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2018年 大村家

 肝心の大村家のことももう少し知っておかなければなない。ただ純忠の数代前、純治や純伊以後の記述は信用しても良さそうだがそれ以前の家系となるとあちらこちら調べても「作られた家系」と言うワードが散見される。一応「大村市史」によれば遠江権守だった河野七郎なる人物が伊予に蟄居、祖父の藤原純友を祀った功によりその伊予に領地を得たようだ。反乱の張本人を祀って何故そういう話になるのかは簡単に理解できた。浮かんだのは菅原道真である。平安朝の貴族たちは怨霊に怯えていたという。純友と示し合わせるように関東で乱を起こした平将門も丁重に葬られているではないか。
 その後この人物が大村に入領し大村姓を名乗ったとされている。伊予で河野姓と言うことは後の伊予河野家とも関係があるかも知れない。それに藤原純友の血筋となれば四国や瀬戸内の水運との関係は頭の隅っこに入れておいた方がいいだろう。後に西海の地を治める近江佐々木の家系が加わったことで水軍力を誇ってきた大村軍である。チェックマークを入れないわけにはいかない。また有馬家も同じ藤原純友の血筋という話もあるのだがこちらの方は古くからの地元の豪族と言う説もあり「諸説あります。」というところか。ただもしそうならば純忠の養子によって有馬と大村の縁がさらに強くなったという見方もある。有馬は越前松平の隣藩となりいずれ老中格となる家、結城松平と近かったのか徳川本家とは距離を置く結城家への牽制だったのかは定かではないとしても。
 以降、途中の時代はスルーして純忠の二代前の純伊期あたりには松浦や有馬との関係は混乱を極めている。大村の歴史はある時期は松浦と手をつなぎある時期は有馬と同調する、その繰り返しなのだ。たとえば純伊の父である十五代純治は有馬と関係悪化、合戦がたびたび起きていたようだ。となれば松浦との関係は良好だったのだろう。時期的に佐々木大原がやってきた頃でもある。婚姻関係を見てもそれ以前からの繋がりもはあったものの松浦との関係はさらに深くなっているようだ。有馬にせよ松浦にせよ大村家のみならず家臣団においてもそれぞれに分家関係が出来ていく。このことが最終的に純忠の時代になって大村家内部での分裂をもたらせて行く結果にはなってしまうのだが。
 話を戻すと純治自身の正室は家臣朝永氏の娘となっている。この朝永氏はどうやら藤原純友の子、直澄に従っていたとある。大村家との関係は大村市史を信用すればその頃からということになる。特に純治期の有馬との数度の合戦で功績をあげ旧臣の中でも筆頭格に近い地位を得ている。筆頭格には福田氏の存在もある。こちらは平家直系の様で元寇の際の博多湾の戦いで戦果を挙げ西九州に根付いたようだ。大きく名前が出てくるのは次の純伊の時代、有馬に攻められ純伊が佐々方面に潜伏する際に尽力したようである。これ以降福田氏も正式に大村氏配下となっているが歴史的に見てこの辺りが旧領だったのだろう。この後さらに荒れる大村領だが朝永氏、福田氏に限ってはともに大村方として活躍した重要な家臣と言える。
 ただこの純伊の時期に北と南の関係が逆転する。潜居のあと純伊は有馬に勝利し大村に戻る。和睦によって有馬の姪を妻とすることになる。今度は有馬と連合して佐々を攻めおそらく平戸系の分家であろうこの地の松浦氏を配下としてしまう。当然松浦との対立が表面化して来るのだ。佐々木大原がたった二代目で西海に渡る時期とも一致する。
 ちなみにこの純治、純伊親子に関しては記録に名前が残る際の年齢が高齢過ぎるなどの没年や出来事の正確性に矛盾が生じている。同一人物説や親子逆転説まであるぐらいなのだ。筒井康隆氏が先祖の日和見の汚名を晴らすべく書いた「筒井順慶」にも似た話がある。小説などあまり読まない私だがこの先生の作品だけは学生時代に読破している。いずれにしてもこの矛盾が大村家自身による歴史改ざん説の根拠の一つにもなっているのだが別な見方をすれば純忠による城下焼き討ちによって大村サイドではそれ以前の記録に乏しく松浦や佐賀に残る曖昧な記述を寄せ集めた結果そうなってしまったという読み解き方もできる。
 一代飛ばしていよいよ純忠期の話となる。いざこざの絶えない大村だが大きな戦としては二つ、葛が峠の戦いと三城七騎籠りが挙げられる。これ以外に西海の崎戸島に松浦勢が攻め込んだという記録もあるがこれは西海水軍の活躍で蹴散らした様である。また合戦とは言えないがせっかくポルトガルに開港した横瀬が一年で焼き討ちされるという事件も起こっている。
 この期の争いの構図は松浦対大村という単純な話だけではない。武雄を領とした加藤高明が大きく絡んでくる。そもそも彼は本来大村家の嫡子、でありながら松浦の養子となり武雄に移されたのだ。で大村の家督を継いだのは有馬から養子に来た大村純忠だった。純忠の母親が大村家の血筋だったとは言え家と領地を奪われた高明にすれば屈辱的な話だ。その後何度も大村を取り返すべく攻め入ることになる。また一方でキリシタン対反キリシタンと言う構図もありそこには佐賀の龍造寺も絡んでくるのだ。一地域の小競り合いではなく龍造寺となればもはや力との戦いになる。九州全体の話からさらには秀吉との関係にまで広がってしまうのだ。
 まず一五六九年の「葛が峠の戦い」だが近くの宮村を預かっていた大村純種が武雄に同調し反乱を起こしたのが始まりである。大村姓と言うことは関係は不明だが分家か傍系だろう。この戦いは南風崎(はえのさき)の戦いとも呼ばれているようだ。ともかく大村を二分した戦いなのは間違いない。
 これにまず対したのはやはり大村姓の大村純定とある。もとの姓は大多和とあるから現在の西海市大田和と関係があるかも知れない。純忠も出陣していたが戦況は松浦軍本体の南風崎上陸により大村方の大敗、純忠を大村へ逃がすためしんがりを務めた西海の小佐々純俊、純吉親子も討死している。さらなる西海からの援軍により純忠は無事大村に辿り着き、この親子の首も守られたと言う。南風崎と言うのは土地勘のない方にはハウステンボスと言ったら判り易いと思う。ハウステンボス自体は針尾島側にあるのだが一見川に見える瀬戸の対岸の場所でハウステンボス駅があるのが南風崎だ。
 この三年後、一五七二年には家臣は七名のみ、あとは婦女子だけといった状況で三城館(三城城)を取り囲まれるという事態が起きている。この時の包囲軍は松浦、武雄軍だけでなく諫早の西郷氏も加わっていた絶体絶命のピンチだ。純忠自身も最期の宴を開いたと言われている程である。この時は援軍に駆け付けた旧臣の富永又助の策略で先ずは諫早軍を蹴散らし、近寄れず手も出せずにいた家臣や援軍が加勢したことで松浦、武雄は撤退を余儀なくされたとのこと。後に「三城七騎籠り」と呼ばれる戦いである。
 この二つの話でも判る通り大村の合戦の記録には「援軍」と言う単語がやたらに目につく。一体どんな軍事態勢だったのだ。私にはとりあえずそこが引っ掛かる。純伊の時代に有馬との間に萱瀬で起きた中岳合戦でも「援軍により」と語られている。身内すら信用できないこの時期に敢えて本城の周りには城下町を造らず家臣の武士団も分散配置したということなのだろうか。規模は全く違うが信長のスタイルに似ている気もする。特に大村純忠と言えばその気性の激しさや対外国戦略から信長と比較されることも多い。討死説や既に家臣に暗殺されていたという憶測がある点でも共通項がある。列島の西の端に「もう一人の信長が居た。」と言っても過言ではない。
 話は戻って家臣の分散配置と言う視点で考えれば本城は場所を転々としながらも指揮命令の中枢機能だけで極めて現代型のネットワーク組織だっということにはなるのだが「首を取るか取られるか」の時代である。あまりにもリスクがあり過ぎないか。とくに目前の敵である武雄に対しては郡川を北側の堀として扇状地全体が「総構え」的になっているとは言っても小田原のように特に手を施して守りを固めた痕跡は見当たらない。地理的には結構無防備なのだ。この答えを導くには私の現在のデータベースでは情報が少なすぎる。時期尚早としか言いようがない。

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