不登校の親だって、障害児の親だって遊びに出ていいんだよ
子どもが不登校になって
どこに行くにも子どもが一緒。
その状態が長かった私。
少し落ち着いてきた頃はまだ、
私ひとりおいしいランチを食べてくるとか、
自分の楽しみのためだけに出かけることに
罪悪感を感じてた。
研修関係に出かけるのは
罪悪感が少なくなるからか、行きやすかった。
そのうち、自分だけの時間がとれると
自分が軽くなることがわかって、
自分のための時間をとろうって
思えるようになった。
行ってきまーすって出かけられるようになった。
でも、正直しんどかったとこもあった。
出かける前に沢山の準備をしておく必要があったから。
研修で一日出かけるとか、
ライブに出るとか、
そこに向かう前に力使い切ってますって
そんな感じな時もいっぱいあった。
でも、そんなを繰り返して
「ごめんね~」で帰ってくるんじゃなくて、
おいしいご飯や
私が見たきれいな景色や
楽しかったことを
見せたいって思える、共有したいって思える、
そんな家族が待っててくれるありがたさを感じるようになった。
帰ってきて、
私は今日こんなことがあったよ、
家ではどんなことしてたの?
って
離れる時間ができた分、
話をするのが楽しみになった。
そして、こないだは
不登校の親子の居場所に
子ども達が私を送り出してくれた。
子どもたちは
「今日は家でのんびりがいいから
行かなくていいや。
でも、さとこちゃんは行ってきなよ。
あの漫画、読みたいでしょ。5冊は読んで来い!!」
そういって、
クイックルワイパーで床掃除をはじめた次男。
長女は、
「洗濯機から洗濯物出しておいて。干しとくから」
って。
その気持ちと行動が、
すごく嬉しかった。
付き添い、のつもりで行き始めた場所。
でも、子どもたちは子どもたちで
私のことを見てくれていた。
大人とか、親とか、子どもとか、
ほんと関係ないなと思った。
「昔のさとこちゃんは
人のことばかり考えてないで、自分のこと考えろよアホって感じだったよ」
そんな風に私のことを見てた次男が
私のことをみて、
自分に何ができるか考えて応援してくれるようになった。
自分の内側をしっかり感じて、自分のことを考えられる人は
きっとしっかり相手のこともフィルターをかけず
そのまんま見れるようになる。
相手の欲してることに沿って
相手の方向に沿って自分にできることを
考えられるんだなって
子どもたちをみてて思った。
色んなことに敏感で繊細で
こだわりも強くて。
正直小さい頃は
感覚の違いがわからなさすぎて
本当に大変だったし
今もそこに対応するための
日常におけるこの実務の量が多い!!
あー、もう!めんどくさい!!
って思うことも正直ある。
でも子どもたちのその繊細さは
人を受け入れる許容量や優しさにも繋がってる。
繊細なようで、
自分の声を聴くことがすごく上手。
一瞬一瞬で人が変化することもわかってる。
実はすごい太い芯を持ってる子たちだと思う。
不登校になったり障害の診断がついたり、
当事者にならないとわからない
想像もつかなかった「実務」みたいなものは
細かに結構ある。
どれだけ家の外にサポートが増えても、
家庭内でやるのは母親だけだったりもする。
子どもに応えよう、そんな気持ちも強くなりがち。
でも、まずは子どものことじゃなくて
自分の声を聴くことに集中。
今の状況があるから何を感じてるの?
何を心配してるの?
何が嫌だったの?
疲れた?
悲しかったの?
認めてほしかったの?
どうしたら楽になる?
本当はどうしたい?
どうだったら嬉しい?
何をしたら喜ぶ?
子どものことを一生懸命わかろうとするけど、
その前に、
自分にも聴いてあげてほしい。
苦しいのをごまかすために
無理に楽しくすることない。
自分の本当の声を聴いてあげるために、
一人になる時間とか、
ほっと身体をゆるめたり、
自分に集中できる時間をとるのは
とっても大事な時間だと思うんだ。
子どものためって考えることが多い母こそ
自分のための時間をとってみて。
自分のことを聴けるようになって
自分の素直な気持ちに許可が増えれば増えるほど、
子どものことをそのまま聴けるようになるから。
自分の声がまず聴こえるようになる。
そうすることで
お互いの幸せを想う気持ちが
循環しだすから。
自分のためだけに、遊びに出かける。
最初は抵抗あるかもだし、
子どものこと心配になったり
罪悪感を感じたりするかもだけど、
そんな自分によくやってるねって
声をかけて
母が楽しんでる姿を見せてあげるといいと思う。
子どもも、母が楽しむ姿を見たいと思ってるから。
母が子どもの笑顔をみたいと思うのと同じように。
