本能寺の変 1582 光秀という男 2 98 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』
光秀という男 2 「立入左京亮入道隆佐記」
光秀は、土岐氏の家臣だった。
これが、動かぬ証拠である。
美濃国住人、土岐の随分衆なり、
明智十兵衛慰、其の後上様より仰せ出され惟任日向守になる、
弓取りはせんじてのむへき事に候。
光秀は、希望の星。
憧れの的だった。
名誉の大将なり、
弓取りはせんじてのむへき事に候、
(「立入左京亮入道隆佐記」2/2)
光秀は、随分衆だった。
「随分衆」とは、身分の高い者をいう。
「立入左京亮入道隆佐記」の次の条は、荒木村重の謀叛に関する記事。
その結末部分。
関係者処刑の場面である。
その中に、身分の高い女房衆たちの最期の様子が描かれている。
立入宗継は、ここでも、「随分衆」という言葉を、同じ意味で、
用いている。
しかし、家中における地位がよくわからない。
「上」、「中」、「下」。
何れで、あろうか。
「随分衆」というからには、「下」ではなかろう。
「貴種」。
すなわち、血脈が尊重された時代である。
明智氏は、土岐氏の一族。
その分流の一つ。
嫡流家は、幕府奉公衆の家柄だった。
ところが、光秀は「足軽」として、召し抱えられている。
したがって、嫡流家筋ではない。
庶流である。
ゆえに、「上」ではない。
また、細川藤孝との出会い。
光秀の妻が、妻木氏の出であること。
信長の家臣になったこと。
これらのことも、考慮せねばなるまい。
以上から、光秀の明智氏は、土岐氏の、中堅クラスの家臣だった
のではないか。
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