本能寺の変 1582 信長の台頭 9 311 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』
信長の台頭 9 光秀と長宗我部元親
元親は、やがて、土佐を平定する。
これが、天正三年(1575)。
そして、さらに、四国統一を目指す。
同じ頃、信長は、本願寺攻めに苦戦していた。
となれば、阿波の三好は、共通の敵。
信長にとっても、好都合。
元親は、信長に誼を通じる。
天正六年(1578)のこと。
その橋渡しをするのが、光秀である。
斎藤利三は、光秀の家臣。
これ以後、光秀が元親の取次となる。
元親、四国制覇へ向かって、破竹の進撃。
光秀、丹波を平定。
光秀、絶好調の時期。
全て順調、うまく行くかに思えた。
しかし、ここで、状況が一変する。
本願寺、降伏。
天正八年(1580)。
信長、方針を変更。
四国停戦令、発令。
元親の不満 → 反発。
光秀の説得 → 暗礁。
そして、天正十年1582へ。
これらについては、後述する。
近江の六角氏に、観音寺騒動が起きた。
同永禄六年、十月。
六角氏と国人衆との対立激化。
内紛である。
この事件で、同氏の求心力は、大きく低下した。
これにより、浅井氏が勢力を拡大する。
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