本能寺の変 1582 信長の台頭 9 310 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』
信長の台頭 9 光秀と長宗我部元親
元親には、理由があった。
石谷光政は、幕府の重臣。
同氏は、明智氏同様、土岐氏の一族。
土岐氏は、美濃源氏の嫡流家。
すなわち、武門の家。
そのことを言っているのだろう。
【参照】土岐氏 101~108
近国を閣(さしおか)れ、遠境御縁組は、了(さだめ)て、
御容色の御事など、聞(きこ)し召し及ばせ給ひての上に候か。
戦国の時節と申し、遠国とい(言)ひ、
世上の人口をも、御思惟候へかし、と、申しければ、
元親、打ち笑ひ、申すところ、理(ことわり)なり、
さり乍(なが)ら、天神地祇にかけて、
全く、彼の息女が容色の沙汰を聞き及びたるにあらず、
色は、兎もあれ、角もあれ、
祖父伊予守・父豊後守、武名、香ばしき士(さむらい)なれば、
彼の腹に出生の子、父祖にあやかる事あらんと思ふ計(ばか)りなり、
昔、和田の義盛、
(中略)
唯(ただ)、父祖の武名を慕ふなれば、
遠国をも、強(こわ)に厭ふべきにあらず、と、宣へば、
何れも、大きく感歎して、天晴(あっぱれ)、武将の器なり、
と、上下、挙(こぞ)って称しける、
元親は、斎藤利三の義弟になった。
斯くて、吉田左衛門佐を使者として、濃州へ遣はしければ、
豊後守も、伊予守も、大いに悦び、許諾あり、
頓(やが)て、吉日を選び婚礼をなし給ふ、
斎藤利三は、後に、光秀の家臣となる。
政吉、子、三人あり、
長子は、石谷兵部少輔、
其の次、斎藤内蔵助政治、後に、利三と改む、
三は、女子、元親の北の方、是れなり、
(「土佐物語」)
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