本能寺の変1582 目次小 光秀の年齢 3 土岐の随分衆 141~143 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。日本史、信長公記、斎藤道三、足利義昭、武田信玄、上杉謙信。『光秀記』
目次小 光秀の年齢 3 土岐の随分衆 141~143
141 光秀の明智氏は、土岐頼武の家臣だった。
光秀は、土岐頼純の家臣。
斎藤道三による下剋上が始まった。
頼純は、道三に殺害された。 「春日文書」142 光秀は、主君を失った。
光秀は、越前へ逃げた。 「遊行上人三十一祖京畿御修行記」
光秀は、まだ、独身だった。
道三の下剋上、成る。 『信長公記』
143 五十歳とした場合。
五十五歳とした場合。
六十歳とした場合。
永禄十一年1568、信長は三十五歳。
光秀は、信長の目に止まった。
目次大 光秀の年齢 131~151
目次中 光秀の年齢 131~151
目次小 光秀の年齢 131~151
信長と、ともにあった十五年。
永禄十一年1568~天正十年1582。
光秀を知ることは、信長を知ることである。
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