【歴史の中の名前百選51】王妃たちの物語❹ コンラート2世妃ギーゼラ⑴ 姉と妹――王座をめぐって
♯ はじめに
今回からしばらくザーリア朝初代ドイツ王・皇帝国王コンラート2世(990年頃生まれ;在位1024-1039)の妃ギーゼラ(990年頃生まれ)を取り上げる。
同い年のこの夫妻、初めから王・王妃になるべく定められていたわけではない。
ギーゼラはコンラートとの結婚の前に2度結婚し、2度夫と死別している。
コンラートは久しく「無官」。34歳になって、初めて好機、それも王位獲得という、これ以上望むべくもない機会がめぐってきたのだ。
壮年夫妻が一国の最高位に就く。しかしそれを認めようとしない勢力。
その一人にギーゼラの姉がいる。
今回は、ギーゼラ・コンラート2世夫妻がその王位の全般的な承認を得るために実行した王国大巡行を中心に見ていき、また自分の息子のためにコンラートの王権を認めようとしなかったギーゼラの行動についてふれたい。
♯ ギーゼラ、その前半生
ギーゼラ(990年頃~1043年2月15日)はシュヴァーベン大公ヘルマン2世とその妻ゲルベルガとの間の二女。
父シュヴァーベン大公ヘルマン2世(在位997-1003)は、1002年ドイツ王・皇帝オットー3世が独身のまま死去したさい、次期国王への名乗りを上げるも、バイエルン大公ハインリヒ4世(ドイツ王・皇帝ハインリヒ2世)に敗れ、翌1003年亡くなった。
母ゲルベルガの両親は、ブルグント王コンラート1世とその妃マティルデ(両人は【名前百選㊾】で、アーデルハイトがドイツの宮廷を去って最初に身を寄せた先として登場)。
ギーゼラの祖母であるこのマティルデは、西フランク王ルイ4世を父とし、その妃で、オットー大帝の妹であるゲルベルガを母とした。
ギーゼラ自身はしたがって、母ゲルベルガをとおしてブルグント王家・カロリング家・オットー家につながる華麗な出自であったが、結婚運には恵まれなかった。
2度結婚するも、2度とも早くに夫に先立たれた。

最初の夫はブラウンシュヴァイク伯ブルン。1002年頃に結婚し、1男2女をもうけるも、夫ブルンは1010年頃死去する。
2番目の夫エルンストとの結婚の経緯については、通例つぎのようにいわれる。
ギーゼラの父ヘルマン2世(†1003)の死後、彼の有したシュヴァーベン大公位は、ギーゼラの弟ヘルマン3世が継承したが、1012年に16/17歳で早死した。
ヘルマン2世の男系が絶えたため、シュヴァーベン大公位は、国王・皇帝ハインリヒ2世がバーベンベルガー家(オストマルク辺境伯家)のエルンスト(1世)に授封。
そのさいエルンストの地位を固めるため、前大公の姉で寡婦となったギーゼラとの婚姻がなされた、
――と。
エルンストとの間には、2人の男子が生れる。エルンスト(2世;1010年頃生まれ)と、ヘルマン(4世;1015年頃生まれ)である。
と、ここまで読んでくると、お気づきかもしれない。
エルンスト1世との結婚の時期(1012年?)と、息子エルンスト2世の誕生の時期(1010年?)とが合わない、と。
息子エルンスト2世は1025年、1027年に反乱を起こしており(後述)、生年を1010年より遅く見るのは無理があり、となると、先の婚姻の経緯の説明はおかしいことになる。
エルンスト2世の誕生年(c.1010)への考慮を優先するなら、ギーゼラは先夫ブルンの死(c.1010)の直後の時期にエルンスト1世と結婚し、弟シュヴァーベン大公ヘルマン2世(†1012)の死後、姉であるギーゼラの夫エルンスト2世にシュヴァーベン大公位が授封された、と見たほうが整合的であろう。
ただこの場合エルンスト1世との婚姻の経過は不明とせねばならない。
1015年、エルンスト1世が狩猟中に、臣下の矢が当たるという不慮の事故で死去する。
これを受けて息子エルンスト(2世)が、ギーゼラの後見の下、大公位を継承することになる。
ギーゼラは1016年頃、26歳頃に、3度目の結婚をする。後の国王・皇帝コンラート2世との結婚である。
この結婚で1男2女をもうける。男子はのちのドイツ王・皇帝ハインリヒ3世(1016/17年生まれ)である。
この夫も、当初、あまりぱっとしなかった。

https://www.speyer-kurier.de/region/speyer/artikel/kroenung-von-domgruender-konrad-zum-roemisch-deutschen-koenig
♯ コンラート、その前半生
コンラートの父はヴォルムスガウの伯ハインリヒ(†c.990)、母はロートリンゲンのマットフリーデン家出身のアーデルハイト(†1039/1046)。

父方の祖父オットー(†1004)は、オットー1世(大帝)の娘リウトガルトとロートリンゲン大公コンラート(赤公)の唯一の息子。
コンラート赤公はヴォルムスガウ・シュパイアーガウ・ナーエガウなど、ライン中流域を本拠とするフランケン(フランク)貴族で、オットー大帝の女婿となり、ロートリンゲン大公に登用されたが、妻の兄リウドルフの反乱(953)に与して敗れ、大公位を剥奪される。
その後赦され、マジャール人との決戦であるレヒフェルトの戦い(955)で奮戦するも戦死した。
その息子オットーは「官職」的にはあまり恵まれず、ようやく995年にケルンテン大公を確保した。(なお、オットー以後、彼の一族・家門は便宜上「ザーリア家」と呼ばれる。これについては【名前百選㉓】を参照)
妻ユーディットとの間に4人の男子があり、長男が上述のハインリヒである。
長男ハインリヒは父オットー(†1004)からヴォルムスガウの伯の地位を与えられたが、父よりも早く亡くなった(†c.990)ため、ケルンテン大公の地位などは3男のコンラートが獲得することになる。
2男ブルンと4男ヴィルヘルムは聖職者の道を進む。
ブルンは皇帝オットー3世の宮廷聖職者の閲歴をへて、そのオットー3世の働きかけにより教皇位にのぼる。教皇グレゴリウス5世(在位996-999)である。
4男ヴィルヘルムはシュトラスブルク(ストラスブール)司教(在位1029-1047)となる。
さて、のちにドイツ王・皇帝となるギーゼラの夫コンラート(2世)は、おそらくは生後すぐに父を亡くし(990年頃)、母はその後婚家を去って再婚したようで、以後、コンラートとの関りはほとんど確認されない。(母アーデルハイトの兄はアルザスのノルトガウ伯フゴー[ユーグ]2世で、その孫ブルンはのちの教皇レオ9世[在位1049-1054]。次々回の記事で関連事項を取り上げる予定)
というより、コンラート自身、その後ほとんど消息を聞かれない。
祖父オットーは、1002年オットー3世が死去したさいに、先述のシュヴァーベン大公ヘルマン2世同様、次期国王への名乗りを上げたが、同様に敗れ、新王ハインリヒ2世のもとで辛酸をなめる。
ケルンテン大公の地位は、1004年に上述のように叔父であるコンラートが受け継ぎ、叔父コンラートが1011年に亡くなると、ハインリヒ2世はケルンテン貴族アダルベローに授封してしまう。
かろうじて残されたザーリア家(上記参照)の本領域であるヴォルムスガウ・シュパイアーガウ・ナーエガウの伯の地位は叔父コンラートの長男、われわれのコンラートの従弟(いとこ)コンラート(1003年頃生まれ)が受け継ぐ。
かくしてわれわれのコンラートには何もないも同然であった。
なお、叔父コンラートの妻、従弟コンラートの母は、ギーゼラの姉マティルデ(988年頃生まれ)であった。
マティルデは夫コンラート(†1011)の死後まもなく、バールBar(ロートリンゲン南部)伯フリードリヒと結婚する。フリードリヒは1019年に、父である上ロートリンゲン大公ディートリヒ(テウデリヒ)のもと、共同大公となり、マティルデとの間には娘ベアトリクス(1020年頃生まれ)らをもうける。
マティルデ・コンラート母子は、そしてマティルデの夫フリードリヒ(およびその父ディートリヒ)は、後年、コンラート2世の国王推戴に真っ向から反対することになる。
♯ ギーゼラとコンラートの結婚
1016年頃の、同い年、26歳ほどのギーゼラとコンラートの結婚について、史料はほとんど何もかたらない。(以下、登場人物の年齢に「ほど」はつけないで記します)
ギーゼラは3度目の結婚、コンラートは「無官」、と来れば、注目されるべくもない。
しいてあげれば、後年、メルゼブルクのティートマルが両者の結婚を近親結婚として非難した。
ギーゼラはドイツ王ハインリヒ1世から4世代目(ハインリヒ1世→ゲルベルガ→マティルデ→ゲルベルガ→ギーゼラ)、コンラートは5世代目(ハインリヒ1世→オットー1世→リウトガルト→オットー→ハインリヒ→コンラート2世)ということで、これを近いと見るかどうかは、微妙。
ちなみに後述のように、両人の「近親関係」は、ギーゼラがマインツ大司教に王妃戴冠を拒否された理由の一つと目される。
さてこの婚姻は、ギーゼラが3度目の結婚で、すでに5人の子をもち、他方コンラートが初婚であることから、コンラートの側に何か目算があったと思われてもいたしかたあるまい。
ギーゼラは5歳の幼児たる息子、シュヴァーベン大公エルンスト2世の後見役を担っていた。
しかしギーゼラが再婚するや、国王ハインリヒ2世はギーゼラの後見職を解き、それを前大公エルンスト1世の弟であるトリーア大司教ポポーにゆだねてしまう。
コンラートが結婚を梃子にシュヴァーベンでの権力の伸張をはかろうとしたならば、それは端(はな)からつまずいた格好である。
しかしながらこの結婚、コンラートにとってはやはり「無駄」ではなかった。
ギーゼラの、カロリング家・オットー家・ブルグント王家に連なる華麗な出自は人脈と、栄位への潜在的な相続・継承権とを生み出し、加えて彼女が所有する広大な所領が、コンラートを支えることになったからである。
二人の間には上述のように、1016/17年、男子が生まれる。のちのドイツ王・皇帝ハインリヒ3世である。
♯ 夫コンラート(2世)のドイツ王への推戴
1024年7月13日、ドイツ王・皇帝ハインリヒ2世が死去する。嗣子を残さず、その結果オットー朝の男系は事実上断絶した。(ハインリヒ2世の弟ブルンは聖職者[アウグスブルク司教]になっていた)
9月4日、新たな国王を選出するべく、ドイツの聖俗諸侯たちがライン川中流オッペンハイムの対岸のカムバKambaに参集した。
この国王選挙集会では女系でオットー家につながるザーリア家の2人のコンラートが名乗りを上げた。
ギーゼラの夫コンラート(34歳)と、同名の従弟コンラート(21歳)である。
(同名なので、区別するため、前者は「年長のほうの」コンラート、後者は「年少のほうの」コンラートと呼ばれる。日本語では「大コンラート」、「小コンラート」と訳されることが多い)
両者ともオットー1世(大帝)の玄孫で、大帝の孫オットー(ケルンテン大公)を祖父とする従兄弟どうし。
参集者たちの間では、ギーゼラの夫、大コンラートを支持する声が大勢を占めた。
理由は定かではないが、一説に、小コンラートが若すぎるのに対し、大コンラートは壮年で、すでに7/8歳になる息子をもち、王位を託するに相応しく思われた、という。
投票は、この選挙集会を主導したマインツ大司教アリボーから始まり、彼は大コンラートの名をあげた(ちなみに投票といっても紙片を投じるわけではない)。次いで高位聖職者、世俗の諸侯貴族がつづいた。彼らも大コンラートの名をあげた。
しかしケルン大司教ピルグリム、下ロートリンゲン大公ゴツェロ、上ロートリンゲン大公フリードリヒ(小コンラートの継父)らは投票せずに議場を去り、またザクセンの貴顕の大半も事前に去っていた。
結果的に、大コンラートが「満場一致」で国王に選出された。
先王妃クニグンデが、亡夫から託された王冠・王笏・宝珠などの「帝国権標」を大コンラートに譲り渡した。
この結果を受けて1024年9月8日、マインツで大司教アリボーの司式で国王への塗油・戴冠式が執りおこなわれた。国王コンラート2世の誕生である。


https://warhistory.org/article/conrad-ii-ca-990-june-41039
♯ 王国大巡行
戴冠式をすませたものの、現実にはコンラート2世の王権を認めようとしない勢力が王国内に少なからず存在した。否、数多(あまた)、存在した。
ケルン大司教、下ロートリンゲン大公、上ロートリンゲン大公父子、ザクセン貴族たち、そして選挙に敗れた従弟の小コンラート・・・
中世において時おり見られる「二重選挙」に至らなかったのが不思議なくらいである。
王となったコンラート2世は、王妃ギーゼラとともに、こうした勢力から承認を取りつけるべく行動をおこす。
前王ハインリヒ2世という前例があった。
1002年にハインリヒ2世が国王に選ばれたさいにも、上でふれたように、他にも候補に名乗り出た者たちがいて、全般的な支持を得ての戴冠ではなかった。
そのため戴冠直後から、王国じゅうを巡って諸勢力の「承認」を得るための、ハインリヒ2世は7か月半におよぶ「王国巡行」を実行したのである。

https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Umritt_Heinrich_II.png
コンラート2世もまさに同様な行動を起こしたのだ。
少し長くなるが、コンラート・ギーゼラ夫妻の足跡を追おう。
実は9月8日マインツでの戴冠式において、一つ問題が生じていた。
このときコンラートはギーゼラの「王妃戴冠」をも同時に求めていたのだが、司式を司ったマインツ大司教アリボーが、コンラートとギーゼラの結婚を近親結婚として、ギーゼラの「王妃戴冠」を拒否したのである。
ところが、マインツではコンラートの国王選出を支持しなかったケルン大司教ピルグリムが、関係修復の機会と捉えたのか、巡行に出たコンラート・ギーゼラ夫妻をケルンで出迎え、9月21日ケルンにおいてギーゼラの「王妃戴冠」を挙行したのだ。
順調な出だしである。

ついでアーヘンを訪れ、カール大帝以来の歴代の皇帝・国王の後継者であることを示す。
が、ロートリンゲンでの巡行はあまり成果をあげることはできなかった。しかし、つづくザクセンでのそれでは、成果を収めた。
国王夫妻は12月降誕祭をミンデンMindenで祝ったが、それは同時に大規模な王国集会・祝宴の場でもあった。
マインツ大司教アリボー、ケルン大司教ピルグリムの他、ザクセンのマクデブルク大司教・ハンブルク=ブレーメン大司教・フェルデン司教・ミンデン司教、アウクスブルク司教ブルン(前王ハインリヒ2世の弟)、そしてザクセン大公ベルンハルト2世率いる多数のザクセン貴族がつどった。
コンラートはこのおりに古きザクセンの法を守ることを約束し、国王選挙集会に参加しなかったザクセン貴族たちの臣従をうけ、王として「承認」された。
つづく滞在先となった、帝国修道院であるガンデルスハイム修道院とクヴェトリンブルク修道院は、オットー家ゆかりの女子修道院であり、当時の修道院長はそれぞれいずれも故オットー3世の姉妹、すなわち皇帝オットー2世と皇后テオファーヌの娘である、ゾフィー(†1039)とアーデルハイト(†1043)であった。
両所ではギーゼラの存在が大きな意味をもった。ゾフィーならびにアーデルハイトはギーゼラに親愛の情を示し、国王夫妻を温かく迎え入れた。これはザクセンの貴顕たちのさらなる支持を集めるのに大きく貢献した。
ザクセン巡行での成功により、コンラート2世の企図はほぼ成功したといえよう。
ザクセン南部のフルダ修道院をへて、一行はバイエルンに入る。
1025年の復活祭(4.18)は前王ハインリヒ2世の弟である司教ブルンのアウグスブルクを訪れる。
このおり、従弟の小コンラートとの交渉がもたれたが決裂する。小コンラートは反乱を準備し、これに国王となったコンラート2世の継子で、ギーゼラの息子シュヴァーベン大公エルンスト2世が加勢することになる。
5月、レーゲンスブルクで王国会議を開く。バイエルン各地では先王妃クニグンデや、前王ハインリヒ2世に近しい聖俗関係者との信頼関係を固めていく。
バイエルンを巡って一旦フランケンへ戻ったのち、シュヴァーベンへ赴き、6月6日コンスタンツで聖霊降臨祭を祝う。
コンスタンツではミラノ大司教をはじめとするイタリアの貴族たちが伺候し、コンラートへの臣従をおこなった。(ここで起きていたイタリア王権をめぐる問題については次回以降で取り上げたい)
コンラート・ギーゼラ夫妻はその後チューリヒ、バーゼル、シュトラスブルク(ストラスブール)をへて、1025年7月シュパイアーへいたる。
かくして10か月にわたった王国大巡行は、所期の目的をほぼ達成して終了する。
ただ、この時期、他方においてシュヴァーベン大公エルンスト2世の反乱が起こっている。
ただしこの反乱が起こった時期については、1025年4月、アウグスブルクでの国王コンラート2世と小コンラートとの交渉の決裂のすぐ後の時期とも、王国大巡行の終了した1025年夏以降ともいわれる。また反乱の収束については、エルンストの「降伏」(1026年2月)後も、小コンラートらの反乱は収まってはいない。(この反乱関連については次回あらためて取り上げたい)
王国大巡行においてもコンラート2世の王権を認めようとはしなかった下ロートリンゲン大公ゴツェロ、上ロートリンゲン大公ディートリヒらロートリンゲンの聖俗貴顕も、1025年12月降誕祭、アーヘンでの王国会議の場でコンラート2世に臣従した。
かくしてコンラートの王権はようやく「全般的な承認」を得た。
♯ 小コンラートの母マティルデ
コンラート2世はこうして王権の全般的な「承認」を得るが、王国内には、彼の国王選出に不満をもち、これを認めようとしない勢力があって、なお事を構える姿勢を見せていた。
不満をもつ者の一人が、国王選挙に敗れた従弟の小コンラートであり、その母マティルデ、すなわちギーゼラの姉がこれに加勢した。
小コンラートはコンラート2世・ギーゼラ夫妻の王国巡行の間も、謀反の構えを見せており、ギーゼラの息子、シュヴァーベン大公エルンスト2世を引き込んでいた(上述)。
他方マティルデは、この間(1025~1027年の間)に、コンラート2世に敵対的態度をとるポーランドのミェシュコ2世に接近していた。
ポーランドでは、11世紀に入り、大公ボレスワフ1世・クロブリーがドイツ王・皇帝ハインリヒ2世との間で幾度となく戦闘を繰り返した。1018年のパウツェンの和約により、ポーランド大公はドイツ王=皇帝に臣従し、ポーランドは形式的に「帝国」の支配下に留まったが、事実上独立性を保持した。
ハインリヒ2世死後のドイツの不安定な政情をみて、ボレスワフは1025年復活祭に自らの国王戴冠をおこなう。
その後まもなくボレスワフは亡くなり(†1025.6,17)、息子ミェシュコ2世も後継者として国王戴冠をおこなう。
コンラート2世は、これを自分の同意なしにおこなったとして非難し、ミェシュコに敵対する異母兄ベズプリムと結ぶことになる。
敵の敵は味方。マティルデはミェシュコ2世を自陣営に引き込もうとしたのだ。
彼に『神の職務について書』Liber de divinis officiisの写本を恵送し、献呈辞を記した箇所でミェシュコを「不屈の王」と呼び、彼が多くの教会を建設したことや、彼のラテン語やギリシア語の知識を称賛し、彼にすべての敵に対して強くあるよう切望している。
献呈箇所には、マティルデがミェシュコにこの書物を献呈している様子を描いた挿画があり、そこではミェシュコは王冠をかぶり、玉座に座っている姿で描かれている。
少し長くなるが、紹介しよう。
真の徳を最も真摯に培い、最も不屈の王である主ミェシュコ様へ
キリストにおける最高の喜びと敵に対する幸福な勝利を、マティルデ
神の恵みにより、あなたには王としての名と栄誉が等しく与えられ、最も名誉ある統治の術に必要なものが授けられたので、あなたがその幸運な始まりから、敬虔な心で王国の最初の収穫を神に捧げたと聞いています。
あなたの先代の王の中で、これほど多くの教会を建てた者がいるでしょうか。これほど多くの言語で神を賛美した者がいるでしょうか。あなたは自分の言語とラテン語で神を立派に崇拝できたにもかかわらず、それに満足せず、ギリシア語をも加えました。あなたがこれらの努力を最後まで続けるならば、人びとはあなたを最も幸いな者と呼び、あなたが人間の判断ではなく神の裁きによって神の聖なる民を治めるために選ばれたことを最も真実に証言するでしょう。あなたは判断力に優れ、善行に秀で、慣習の普遍的な誠実さにおいて輝かしく、寡婦の夫、孤児の父、困窮者と貧しい者の清廉潔白な擁護者と見なされるあなたが、貧しい者の立場を優遇したり、富める者の面子を重んじたりすることなく、すべてのことを正義の天秤にかけて吟味する者であることが示されているのです。疑いなく、あなたは聖セバスティアンとともに、王の衣装の下にキリストの兵士を隠しもち、悪魔の欺瞞によって惑わされた魂を神のもとに回復させるのです。自分に託された才能を百倍にして返そうと熱望するあなたは、「よくやった、良き忠実なしもべよ」という祝福に満ちた声を聞いたことでしょう。父なる神の模範に確実に導かれ、あなたはほぼ完全に天上の事柄へと心を向けています。あなたが統治されるその地において、神は聖なるカトリック信仰と使徒的信仰の源泉であり、泉のような存在です。聖なる説教者たちが言葉によって正すことのできなかった者たちを、神は剣によって強制し、野蛮で残忍な国々を主の晩餐へと導かれました。
あなたが疑いもなく霊的な特権をもって統治の職を引き受けられたことを承知の上で、神の職務においてあなたの御前に知られていないことがあるかもしれないと思い、この書物をあなたに捧げました。好奇心旺盛な読み手は、この書の中に、様々な時代の様々な職務が何を意味するのかを容易に見出すことができるでしょう。あなたに王冠を授けられた全能の神が、あなたのすべての敵に対してあなたを強くし、あなたに長寿と勝利の栄光を与えてくださいますように。
その願いが叶いますように。
https://web.archive.org/web/20151002005827/http://epistolae.ccnmtl.columbia.edu/letter/39.html

もとよりマティルデのミェシュコ2世への接近が、どこまで奏功したかは、分からない。
ミェシュコ2世がコンラート2世に降伏し、王位を断念し、臣従したのは1033年のことである。
これより先に、上述のように1025年12月には、彼女の夫の父、上ロートリンゲン大公ディートリヒがコンラート2世に臣従していた。
しかし、エルンスト2世の反乱に与した小コンラート、上ロートリンゲン大公フリードリヒ、シュヴァーベンの伯ヴェルフ2世らは、エルンストが1026年2月にコンラート2世に「降伏」したあとも、これに同調せず、最終的に、エルンスト2世の再度の反乱の失敗後、1027年9月に「降伏」する(フリードリヒは後述のようにこの間の1026年頃に亡くなる)。(次回・次々回の記事を参照。また、マティルデのミェシュコ2世への接近が1025~1027年の間と考えられるのも、このためである)
1030年復活祭時、インゲルハイムでの王国会議に、マティルデはギーゼラ・コンラート2世夫妻とともにあり、この間に、関係修復がなされたと考えられている。(小コンラートの処遇問題の解決は、もう少し先になるが)
マティルデは1032年に亡くなる。
2人目の夫、上ロートリンゲン大公フリードリヒもすでに1026年頃亡くなっており、マティルデの妹である王妃ギーゼラは、両人の間の孤児となった2人の娘、ベアトリクス(1020年頃生まれ)とゾフィアを引き取る。
恩讐を越えた、姉妹の絆、あるいは情といえようか。
ちなみに、ベアトリクスは長じて、自分の娘に母マティルデの名をつけることになる。「カノッサの屈辱」で知られるトスカナ女伯マティルデである。
冒頭の写真
シュパイアー大聖堂公園ザーリア朝皇帝像、ルードヴィヒ・カウアー、1925~1937
左からコンラート2世・ギーゼラ像、ハインリヒ3世、ハインリヒ5世、ハインリヒ4世
https://www.schwetzinger-zeitung.de/orte/speyer_artikel,-speyer-jubilaeum-der-kroenung-von-domgruender-konrad-ii-veranstaltungen-in-speyer-_arid,2237874.html
