【歴史再訪㉛】大王アッティラを継ぐ者たち⓫ テオドリック大王⑴ ゴート族
アッティラの重臣の一人であった東ゴート族の王ヴァラミールの甥テオドリックは、488年イタリアへ向けて移動を開始し、493年、西ローマ帝国を滅ぼしたオドアケルを倒し、東ゴート王国を建国します。大王アッティラを継ぐ者たちの最後を飾る人物として、旧西ローマ領で覇を唱え、大王と呼ばれたテオドリックの足跡をたどります。
はじめにテオドリックの出身部族であるゴート族について確認していきます。
すでに【歴史再訪㉒】❸「ゲピト王アルダリヒ」のところで、ゲピト族に関連して、ゴート族に関して扱いました。
重複する部分が多々ありますが、ご海容願います。
♯ ゴート族――出自神話から・・・
ゴート族に関して最も古い言及は、タキトゥス『ゲルマニア』(98年頃)c.43に「ルギイ族の彼方に、ゴトネス族が、王に支配されて住む」、とあり、この「ゴトネス族」が「ゴート人」の祖先とみなされてきた
6世紀中葉、ヨルダネスがその著『ゲティカ』De origine actibusque Getarumにおいて、ゴート族の「出自神話」を記し、いい意味であれ悪い意味であれ、ゴート族を語るさいの出発点を提供する。
長くなりますが、関係箇所を紹介します。
理解を助けるため、あらかじめ地図(再掲)を添えます。

「この巨大な海にはそのおおぐま座の方角、すなわち北部にスカンザと呼ばれるとても広大な島がある。もし主が助け給うなら、そこから私たちの物語が始まるべきである。なぜなら、君がその起源を書くよう求める民は、この島の中心から蜜蜂の群れのように激しく飛び出してエウロパ(=ヨーロッパ)の大地にやってきたからである。いかなる仕方で、どのようにして彼らがやってきたかについては、主が恵み給うならば、私たちは続く文章で説明しよう」(c.9)
「スカンザには、数多くの様々の民が住んでいる」(c.19)
(以下、つぎのような種族名がつづく「アドギト人、スクレレフェンナエ人、スエハンス人、テウステス人、ウァゴート人、ベルギオ人、ハリン人、リオティダ人、アヘルミル人、フィンナイタエ人、フェルウィル人、ガウティゴート人、ミクシ人、エウァグレ人、オティンギス人、オストロゴタエ〔東ゴート人〕人、ラウマリキ人、アエラグナリキイ人、フィンニ人、ウィノウィロト人、スエティディ人、ヘルリ人、グランニイ人、アウガンジ人、エウニクシ人、タエテル人、ルギ人、アロキ人、ラニイ人」)
「ゴート人はその昔、このスカンザ島から、まるで諸民族の工房、あるいはともかくも諸部族の鞘からかのように、ベリグという名の王と共に出て行ったと記憶されている。船出した人びとは陸地に到達するやいなや、その土地に名前を与えた。すなわち今日でもその地は、言われているところでは、ゴティスカンザと呼ばれている」(c.25)
「それからすぐに、大洋の岸辺を占拠していたウルメルギ人の住む地へ前進して、陣営を築き、戦いを仕掛けて彼らをその地から追い払い、それからこの人びとの近隣にいたヴァンダル人をすぐに屈服させ、その勝利に付け加えた。実際、人口はその地で非常に増えていったが、ガダリクスの息子フィリメルがベリグを継いで5代目の王となった直後、ゴート軍を家族と共にその地から動かすことを決断した。」(c.26)
「彼(フィリメル)は最適な住処と適当な場所とを捜している間に、スキュティア人の、彼らの言葉ではオイウムと呼ばれる土地に到達し、その地域の大いなる豊かさに魅了された。しかし軍団の半ばまでが移動したとき、川を渡るための橋が修復不可能なほどに崩壊してしまい、誰もがもはや進むことも戻ることもできなくなったと言われている。すなわちこの場所は、言われているところでは、[足元が]不安定な沼地によって囲まれた亀裂のために閉ざされているのであり、これら二つの自然の無秩序さのために近づきがたくなったのである。それにもかかわらず旅人たちの証言を通じて、今日もそこでは家畜の鳴き声が聞こえ人間の痕跡が認められることを、遠くから聞き取られたにすぎないにせよ信じられる。こうしてゴート人のうち、フィリメルのもと川を渡ってオイウムの地に進んだと言われる一派は望ましい土地を得た。」(c.27)
「その人々は遅れることなくすぐにスパリ族のところに辿り着いて、戦いを交えて勝利を手に入れ、そこから今や征服者であるかのように、ポントゥス海〔黒海〕に近いスキュティアの最果ての地方へと急いだ。このようなかたちで彼らの古い詩ではほとんど歴史であるかのように、誰によっても想起されるものとなっている。」(c.28)
かつては主にこのヨルダネスの記述に基づき、ゴート族は「スカンザ島」=スカンディナヴィア半島南部ゴートランド(イェータランド)を故地とし、1世紀頃にバルト海を渡ってポンメルン地域=「ゴティスカンジャ」に移住し、その後さらにローマ国境・ドナウ川沿いに東南に移動し、2~3世紀にはドナウ下流域・黒海北西岸地域に達した(この間に西ゴート族と東ゴート族に二分)、とされた。
♯ ・・・脱神話化へ
しかし、スカンディナヴィア半島南部ゴートランド(イェータランド)に「ゴート族」と思われる民族集団の痕跡がないことから、同所をゴート族揺籃の地とする見方は、今日、ほぼ否定されている。
他方、「ゴティスカンジャ」に比定されるバルト海沿岸地域に、1世紀以降、ヴィェルバルク文化と呼ばれる、1~3世紀の鉄器時代の埋葬遺跡(火葬と土葬の混在)・環状列石[ストーンサークル]が蝟集し、この文化の担い手が、初期ゴート族と考えられるようになった。
ヴィェルバルク文化はローマ国境・ドナウ川沿いに伝播し、ドナウ下流域・黒海北西岸地域に同様な文化圏が見られ、この文化伝播はゴート族の移動と重なる事象とみられている。


さて、ヴィェルバルク文化の担い手である、1~3世紀の初期ゴート族であるが、ここでの部族集団は、一つの集団(一人の統率者=王に率いられた集団)ではなく、いくつもの小集団から成る。
かつ、部族集団としての「純粋性」ないし「閉鎖性」、確固たるアイデンティティを有していたわけではなく、むしろ「開放性」のもとにあった。
別の言い方をすると、タキトゥスの伝える1世紀末の「ゴトネス族」、あるいは1~3世紀のヴィェルバルク文化の担い手とされる初期ゴート族が、そのまま1つの部族集団「ゴート族」として存在・存続してきたわけではない。
とりわけ、様々な事情から――「最適な住処と適当な場所とを捜して」『ゲティカ』c.27――移動を余儀なくされるときなどには、集団成員の分裂や、他の集団(時に他の部族集団)からの合流がみられ、その結果、集団成員の構成は常に流動的であって、移動期の部族集団というものは部族・種族的に多様な集団なのであった。
こうした事情はゴート族に限らず、同時代のゲルマン諸部族一般に関していいうること。
1世紀末のタキトゥスの伝えるゲルマン諸部族のほとんどが、その後の歴史のなかでその名を消してしまうが、それは上の事情からして当然のことなのである。
部族はたえず生成・消滅を繰り返す。運よく部族名が存続したとしても、その集団の「部族的」構成は、その「開放性」のゆえに、「純粋」なものではありえず、通例、部族・種族的に多様な混成集団がその実態なのである。
ゴート族の場合、2~3世紀にドナウ中流域から、ドナウ下流域・黒海沿岸地域に広く定着・分布し、ローマ帝国側から初めてゴート人(Gothi)と呼ばれ登場する。
しかし、実態としては幾つもの小集団から成り、ゴート族としての「部族意識」あるいは部族的アイデンティティはあったとしても、ゆるい紐帯としてであり、強固なものではなかった。
♯ 「ゴートの嵐」 Gotensturm
3世紀、ローマ帝国の国境沿い、ドナウ下流域~黒海北西岸のステップ地帯に定着したゴート人は、さながら星雲のように、いまだ、幾多の小集団に分かれたまま、日々を生きていた。
もとより、静かに、ではない。
それこそ「蜂の群れのように」、幾つもの小集団が広大な地域を襲うのだ。
彼らは、236/38年のヒストリアHistria掠奪を皮切りに、270年頃まで断続的に、ローマ帝国領内に侵攻し、ドナウ下流域、黒海沿岸地域、エーゲ海地域、バルカン半島を、また、西方のパンノニア、モエシア、ダキアを、荒らしまわる。
ローマ帝国は「ゴートの嵐」と呼ばれるこのゴート人の襲来に悩まされ、251年のアブリットゥス(現ラズグラト、ブルガリア)の戦いでは、いわゆる軍人皇帝の一人、デキウス帝が戦死した。


https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Aureus-Trajan_Decius-RIC_0029a.jpg

(中央はデキウス帝の息子ホスティリアヌス、あるいはその兄で、アブリットゥスの戦いで戦死したヘレンニウス・エトルルクスと見られている)
1621年に発見された3世紀半ばの石棺の彫刻
被葬者はホスティリアヌス、あるいはヘレンニウス・エトルルクスと見られている
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:10_2023_-_Palazzo_Altemps,_Roma,_Lazio,_00186,_Italia_-_Sarcofago_Grande_Ludovisi_(Grande_Ludovisi_sarcophagus)_-_Arte_Romana_-_Photo_Paolo_Villa_FO232047_ombre_gimp_bis.jpg
♯ 部族形成
こうした動きと並行して、3世紀中頃から、2つの集団が有力になる。
ヨルダネスによるならば、黒海北西岸のステップ地帯に定着していたゴート族のもとで、ドニエステル川を境に、東にグルツンギGreuthungi(「草原の住民」もしくは「海岸の住民」の意)、西にテルヴィンギThervingi(「森の人びと」の意)と呼ばれる集団が形成・台頭し形成される。
さらにその後、グルツンギ・テルヴィンギそれぞれが中核となって、オストロゴートOstrogoth(東ゴート族)・ヴィシゴートVisigoth(西ゴート族;「ヴィシ」は「善良な」の意といわれる)――但しこの名称は378年のアドリアノープルの戦い以降に登場――が形成される。

♯ 王の登場
ゴート人たちがより大きな部族集団――東ゴート族と西ゴート族――に収斂されていくにあたって、そうした集団を統率する者の存在が大きな比重を占めた。
「王」と呼ばれる者たちである。
史料的に実在が確実視される、早期、3世紀半ばの王として以下の者たちが知られる。
• オストロゴータ(3世紀半ば~後半):ゴート族が二大集団に分裂する時期、のちの東ゴート系の集団の王
・248年、ローマ領のパンノニア・モエシアに侵攻するも、軍人皇帝の一人ピリップス・アラブス帝(244-249)に敗れる。
• クニヴァ(c.250):オストロゴータの後任のようであるが、同一家門の出自ではないと思われる。
・250年、ローマ領のモエシア、ダキアに侵攻。デキウス帝(249-251)を破る(上述)も、252年、マルクス・アエミリウス(翌年皇帝位に就く)に敗れる。
• エルマナリック(†375):のちの東ゴート系の集団の王
・フンの侵入を受け、自殺に追い込まれる。
♯ 王家の成立
こうした王たちの出自した家―王家について見てみよう。
ヨルダネスの『ゲティカ』は、東ゴート族の累代の王家として、アマラー(アマリー)家を挙げ、オストロゴータ、エルマナリックもその一員とし、後年のテオドリック大王につながる家門とする。
しかし、3~4世紀のゴート族は、上述のように、幾つもの小集団から成り、統一的な支配権=王のもとにあったわけではなく、ヨルダネス自身も挙げる王クニヴァの存在自体が、アマラー家のみが王権を担ったわけではないことを示す。
西ゴート族の累代の王家として、ヨルダネスはバルト家を挙げる。
ヨルダネスによると、元々はアマラー家に次ぐ位置を占めたが、ゴート族の二分後はテルヴィンギ集団=西ゴート族の王家となる、とされる。
しかし、アドリアノープルの戦い(378)前後の時期には、西ゴート族を率いる複数の「王」(族長?)アタナリックとフリティゲルン、アラウィウスが知られ、次いでアタナリック配下の「小王」ロテステウス、その息子アタリッドが登場し、アラウィウスを除き、いずれもバルト家の出自ではない。

Eduard Bendemann, 1860 https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Athanaric_and_Valens_on_the_Danbue.png
なお、民族大移動の嚆矢となったとされる376年の西ゴート族のドナウ国境突破は、フリティゲルンとアラウィウスが率い、ライヴァルであったアタナリックはこの時はドナウ渡河をしてはいない。
4世紀末、西ゴート族の統率者としてアラーリックが登場するに至って、研究史上では彼を最初の西ゴート王(アラーリック1世[395-410])とするが、その彼の一門がバルト家である(上述のアラウィウスをバルト家出身で、アラーリックの父、と見る研究者もいるが、不詳)。
アマラー家がゴート族-東ゴート族累代の王家として喧伝されるのは、後年、テオドリック大王の時代。
おそらくはアマラー家は、ゴート族を構成する諸集団の一つにおける「王」の一門であって、部族全体がゆるい紐帯で結ばれた連合体であったと思われることから、その王は決して全体の統率者という存在ではなかったと考えられる。
またアマラー家の起源がどこまで遡りうるかは、実際には明確ではなく、確実なのは3世紀半ばころに確認されることのみである。
たえず生成・消滅を繰り返す部族集団(上述)にあって、「王」は決して永久不滅の存在ではなかったであろう。
「王」が成立し、存立・存続しうる条件は何であったか――。これについては、次回の記事であらためて取り上げたい。
♯ ゲルマン民族の大移動 東ゴートのフンへの服属
いわゆるゲルマン民族の大移動の発端は、376年、西ゴート族のドナウ川国境突破であった。
アジア系の遊牧騎馬民族フンが、4世紀中頃、中央アジアから西に移動を開始する。
4世紀後半、黒海北西岸に定着していた東ゴート族を破り、これを服属させ、さらに、その西の西ゴート族に迫った。
西ゴート族は、ローマ帝国との国境(ドナウ川)近くへまで移動し、ローマ帝国のウァレンス帝(364-378)から同意を得て、国境を超えた(376年)。
しかし配給食糧の不足から略奪行為をするにおよび、ローマ帝国軍と衝突する事態にいたる。
帝都コンスタンティノープルに迫った西ゴート族と、ウァレンス帝が率いるローマ帝国軍とが、コンスタンティノープル北西方のアドリアノープル(現エディルネ)で激突する。
西ゴート族が勝利し、ウァレンス帝は戦死してしまう。いうところのアドリアノープルの戦い(378年)である。

西ゴート族はその後、長い移動をへて、418年、王ワリアのもと、西ローマ帝国と同盟条約を結び、ここにガリア南東部にトロサ(現フランスのトゥールーズ)を首都とする西ゴート王国が成立する。
一方フンはステップ地帯をさらに西進し、5世紀初にはドナウ川中流域の平原を制圧する。
この間に東西に分裂したローマ帝国のうち、東ローマ帝国に対しては侵入と略奪をくり返す。
西ローマ帝国に対しては、西ローマの将軍アエティウスの傭兵となって、帝国内の内戦やゲルマン諸族との戦争に参加する。そして433年、将軍アエティウスとの取り決めにより、パンノニアを割譲させ、以後、このパンノニアを拠点とする。
フン服属下におかれた東ゴート族は、フンと共にパンノニアへ移り、そこに定住することになる。
以後の展開――王アッティラの登場(434)・カタラウヌムの戦い(451)など――については、すでに幾度か取り上げた。
453年、アッティラは自らの婚儀の祝宴において急死し、その後、彼の帝国はあっけなく瓦解してしまう。
パンノニアにあって、アッティラの帝国に服属していた東ゴート族の命運ははたしてどうなるのか?
次回に続きます。
冒頭の図絵
司教ウルフィラ(c.311-383)から福音を説かれるゴート(テルヴィンギ)人戦士(木版画、1890年)(テルヴィンギについては本文を参照)
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Bischof_Ulfilas_erkl%C3%A4rt_den_Goten_das_Evangelium.jpg
