温故知新(96)倭の六県 山邊御縣坐神社 添御縣坐神社 葛木御縣神社 金剛山葛木神社 葛城一言主神社 高鴨神社 高天彦神社 高市御県神社 河俣神社 高市御縣坐鴨事代主神社 志貴御縣坐神社 十市御縣坐神社 天高市神社 木梨軽皇子 東宮山古墳
倭の六県
かつて大和国にあった六ヶ所の朝廷の直轄地「倭の六県(やまとのむつのあがた)」(高市県、葛木県、十市県、志貴県、山辺県、曽布(添)県)の一つ「山辺県(やまのべのあがた)」の守護神として祀られたものと考えられています1)。「御縣」は古代の朝廷の直轄地のことです。
山辺県
奈良県天理市別所町と天理市西井戸堂町に山邊御縣座神社(やまのべみあがたにいます じんじゃ)があります(図1)。山邊御縣座神社(天理市別所町)と山邊御縣坐神社(天理市西井戸堂町)を結ぶラインは、石神神宮(天理市布留町)とオリンポス山を結ぶラインとほぼ直角に交差し、後者のラインの近くに稗田阿礼を主祭神とする賣太神社(めたじんじゃ)(大和郡山市稗田町)があります(図1)。石上神宮は、社伝によれば、物部氏の伊香色雄命(開化天皇と推定)が「布都御魂剣」を現在地に遷し、「石上大神」として祀ったのを創建としています。

曽布(添)県
奈良県奈良市三碓と奈良市歌姫町に、添御縣坐神社(そうのみあがたにいますじんじゃ)があります1)(図2)。「添」は曽布(添)県のことです。富雄地域は、イワレヒコ(後の神武天皇)が東征した際、ナガスネヒコ(長髄彦、海幸彦、名草彦命と推定)と戦った場所とされ、添御縣坐神社はナガスネヒコの霊を祭ったのが創始とされています。
添御縣坐神社(歌姫町)と添御縣坐神社(三碓)を結ぶラインは、薬師寺(奈良市西ノ京町)とスカラ・ブレイを結ぶラインとほぼ直角に交差し、聖ミカエルの山と神功皇后の陵墓と推定される富雄丸山古墳を結ぶラインは、添御縣坐神社(三碓)の近くを通ります(図2)。神功皇后は、神武天皇ともつながり、ナガスネヒコ(長髄彦、海幸彦、名草彦命と推定)ともつながっているので、イワレヒコ(神武天皇)とナガスネヒコ(長髄彦)も、時代は異なりますが同族と推定されます。添御縣坐神社(歌姫町)の近くには、神功皇后と対立したと推定される仲哀天皇の陵墓と推定される佐紀陵山古墳があります(図2)。

志貴県
奈良県桜井市金屋に志貴御縣坐神社があります。三輪山と志貴御縣坐神社を結ぶラインは、玉列神社(桜井市慈恩寺)とパレルモを結ぶラインとほぼ直角に交差します(図3)。後者のラインの近くに狭井神社(狭井坐大神荒魂神社)(桜井市三輪)があります(図3)。

十市県
奈良県橿原市十市町に十市御縣坐神社があります(図4)。十市御縣坐神社と天高市神社(橿原市曽我町)を結ぶラインは、耳成山とマラケシュを結ぶラインとほぼ直角に交差します(図4)。

葛木県
葛城の地は、旧豪族の葛城氏の勢力圏で、葛木御縣神社(葛城市葛木)や允恭天皇の皇子の大長谷若建命(木梨軽皇子と推定)を祀っていると推定される葛城一言主神社(御所市森脇)があります(図5)。葛木御縣神社と一言主大神を祀る金剛山葛木神社(御所市高天)を結ぶラインは、葛城一言主神社とメンフィス博物館を結ぶラインとほぼ直角に交差し、パレルモと全国鴨社 元宮 高鴨神社(御所市鴨神)を結ぶラインは、高天彦神社(御所市北窪)の近くを通ります(図5)。

葛城一言主神社とアルジェを結ぶラインの近くには、叡福寺北古墳(聖徳太子磯長陵)、允恭天皇の陵墓と推定される岡ミサンザイ古墳、難波八幡神社(大阪市浪速区)、姫嶋神社(大阪市西淀川区)があり、このレイラインは、木梨軽皇子(大長谷若建命と推定)と允恭天皇や崇峻天皇(厩戸皇子と推定)を結び付けていると推定されます(図6)。允恭天皇の母である磐之媛命は、葛城氏の祖である葛城襲津彦の娘で、仁徳天皇の皇后となりました。また、葛城烏那羅(かつらぎのおなら)は聖徳太子(厩戸皇子)の側近として知られ、太子に仕えた葛城氏の人物です。

高市県
奈良県橿原市四条町に高市御県神社があります(図7)。橿原市雲梯町にある鴨八重事代主神を祀る河俣神社は、高市御県坐鴨事代主神社に比定されています1)。『出雲国造神賀詞』に、事代主命を「宇奈堤」の神奈備において天皇の守護神としたとあり、河俣神社は、卯名手の杜とも呼ばれていました。高市御県神社と河俣神社を結ぶラインは、神武天皇陵(橿原市)とヴェストラホルン(Vestrahorn)山を結ぶラインとほぼ直角に交差します(図7)。

高市郡明日香村岡に高市御縣坐鴨事代主神社 (岡えびす神社)があります(図8)。高市御県神社と金剛寿院 吉祥草寺(御所市茅原)を結ぶラインは、高市御縣坐鴨事代主神社 (岡えびす神社)とアルテミス神殿を結ぶラインとほぼ直角に交差します(図8)。後者のラインの近くに河俣神社があります(図8)。

岡田賀茂神社、上賀茂神社(賀茂別雷神社)
金剛寿院 吉祥草寺のある茅原は役行者(役小角)の出生地とされ、当寺は役行者により開基、舒明天皇により創建されたと伝わっています。役氏(えんうじ)、役君(えん の きみ)は三輪系氏族に属する地祇系氏族で、葛城流賀茂氏から出た氏族であることから、加茂役君、賀茂役君とも呼ばれています。下記ブログによると、葛城氏滅亡後、葛木の地を離れた鴨氏と秦氏が、最初に移住した場所が、賀茂県主氏の祖である建角身命(須佐之男命、孝霊天皇と推定)を祀る岡田鴨神社(京都府木津川市加茂町北)のある地域とされています(図9)。鴨氏と秦氏は姻戚関係にあったともいわれます。金剛寿院 吉祥草寺の真北に上賀茂神社(賀茂別雷神社)(京都市北区上賀茂本山)があり、南西方向に秦氏の氏寺の広隆寺(京都市右京区太秦蜂岡町)があります(図9)。役行者は、20代の頃に藤原鎌足の病気を治癒させたという伝説があり、藤原氏とも関係があったと推定されます。

佐味田宝塚古墳と葛城襲津彦
葛木御縣神社と石上神宮を結ぶラインは、高市御県神社とパレルモを結ぶラインとほぼ直角に交差し、後者のラインは、葛城襲津彦の墓と推定される佐味田宝塚古墳の近くを通ります(図10)。高市御県神社と石上神宮を結ぶラインの近くには、十市御県神社があります(図10)。

葛木御縣神社とアルテミス神殿を結ぶラインは、允恭天皇の陵墓と推定される岡ミサンザイ古墳の近くを通り、このラインは、佐味田宝塚古墳と弘川寺(大阪府南河内郡河南町)を結ぶラインとほぼ直角に交差します(図11)。

葛城氏など朝廷の直轄地である倭六県の県主は、葛城襲津彦や、允恭天皇、大長谷若建命と血縁関係があったと推定されます。大長谷若建命(一言主神、木梨軽皇子と推定)は、雄略天皇(大長谷王、昆支王、倭武と推定)とは別人と推定され、蘇我氏などの渡来系豪族が、葛城襲津彦の父である建内宿禰(武内宿禰)を祖としているのは創作と思われます。
葛城一言主神社と木梨軽皇子妻鳥陵墓参考地の東宮山古墳(愛媛県四国中央市妻鳥町)を結ぶラインは、日前神宮・國懸神宮とヴェストラホルン(Vestrahorn)山を結ぶラインとほぼ直角に交差します(図12)。葛城一言主神社と東宮山古墳を結ぶラインの近くには、大山寺(徳島県板野郡上板町)があり、日前神宮・国懸神宮とヴェストラホルン(Vestrahorn)山を結ぶラインの近くには、播州西脇成田山(兵庫県西脇市)、青倉神社(朝来市)、峰山 蓮華寺(豊岡市)があります(図12)。このラインは、一言主神が木梨軽皇子(大長谷若建命)と推定されることと整合します。

文献
1)新古代史の会(編) 2025 「歩いて学ぶ日本古代史1 邪馬台国から大化の改新まで」 吉川弘文館
