娶ることが出来る。妻たちが彼の心を背かせないなら。」

(Sanhedrin 2:4)

 ラビ・ユダはトーラの次の箇所を根拠にしている。

 王は大勢の妻をめとって、心を迷わしてはならない。

(申17:17)

 トーラが王の妻の人数について警告しているのは、「心を迷わせる」からである。そこで、ラビ・ユダは心の清い妻であれば、18人を超えてもよいと主張する。

 これに対してラビ・シモンは次のように続けている。

 ラビ・シモンは言う。「たとえ1人の妻であっても、彼の心を背かせるのなら、彼女と結婚してはならない。」

(Sanhedrin 2:4)

 ラビ・シモンによると、たとえ18人に満たない妻たちであっても、その妻たちが迷わせるのであれば、王は結婚してはならないと述べる。

アビガイルの事例にみる徳高い妻の人数制限


 続きには次のように書かれている。

 「・・もしそうであるなら、なぜこのように言われているのか。『多くの妻を娶ってはならない』(申17:17)と。たとえアビガイルのような妻であっても。」

(Sanhedrin 2:4)

 ここには直訳を載せたので、意味が取りにくい。ミシュナの本文の難しさの一端が、よく分かると思う。簡潔すぎて意味が理解出来ないのである。

 話の流れとして、ラビ・シモンは「たった1人でも、心を迷わせる女性であるなら、王は結婚してはならない」と主張した。

 その続きとして、ラビ・シモンは「たった1人でも不可であるなら、なぜトーラに『多くの妻を娶ってはならない』と書いてあるのか?トーラでわざわざこのように戒めているのは、たとえアビガイルのような徳高い妻であっても、多く娶ってはならないことを警告する為である」という事を言ったのである。すなわちトーラの言及は、どれ程賢明な妻たちであっても人数に上限があることを示している。

 この見解と同様に、Ravは18人という制限は、如何なる徳高い妻をも含むとしている。Maimonides(Rambam)も、王は、妻がどのような性質であっても18人を超えて娶ることは出来ないとする。

 今回の内容は以上である。

(この記事は、旧約聖書の最高権威モーセ五書[トーラ]と口伝律法[ミシュナ]及びその膨大な参考書の研究に基づいています。日本語圏における聖書学の再構築を進めるためのご支援をいただければ幸いです)

 シリーズ目次は以下からご覧になれます。

◉【シリーズ目次】ミシュナ『Sanhedrin』法理研究

https://note.com/mishnah/n/n8cf87c1bb399

 本記事周辺の時系列目次は以下からご覧になれます。

◉【全体目次Vol.2】ミシュナと旧約聖書・新約聖書:全研究記事リスト(No.201〜No.300)

https://note.com/mishnah/n/na80e65fb273e

 全記事の時系列目次は以下からご覧になれます。

◉【時系列総目次】ミシュナと旧約聖書・新約聖書:全研究記事インデックス

https://note.com/mishnah/n/nd780d32f266c

(ミシュナの構造による目次は以下からご覧になれます)

◉ミシュナの部(seder)に基づく全記事の目次

https://note.com/mishnah/n/n4ccb130fe6ef

いいなと思ったら応援しよう!