キスのない別れ
「僕はきっと、君のことが好きだったんだと思う。だけど君のことを好きになるのが怖くて、自分の気持ちからずっと逃げていたんだ」
僕は独り言を言うようにそう呟いた。
「何で今ごろそんなことを言うのよ?」
博美は困惑した表情をして、僕を見ている。
「もう、君とは会えないかもしれないし、僕の正直な気持ちだけは、伝えておいた方が良いと思ったからさ」
僕はそう言うと、アイス・カプチーノを飲んだ。
日曜日の銀座。僕らは映画を観て、食事をして、こうしてスターバックス・コーヒーのテーブル席で、向かい合ってコーヒーを飲んでいる。
僕らはインターネットで出会い、いつしかこうして会うようになった。
二人とも映画が好きで、ネット上で映画の感想などを語りあっているうちに、どちらともなく「一緒に映画を観ようよ」という話しになった。それは、自然な成り行きだった。
僕らは月に一回くらいのペースで映画を観る仲になった。映画を観て、食事をし、コーヒーを飲み、僕らは語った。
でも今思うと、何を話したのかなんて覚えていなかった。とても他愛のない話しだったのだと思う。お互いの、プライベートな話しなんて、ほとんどしなかった。それは、暗黙のルールのようなものだった。僕らは恋人でも友達でもない、不思議な関係だったのだ。
「私、結婚するのよ」
彼女が言った。
「知っているよ」
僕は答える。
「じゃあ何でそんなこと言うの? 何で今さらそんなことを言うのよ?」
彼女は少しばかり怒った表情をして僕を睨んだ。
「だって、君と僕はすごく年が離れているし、君は僕なんかとは不釣合いだ」
僕はそう言って下を向く。
「そんなことないよ。私、あなたの事ずっと好きだったもの」
彼女は哀しそうな表情をして呟く。僕の胸はキュンとなる。
「でもさ、僕らが恋人同士になるなんて、ちょっとありえないよ」
苦笑いをする僕。
「そうかなあ。私、ずっとあなたのことを待っていたのに」
彼女は囁く。
「そんなはずない」
僕は言う。
「そんなはずある」
彼女は答える。
「私ね、不安なのよ。結婚するのが。私の知らない街に、私は嫁ぐのよ。もう逃げ出してしまいたい気持ちなんだから」
そう言って、彼女はため息をついた。
そう、彼女は来月結婚するのだ。そして行った事の無い遠くの街で暮らすことになる。そして今日がきっと、ぼくらにとっての最後の一日になるのだ。
僕が知っているのはそれだけ。
彼女に彼氏がいたことも知らなかったし、その彼氏がどんな人なのかも知らない。
僕は彼女に対する気持ちを押し殺しながら、今まで過ごしてきた。僕は分別のある大人の男を演じながら、生きてきた。
「でも、もう決めたんだろ?」
僕はアイス・カプチーノを飲む。
「ええ、決めたわ。でも、あなたに行くなといわれたら、行かないかもしれない」
彼女は小悪魔のような微笑を浮かべながら、僕を見る。
「そんなはずない」
僕は言う。
「そんなはずある」
彼女は答える。
「僕はダスティン・ホフマンじゃあない」
映画の一シーンを思い浮かべながら、僕はそう言った。ダスティン・ホフマン主演の「卒業」という映画。
映画の中でダスティン・ホフマンは、結婚式をあげている花嫁を奪って逃げるのだ。
僕にはとてもそんなことできない。
「残念だわ」
彼女は答える。僕はそんな彼女の態度に、少しばかり苛立った。
「そんなこと言うなよ。僕の気持ちなんか受け止める気なんてないくせに」
投げやりな言い方をする僕。
「あなたこそ、そんなこと言わないでよ」
彼女は目に涙を浮かべていた。
沈黙の中で、ビートルズが鳴っていた。
僕は映画「アイ・アム・サム」を思い出す。
「僕らは恋していたのかな?」
少しして、僕はそう言ってみた。
「うん」
彼女は頷く。
「プラトニック・ラブだね」
僕は言う。
「そうね。プラトニック・ラブね」
彼女は答える。
「じゃあ、この別れにも、キスはなしだね」
「そう、キスはなしよ」
「残念だ」
「残念ね」
僕らは銀座の人ごみの中で別れ、もう二度と会うことはなかった。
おわり。
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「謎解きはディナーの後に、みたいに言うな!」