エッセイを書く文志の方々へ|そのペンはなんのために?(昨今の「心が折れた」に効くエール)
この記事は、ちょっとセンシティブな話題に触れますよ。
気持ちが柔らかい時には、注意して読んでください。
こんにちは、こんばんは。ミトシです。
しがないイラストレーター兼ライターとして、noteをやっています。
いわゆる「売れない」族とも取れる人間なんですが、
それでも送りたいエールがあるんです。
エッセイストには去来や文章力といった“武器”を持たせるべきなのか?
最近、特にnoteでエッセイを書く人たちにも、
「気持ちが折れそうになった」「実際折れている」という
話題のXポストがあります。
(今回はその引用はしません。)
(多分、後で理由はわかるんじゃないかと。)
そのXポストの内容を要約というか、ちょっとした切り取りをすると、
「エッセイを書くには、去来や個人の訴求力が重要」
「文章力だけでは、金メダリストの書くエッセイに勝つのは大変」
みたいなことでした。
これに、“バズ”とか“炎上”って言葉を使っていいのかは、
判断が分かれると思いますが、私が言いたいのはそこではないんです。
その文章を、乱闘したり、痛がりすぎることに、使っていいのか?
噛み付いてしまうのは、わかります。
痛がってしまうのも、わかります。
人間だもの。反応しちゃうもんです。
でも、エッセイを書くほどの「叫びたい日常がある人」が、
その文章を折れさせたり、戦い競わせ比べさせることに、
使っていいんでしょうか?
そうしたら、きっと「小さな日常」を大切に書く自分に、
ちょっと勿体無くはないでしょうか?
確かに、反応しちゃう。
そりゃ、無宣告に放たれた、業界の一手です。
刺さりますよ。
表現で選ばれたい人なら、つい読んでしまいます。
でも、リテラシー能力の問われる昨今に、
こんな無遠慮に放たれたビジネスの一発を、
敢えて食らいに行って折れてて、戦ってて、いいんでしょうか?
Xというプラットフォームだから、
バッジや肩書きがあったとしても、
本当にその人なのかとか、どうなのかはわからないんですよね。
だってバッジは料金払えば付いてきますし、
文章を生業にしているならば、その言葉は誰にでも刺さること、
想像に難くはないはずなんすよね。
(どちらも同調できないし、味方にはなれないけど。)
事実、表現の世界って厳しいです。
私も、元芸術学部の学生なので、(卒業できてないけど、)
表現の世界の厳しさは知っています。
トップクリエイターになる人というのは、違うんだと。
何度も何度も思わされた側の人間です。
でも、たぶんこの人が言いたいのは、
「訴求力は文章力以外にも作れる」とか、
「その訴求力を無視しては、出版できない」とか、
事実でありつつ優しい気持ちもあると思いたいんですよ。
それを、論点がずれて、
「noteで無料でエッセイを書くのは無駄なのか!」と
誤解はしていませんか?
たぶん、この人が本当に編集者であれば、
そんなことは1ミリも言ってないっす。
あと、当たりに行って痛がってるの、乱闘してるの、
読者は見たいんですかね?
文志諸君よ、冷静にペンを取れ。
それで折れてていいんですかね?
文志だろうし、それなら「自分自身のエッセイで」表現することで、
打席に立ち続けなければいけないんではないでしょうか?
今は凡退だったとしても、
退場させられたり、悪い当たりどころに当ててたら、
次の打席に立っていられないじゃない。
「自分自身のエッセイで」表現するならば、
決してこのことには触れないのが、正解なのかもしれませんよ。
「その事実を分かった上で書くエッセイ」の方が、
覚悟があって私は大事だと思います。
(とは言えど、私のこの記事にも、めくじらを立てて貰われると、)
(大変困るんですけどね;;)
(エールとしてこの記事を書いているつもりなんです。)
とりあえず、我々にできることは、
「自分の表現で自分に勝つ」ことで、『成長していく』ことではないですかね?
有象無象が、好きなことを喋り散らかしました。
忘れてくださって、大丈夫ですよ。
でも、一緒に書こう(描こう)よ。
表現者なんだから。
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