ホントウの話(1)…戦後のベビーブーマーとして生まれ、月千円の授業料を払って博士学位まで取れた。奨学金の借金は総額240万円(20年割賦)
今から考えると不思議な感覚すら覚える。
四国の山の中の小さな町に生まれて、数年後に四国の中核都市に引っ越して、今で言う受験年代を迎えた。
家庭環境からも、とても私学に行ける状況ではなく、国公立の授業料の安いところしか選択はできなかった。
幸運だったのは、塾や予備校など行きたくても無い時代であった。
受験の時に、初めて東京という大都会に出向いた。地下鉄が3階から出発し、バスが2階から出発と言う奇妙な光景にも出くわした。
目出度く受験合格となり(もちろん受験は一校のみ)東京での生活が始まった。
当時は、学園紛争が頂点に達していた状況で、入学時にあった入学式で当時のO総長が、『講堂に入る時に学生にコートを破られた』と言ったのを記憶している。その時の入学式の総長の話は全く覚えていない。
若い時は、すぐに都会の生活にも慣れたが、不思議な時代だった。
・大学授業料は学部月千円 奨学金八千円(うち返すのは3千円)
・上京する際には『米穀通帳』なるものを持参した(米配給)
・コンピュータなども無いので、計算は『計算尺』を使って、アボガドロ
数という6×10・23乗という途方もない桁数の大きい計算も試験の際
にやらされた。
・もちろんスマフォなどという文明の利器もなく、実家への連絡は、ピン
ク電話だった
・電話自体が地方では申し込んでも1年以上待たされ、電話債券なるもの
を買わされた
・学校の生協食堂では、(A)ランチ 80円 (B)ランチ 60円 そしてお
金に余裕がある時は(S)ランチ 120円の贅沢だった
とにかく生協の味噌汁はワカメがお椀に張り付いていた
・当時、少年マガジンや少年サンデーなる漫画は人気だった。
あしたのジョーなど人気の漫画があった
・もちろん、巨人・大鵬・卵焼き の時代で、地方では、巨人戦以外のテ
レビ中継は皆無だったので、ほとんどが巨人フアンだった
このような状況の中で学生生活はスタートしたのだが、その後予想もしない展開となった。
この時代が悪い時代とは今から見てもとても思えないし、社会との接点が濃い時代でもあった。
(続く)
