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シーズ・レイン

 僕は渋谷の街を歩いていた。
 雨上がりのアスファルト。この湿り具合に僕は安らぎを感じていた。
 何か淋しい気がしたときは、いつも知らないうちに渋谷の街を歩いている。
 ファイヤー通り、そして決まって辺りは暗くなりかけている。
 今日もそのいつものパターンだった。

 ファイヤー通りを曲がると登り坂になっている。
 僕のレッドウイングと濡れたアスファルトのあたる音。
 それに混じって車の音が聞こえてきた。
 道路の正面から黄色いフォルクス・ワーゲンが走ってくる。ライトが眩しい。
 僕は孤独を感じながらそれをやりすごそうとしていた。

 歩道の正面から歩いてくる女とすれ違ったとき、僕の耳に女の声が聞こえた。
 僕は立ち止まり、振り向いた。
「傘が好きなんです」
 と彼女は言った。

 雨はもうやんでいたし、彼女がどうして赤い傘を刺して歩いているのかが僕には疑問だった。
 だから僕は無意識のうちに、「雨はもうやんでいますよ」とつぶやいていた。
 それは僕の心の中のつぶやきのはずだった。
 しかし僕は、無意識のうちにそれを口に出していたようだった。
 彼女はそれに答えたのだ。
 その理由がそれだったのだ。

「傘が好き?」
 僕は彼女に問い返した。

「雨上がりの街って好きなの。それに傘も好き。だから傘をさしているのよ」
 彼女はうれしそうにそう答えた。
「それを誰かに言いたかったの。私のこの気持ちを誰かに言いたかったの。
それにまた、いつ降り出すかわからないでしょ? 何だか閉じてしまうのがもったえなくて」

 僕は彼女の言葉が、とてもメロディアスでエモーショナルに感じられた。
 それは映画を観ているようで、音楽を聴いているような感じだった。

「雨」
 彼女がつぶやいた。
 僕のほほに雨粒が付着した。
 また雨が降り出したのだ。

「お入りなさい」
 彼女はそう言って僕の目の前に傘を差し出した。
 僕は躊躇した。
「これぐらいの雨だったら、傘なんていらない」
 僕はそう答えた。
 僕の言葉に、彼女は哀しそうな表情をした。
 僕は「傘なんて」と言ってしまったのだ。

 そうこうしているうちに、雨はどんどん強くなってきた。
 彼女は僕の頭の上に傘を差しだし、傘の中に入れてくれた。
「やせがまんしないで」
 と言って彼女はほほ笑んだ。

 僕たちは一つの傘に入って歩いた。
「渋谷って好き、特にこの通り」
 彼女はそう言った。
 僕は共感する。彼女とは感覚が似ているのかもしれない。

「一緒に映画を観ない? 私これから映画を観に行くところなのよ」
 彼女は唐突にそう言った。
「これから?」
「そう、最終上映に間に合うでしょ?」
「そうか、今日は土曜日なんだね」
「どうせ雨がやむまで帰れないんでしょ?」
「そうだね」
 僕は同意した。

 彼女に連れられて来た映画館は、レトロな雰囲気の映画館だった。
 今ではどの映画館もデジタル上映になっているが、その映画館はフィルム上映を行っていた。
 映画館のシートに、僕らは並んで座った。

「名前、聞いても良いかな?」
 僕は思い切って彼女に訊ねた。
「村川好美」
 彼女はにっこりとほほ笑んで、そう答えた。
 僕は戸惑った。
「え、村川?」
 と僕は聞き返す。
「好美よ」
 と彼女は答える。
「ほんとに?」
 僕は少しばかり動揺している。
 それは僕の知っている名前だったからだ。
「どうしたの?」
 彼女はそんな僕の様子を楽しむかのように僕の顔を見つめた。
「昔、同じクラスだった女の子と同じ名前なんだ」
 僕は彼女にそう告げた。
「そうなの? でもその本人みたいよ、私」
 彼女は平然とそう答えた。
「竹田久男くん」
 彼女は僕の名前を呼んだ。
「ほんとはね、最初から気がついていたのよ」
 彼女はそう言ってほほえんだ。
「いつ東京に出てきたの?」
 僕は訊ねた。
「去年の夏。今は六本木に住んでいるの」
 彼女はそう答えた。

 僕は当時、愛知県の中学校に通っていた。
 それは父親の仕事の関係だった。
 中学3年生になるとき、僕は東京に引っ越しをした。
 それ以来、彼女とは会っていない。

 当時の好美は眼鏡をかけていて、いつも読書をしている文学少女だった。
 ときどき会話はしたけれど、おとなしくて目立たないタイプだった。
 それが今は、印象がぜんぜん違っていた。眼鏡はかけていないし、明るく快活な雰囲気があった。

「久男くん、全然気がつかないんだもの」
 彼女は不満そうにそう言った。
「いやだって、ぜんぜん印象が違うから」
「久男くんは全然変わらない」
「何か恥ずかしい気がするよ」
「どうして?」
「なんだか僕だけ取り残されてしまったような気がして」

 そうだ、僕は何も変わっていない。
 僕は何も変わっていない。
 
 劇場が暗くなった。フィルムの回る音が聞こえてくる。
 僕は「ニュー・シネマ・パラダイス」という映画を思い出す。
 それはイタリア映画だ。
「イタリアの映画でも観ているようだ」
 と僕はつぶやいた。
「フランス映画だけど」
 と彼女は答えた。

 僕はあまり映画に集中ができなかった。
 僕の胸はどきどきしていた。
 それはあの頃には感じなかった感情だ。
 好美は美しくて、魅力的だった。

 映画を観終わって外に出ると、雨はやんでいた。
「雨やんだね」
 好美がそう言った。
 お気に入りの赤い傘はたたまれて、手に持っていた。
「そうだ、連絡先交換しておこうよ」
 好美がそう言ってスマホを取り出した。
 僕はうなづいて、スマホを取り出した。
 僕たちは連絡先を交換した。

※     ※     ※

 二週間がたった。
 僕はあの時と同じようにファイヤー通りを歩いていた。
 気持ちが沈んでいた。

 坂を登りきったところまで来ると、急に雨が降り出した。
 僕は近くでしばらく雨宿りをした。傘を持っていなかった。
 雨の時は、とても静かに感じられる。
 こうして何も考えずに雨を見ていると、音が何も聞こえなくなってしまうような錯覚を起こす。
 沈んだ気持ちがそうさせているのかもしれない。

 僕はふと、思い出す。
 あの日の出来事。
 雨の日にここで出会った彼女。

 僕は彼女にメッセージを送る。
「今、僕は渋谷にいる。あの日と同じ場所。ふと、君のことを思い出した」
 既読はすぐについた。僕は彼女の返事を待つ。
「今、病院にいます」
 彼女の返信があった。
「どこか悪いの?」
「どこも悪くない」
「じゃあなんで?」
「妊娠しているの」
「ほんと?」
「あの時いいそびれちゃったけど、半年前に結婚したの」
「そうなんだ。幸せなんだね?」
「うん。また連絡するね」

 会話はそれで途切れた。
 たぶん病院でのなんらかの手続きがあったのだろう。

 僕は降りやまない雨を眺めた。
 僕はひとりだ。
 僕はいつだってひとりだ。

※     ※     ※

 それっきり、僕らは連絡を取り合うことは無かった。
 僕はあの坂をのぼるたび、彼女のことを思い出す。
 彼女は雨だ。
 雨が降るたびに、彼女が赤い傘を刺して、僕の前に現れてくれるような気がする。
 傘がなくても、きっと彼女が僕に赤い傘を刺しだしてくれる。

 イタリアの映画でも、観ているようだ。
 僕はそう思った。

おわり


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甘野充 言葉だけでは伝わりません。 コメントはチップとともに。 「謎解きはディナーの後に、みたいに言うな!」