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報われるとは ~Tさんのバイク~

 人生は報われないことばかりだ。純粋な心ほど蝕まれてしまう。呼吸をする粗大ゴミのような私に、生きる意味などどこにあるのだろうか。
 そんなことばかり考えていた十八歳の頃、東京で一人暮らしをしていた。アルバイト先は最寄り駅近くのドラッグストア。私が働く店舗の社員に、Tさんという、私より少し年上の女性がいた。

 Tさんは、透明感のある白い肌やシャープな輪郭が印象的で、ファッションモデルのような容姿をしている。仕事も淡々とそつなくこなし、「クールビューティー」という言葉がぴったり合う人だった。しかし、いつも少し眠たそうな目で、仏頂面をしている。そのため、人間関係において損をしているようだった。
 そんな彼女はバイクとカレーをこよなく愛しており、インドカレー好きの私とよくカレー談義をした。笑いのつぼまで似ていたため、シフトが一緒のときは、徐々に二人で長話をするようになった。お客さんの存在を忘れて大声で笑い合ったり、閉店後に二人で話し込んだりすることも度々あった。

 Tさんになら何でも話せる気がして、自分が強迫性障害やうつ病であることを打ち明けたこともある。すると、Tさんは「ふふふ」と不思議な笑みを浮かべながら珈琲を奢ってくれ、真剣に話を聴いてくれた。今思うと、間違いなくTさんの仕事を邪魔していただろう。

 出会ってから半年ほど経ったある日、Tさんが退職することになった。メイク関係の仕事に転職するらしい。もう会えなくなる予感がしたため、勇気を出して食事に誘った。すると彼女は躊躇いもなく、「退職日の二日後にしよう」と即答した。
 私の行きつけのインドカレー屋で、これまで彼女に訊きたかったが訊けなかったことをたくさん質問した。Tさんの恋愛事情や仕事の人間関係、学生時代のこと。彼女はありのままを話してくれた。だが、彼女との会話で一番印象に残っているのは、「報われること」について質問したときのことだ。

「Tさんにとって、今まで生きてきて報われたことってありますか? あるとしたら、それは何ですか?」

 この質問は多くの人に投げかけた。いつも心配されるばかりで、結局誰も何も答えてはくれなかった。しかし、Tさんはチャイを一口飲むと私の目をぼんやりと見て、ゆっくりと口を開いた。

「うーん。あると言えばあるよ。仕事ですっごい疲れて帰ってきたときのことなんだけどね。翌日に着る服にアイロンをかけるつもりでいたんだけど。ものすごく眠くて、アイロンをかけるのは明日の朝にしようか迷ったんだよ。でも、なんとか頑張ってアイロンをかけてから寝たの。そして朝起きたら、アイロンのかかった綺麗な服を見て、あぁ報われたって思ったね。あれはうん、心底そう思った」

 拍子抜けした。こんな些細なことで報われたと思えるなんて、Tさんには世界がどう見えているのだろう。気になって反対の質問をしてみた。

「じゃあ逆に、報われなかったことってありますか?」
「ないね」

 即答だったが、すぐに言葉を続けた。

「あっ、ある。悪いことしてないのに、犬に追っかけられたことだ」

 私は思わず笑ってしまった。Tさんは笑われたことを不思議そうに見ていた。
 話に夢中になっていて、気づくと終電の時間が過ぎていた。Tさんは駅の近くにバイクを停めてあるからよいが、私は一時間以上かけて歩いて帰るしかない。覚悟していると、彼女は少しだけ口角を上げた。

「乗ってく?」

 彼女は私をバイクの後ろに乗せて家の近くまで送ってくれると言う。二人で駐車場に向かった。

 BMWの大型バイク。Tさんはアッシュブラウンの長い髪を後ろで結んで、フルフェイスのヘルメットを被る。私も彼女から渡されたヘルメットを被り、緊張しながらタンデムシートに跨った。
 エンジンをかけると、突然大きな音が轟く。手に汗がじわりと湧いたが、お構いなしにバイクは走り出す。
 風を切るとは、こういうことなのか。夜風が気持ちいい。Tさんの細い背中が目の前にある。今までこんなに彼女と接近したことはない。少しだけ、Tさんの首元に顔を近づけてみる。いつも彼女を纏っている上品な甘い香りが漂っていそうで、私はその中に溶けてしまいたくなる。
 ずっとこのまま、家に着かなければいいのにと考えていた。

 家の近くに到着すると、Tさんはヘルメットを被ったまま「じゃあ元気でね」と一言告げて、あっという間に去ってしまった。
 エンジン音が聞こえなくなっても、暫くその場に立ち尽くしていた。さっきまで眼前に広がっていた光景が、いつまでも体中を駆け巡っていた。

 あのTさんのバイクに乗った時間は数分の出来事だ。しかし、私の永遠の時間と化した、報われた瞬間なのであった。

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