本能寺の変 1582 信長の台頭 8 305 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』
信長の台頭 8 三好の衰退
信長は、清洲城から小牧山城に移った。
同年、夏。
気忙(きぜわ)しい信長のこと。
築城工事は、急ピッチで進められた。
おそらく、年内に、完成したものと思う。
となれば、移転。
清洲から、小牧山へ。
そのことについて、面白い逸話がある。
二宮山御こしあるべぎの事
一、上総介信長、奇特なる御巧みこれあり。
清洲と云ふ所は、国中真中にて、富貴の地なり。
或る時、御内衆、悉(ことごと)く召し列れられ、
山中高山、二の宮山(本宮山)*へ御あがりなされ、
此の山にて、御要害仰せ付けられ侯はんと、
上意候て、
皆々、家宅引き越し侯へと御諚侯て、
爰(ここ)の嶺(みね)、かしこの谷合を、
誰々こしらへ侯へと、
御屋敷下され、其の日御帰り。
又、急ぎ御出であつて、弥(いよいよ)、右の趣御諚侯。
此の山中へ、清洲の家宅引き越すべき事、難儀の仕合せなりと、
上下迷惑、大形(おおかた)ならず。
これが、信長の家中操縦法。
引っ越しは、何事もなく終わった。
左侯ところ、後に、小牧山へ御越し侯はんと仰せ出だされ侯。
小真木山へは、ふもとまで川(五条川)つゞきにて、
資財・雑具取り侯に自由の地にて侯なり。
どう(口+童)と悦んで罷り越し侯ひしなり。
是れも、始めより仰せ出だされ候はゞ、
爰(ここ)も、迷惑、同前たるべし。
(『信長公記』)
*二の宮山(本宮山) 愛知県犬山市宮山
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