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本能寺の変 1582 信長の台頭 8 304 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

信長の台頭 8 三好の衰退 

永禄6年(1563)、春

信長は、小牧山に築城を開始した。

 清洲の北東、二里半(≒10km)の地。
 犬山への、ちょうど中間地点。
 標高85mほど。

狙いは、犬山城。

 小牧山から、さらに、北北東へ、二里半。
 間には、遮るものが何もない。
 北側を、木曽川が流れていた。
 川を越えれば、そこは美濃。
 
 城主は、織田信清。
 信長の従兄弟である。
 叔父信康の子。
 妻は、信秀の娘。
 したがって、義兄弟でもあった。
 この頃は、信長を離れ、敵対していた。 

そして、美濃を東から攻める。

 木曽川は、美濃・尾張の国境(くにざかい)。
 対岸には、鵜沼・猿啄城があった。
 何れも、斎藤方である。
 竜興の稲葉山は、その西方、わずか三里半(≒15km)。
 近い。 
 小牧築城は、その、手始めだった。

信長は、於久地を攻めた。

 同年六月。
 小牧城の真北一里(4km)ほどにある城である。
 城主は、犬山の家老、中島豊後守。 

  お久地惣構へ破るゝの事

  一、六月下旬、於久地(小口)*へ御手遣ひ。
    御小姓衆、先懸にて、惣構へをもみ破り、推し入りて、
    散々に、数刻相戦ふ。

    十人計り、手負ひこれあり。
    上総介殿、御若衆にまいられ侯岩室長門、
    かうかみ(こめかみ)をつかれて、討死なり。
    隠れなき器用の仁(才能のある人)なり。
    信長、御惜しみ、大方ならず。
                          (『信長公記』)

    *於久地 愛知県丹羽郡大口町小口


          ⇒ 次回へつづく


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