本能寺の変1582 信長の台頭10 312 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』
信長の台頭 10三好長慶の死 312
永禄七年(1564)
筒井順政、死去。
同年三月。
順政は、順慶の叔父。
唯一の後見人であった。
十日、
筒井順政、堺に於いて、先年、死去、
来たる十九日、十七廻に相当たるとて、極楽坊に於いて、千部経、
母より、これを執り行ふと云々、
(「多聞院日記③」天正八年三月十日条)
筒井順慶、自立す。
順慶、この年、十六歳。
戦国の荒海に放り出された。
最早、頼る者などいない。
敵は、松永久秀。
弱者は、消え去るのみ。
三好長慶が安宅冬康を殺害した。
同年、五月。
長慶、飯盛城にて、安宅冬康を誘殺す。
松永久秀の讒言があったと云う。
永禄七年五月九日、松永弾正少弼の讒言により、
三好長慶の舎弟、安宅摂津守冬康、
逆心の聞こえありとて、飯盛城中にて誅せらる、
精神的に、病んでいたらしい。
其の頃、長慶、病中にて、万事思慮なく、
罪科の実否も未だ糺(ただ)さずして、踈忽(そこつ)に計りと給ひけり、
(「足利季世記」)
これで、四人目。
三好長慶は、
嫡男、
そして、三人の弟たち、
その全てを失ってしまった。
永禄四年、十河一存。
永禄五年、三好実休。
永禄六年、嫡男義興。
永禄七年、安宅冬康。
残るは、長慶本人、ただ一人。
偶然とは、思えない。
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