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【歴史再訪㉒】大王アッティラを継ぐ者たち❸ ゲピト王アルダリヒ――われらくじ引きされる奴隷に非ず

アッティラの重臣として、その枢機に与った一人、ゲピト族の王アルダリヒ。彼はアッティラ(†453)死後のフン帝国崩壊を決定づけたネダオ河畔の戦い(c.454)を、主役となって勝ち抜き、独立王国を打ち立てる。

民族移動期のゲルマン諸王国の興亡の典型例として、ゲピト族の足跡、5世紀半ばのアルダリヒによるゲピト王国の建国、そしてゲピト王国のその後、を追います。


♯ アッティラ麾下のアルダリヒ


アルダリヒが、フン族の王アッティラに服属する一ゲルマン部族、ゲピト族の首長でありながら、アッティラの幕僚として、彼からの信を得ていた人物であったこと、――前回の記事㉑でのべたことであるが、あらためて確認しておこう。

アッティラは、服属諸部族を補助軍として駆り出し、戦闘においては自身の直接の指揮下に置いた。
ヨルダネス『ゲティカ』から、再度引こう。

「他の、数多の、様々な民族の王たちや首長たちは・・・護衛兵たちのようにアッティラの合図を待ち、彼が目で合図をすると、おのおのが恐れおののきながらも文句を言わずに前に進み出て、自分に命ぜられたことを、確かにこなした。しかし、一人、すべての者の上に立つ王の中の王アッティラは、すべてのことをこなした」

再掲 ヨルダネス『ゲティカ』38章

しかし東ゴート族とゲピト族の軍隊に関しては、ヨルダネスは明示的には記さないが、その行間から、アッティラが、それぞれの王ヴァラミール、アルダリヒに指揮をまかせたことがうかがい知れる。

長くなるがここでも、ヨルダネス『ゲティカ』から、再度引こう。「カタラウムムの野」でヴァラミールとアルダリヒに、対面する「西ゴートとの戦いを委ねた」とされている。

「彼の両翼を形成したのは、彼に服属する多くの様々な部族であった。その中でも一頭地を抜いていたのは、ヴァラミール、ティウディミール、ヴィディミール兄弟という統率者のもとにある東ゴート族であった。彼らは、アマラー一門の名声が彼らを際立たせていたため、彼らが当時仕えていた王(アッティラ)自身よりも高貴であった。非常に高名なゲピト王アルダリヒも、数多の部下とともにそこにいた。彼は、アッティラへの並々ならぬ献身のゆえに、彼への助言に与ることを許されていた。彼の洞察力を考慮して、アッティラは彼と東ゴート族の王ヴァラミールを、他の首長たちよりも評価した。というのも、ヴァラミールは口が堅く、会話が楽しく、策略にたけており、アルダリヒは、上で述べたように、その忠実さと助言において、証明済みだからである。[だから]彼(アッティラ)はおそらく彼らに同種族である西ゴートとの戦いを委ねたのであろう」

再掲 ヨルダネス『ゲティカ』38章

ヴァラミールとアルダリヒは、戦時においてアッティラの幕僚・参謀として活躍したのである。


ヴァラミール・アルダリヒ両者の、アッティラの軍事行動での活動は、カタラウヌムの戦い(451)以前、446-47年の東ローマ侵攻のさいにも、すでに見られる。

443年、アッティラは、東ローマが以前結んだ条約の履行(和約での貢納金の支払い)を求め、東ローマのバルカン半島各地を荒らし回る。
一旦引き上げた後、446年、再び侵攻する準備をし、447年初にコンスタンティノープルが地震に襲われたとの報を受け、侵攻を開始する。この行軍にアルダリヒ・ヴァラミール麾下のゲピト族・東ゴート族も加わっていたのである。

ヨルダネス『ロマーナ』から、関係個所を引こう。

「フン族の王アッティラは、アルダリクスとともにあるゲピト族ヴァラミールとともにあるゴート族と、そして王のもとにある他の諸国民と連合して、イリュリアとトラキアの全土、そしてダキア、モエシア、スキタイの両方を荒廃させた。彼らに対して、マルキアノポリスから出発したモエシアの将軍アルネギスクルスは勇敢に戦ったが、馬が横転したところで劣勢に立たされ、それでも[降り立って]戦いをつづけ、戦死した」

ヨルダネス『ロマーナ』Romana 331章

アッティラのこの侵攻に対し、東ローマ側も大軍を編成し、マルキアノポリスを発して迎え撃ち、両軍は属州ダキア・リペンシスの、現ブルガリアのドナウ支流ウトゥス(ヴィド)河畔で激突した(447年、ウトゥス河畔の戦い)。

この戦いで、東ローマのトラキア方面総司令官アルネギスクルス(ゴート人)は戦死し、アッティラ軍は、大きな損害を被ったものの、勢いを駆ってマルキアノポリスを占領・破壊し、コンスタンティノープルへ向かった。しかし攻略できず、南下してバルカン半島各地を襲った。

東ローマ皇帝テオドシウス2世(在位408-450)が、軍事総司令官アナトリウスを派遣して、和平交渉を進めた結果、448年、東ローマ側が毎年の貢納金2100リブラの金を支払うこと等を定めた和が成った(アナトリウスの和)。

アルダリヒが率いたゲピト族とは、どのような部族集団であったのだろうか。


♯ ゲピト族


ヨルダネスによるならば、ゲピト族はゴート族と同根であり、ゴート族に遅れて移動を開始した。

「私がが冒頭で述べたことを思い出したまえ。つまりスカンザ島の内奥からゴート人が王ベリグと共に出ていったこと、たった3隻の船でこちら側の大洋の沿岸、つまりゴティスカンザへとやってきたことを。その3隻のうち1隻は、よくあるように遅れて到着したのだが、それがこの民(ゲピト)に名を与えたと言われる。すなわち「遅い」は彼らの言葉で「ゲパンタ」と言われており、ここから徐々にかつ崩れて、彼らに対して非難を込めて「ゲピダエ」という名が生まれたのである。たしかに彼らもゴート人の血統に由来するが、私が述べたように、「ゲパンタ」は何か遅いものや鈍いものを指すので、ゲピト人の名前が謂われのない非難から生まれたとするのは、大きく間違っているとは私は思わない。というのも彼らは知性においてより遅れており、体の動作においてより鈍重だからである」

ヨルダネス『ゲティカ』17章

ゲピト族をゴート族と同じ種族である、とする見方は、上掲の「カタラウヌムの戦い」の個所でも述べられていた。

「[だから]彼(アッティラ)はおそらく彼ら(東ゴートのヴァラミールとゲピートのアルダリヒ)に同種族である西ゴートとの戦いを委ねたのであろう」

上掲 ヨルダネス『ゲティカ』38章

しばらく、ヨルダネスのいうところが正鵠を得ているか、見ていこう。
まず、ゴート族に関して知られるところから始めよう。
 
かつては主にヨルダネスの記述に基づき、ゴート族は「スカンザ島」=スカンディナヴィア半島南部ゴートランド(イェータランド)を故地とし、1世紀頃にバルト海を渡ってポンメルン地域=「ゴティスカンジャ」に移住し、その後さらにローマ国境・ドナウ川沿いに東南に移動し、2~3世紀にはドナウ下流域・黒海北西岸地域に達した(この間に西ゴート族と東ゴート族に二分)、とされた。
 
ちなみに、この過程の間の1世紀末、タキトゥス『ゲルマニア』(98年頃)c.43に「ルギイ族の彼方に、ゴトネス族が、王に支配されて住む」、とあり、この「ゴトネス族」が「ゴート人」の祖先とみなされてきた。

しかし、スカンディナヴィア半島南部ゴートランド(イェータランド)に「ゴート族」と思われる民族集団の痕跡がないことから、同所をゴート族揺籃の地とする見方は、今日、ほぼ否定されている。
 
他方、「ゴティスカンジャ」に比定されるバルト海沿岸地域に、1世紀以降、ヴィェルバルク文化と呼ばれる、1~3世紀の鉄器時代の埋葬遺跡(火葬と土葬の混在)・環状列石[ストーンサークル]が蝟集し、この文化の担い手が、初期ゴート族と考えられるようになった。
 
ヴィェルバルク文化はローマ国境・ドナウ川沿いに伝播し、ドナウ下流域・黒海北西岸地域に同様な文化圏が見られ、この文化伝播はゴート族の移動と重なる事象とみられている。

確実なのは、ゴート族は2~3世紀にはドナウ下流域・黒海北西岸地域に達し、この間に西ゴート族と東ゴート族に二分し、また同時期ゲピト族は黒海北西岸のステップ地帯に定住したことである。
 

ゴート族・ゲピト族(2~4世紀)

つぎに「同種族」という点について、「部族形成」の側面から、考えてみよう。
 
1~3世紀の「ゴート族」として捉えられる部族集団は、一つの集団(一人の統率者=王に率いられた集団)ではなく、いくつもの小集団から成るものであった。
かつ、部族集団としての「純粋性」ないし「閉鎖性」、確固たるアイデンティティを有したものではなく、むしろ「開放性」のもとにあった。
 
別の言い方をすると、タキトゥスの伝える1世紀末の「ゴトネス族」、あるいは1~3世紀のヴィェルバルク文化の担い手とされる初期ゴート族が、そのまま1つの部族集団「ゴート族」として存在・存続してきたわけではないのだ。
 
とりわけ、様々な事情から――「最適な住処と適当な場所とを捜して」『ゲティカ』c.27――移動を余儀なくされるときなどには、集団成員の分裂や、他の集団(時に他の部族集団)からの合流がみられ、その結果、集団成員の構成は常に流動的であって、移動期の部族集団というものは部族・種族的に多様な集団なのであった。
 
こうした事情はゴート族に限らず、同時代のゲルマン諸部族一般にいえること。
1世紀末のタキトゥスの伝えるゲルマン諸部族のほとんどが、その後の歴史のなかでその名を消してしまうのは、この意味で当然である。
部族はたえず生成・消滅を繰り返す。運よく部族名が存続したとしても、その集団の「部族的」構成は、その「開放性」のゆえに、「純粋」なものではありえず、通例、部族・種族的に多様な混成集団がその実態なのだ。
 
ゲピト族がゴート族と同根である、同種族である、という場合、移動期の初めにゴート族から分かれて「ゲピト族」が形成され、そのまま「遅れて」黒海北西岸ステップ地帯まで移動し、定着した、というものではおそらくない。
 
それ自体が部族・種族的に多様な混成集団であった、いくつもの小集団から成る、移動期の「ゴート族」にあって、相対的に大きな集団となってまとまったものが生き残り(名を残し)、そこからさらに「東ゴート」「西ゴート」が形成されていく。
3世紀半ばにその名が見られる「ゲピト族」であるが、これもおそらくは上のような過程のどこかで形成された「部族集団」であった。
 
 
ゲピト族は、黒海北西岸のステップ地帯に定住していたが、4世紀後半、東ゴート同様、フンの支配に服すことになる。
そうして、以後、5世紀半ば、アッティラの支配下での王アルダリヒの登場まで詳細は不明である。

アッティラの帝国(450年頃)
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Huns450.png


♯ アルダリヒによるフン支配からの脱却―建国

アッティラのもとでのアルダリヒの活動については、残念ながら、上に述べてきたことにほぼ尽きる。

彼にとっての転機はアッティラの死の直後に訪れる。

アッティラ(†453)の死後、息子たちの間で相続問題が起きる。
アッティラの息子は数多存在したといわれるが、そのうち3名――長子エラク、デンギジク、末子エルナク――のみ、名を知られる。

長子エラクについて、ヨルダネスは

「父(アッティラ)は彼を他の誰よりも愛し、帝国にいる他のすべての息子たちよりもことのほか贔屓していたといわれる」

ヨルダネス『ゲティカ』50 章

と語っており、事実、すでに449年頃、支配下に置いたアカツィル族の王に就かせていた(前回の記事㉑を参照)。

末子エルナクについてはプリスコスがつぎのように記す。

「アッティラは表情一つ変えることはなく、言動にも陽気なところは全く見受けられなかった。末子のエルナクが宴会場に入ってきて、彼の前に立つまでは。王はこの子供の両頬をつねり、穏やかな眼差しで彼を見つめた。私(プリスコス)は、王が他の息子たちはほとんど顧みず、もっぱらこの末子のみに関心を向けていることに驚いた。その時、私の隣の席の蛮人がラテン語で、これから話すことを他言しないようにと釘を刺した上で、教えてくれた。占い師たちがアッティラに、彼の子孫は悪運に見舞われるだろうが、この息子が復興を成し遂げるだろうと予言したのだ、と」

プリスコス『断片』8

父親にとっての長子と末子、どこにでもありそうな扱いである。
問題は、アッティラが急死し、相続問題に事前に道筋をつけておかなかったことである。息子たちの間で相続問題の解決が図られる。
 
長くなるが、しばらくヨルダネスを引こう。

「その後アッティラの後継者の間で帝国をめぐる争いが勃発した。通常、権力への欲望が若者を刺激する。そして彼らは愚かにも、皆が統治したかったため、皆が同時に統治を失った。王国にとって、王位継承者が豊富であることは、その不足よりも悲惨であることがよくある。というのは、アッティラの息子たちは、彼(アッティラ)の際限のない欲望のために[彼らだけで]ほとんど一つの部族を形成していた[=息子たちがそれほどに多数いた、という意]のだが、[服属する]諸部族を自分たちの間で平等に分配することを要求し、その結果、好戦的な王たち(=息子たち)は部族に関して農奴のようにくじ引きしたからである。ゲピト王アルダリヒはこれを知ったとき、かくも多くの部族の運命が卑しい奴隷の運命のように扱われていることに憤り、真っ先にアッティラの息子たちに対して立ち上がり、奴隷の恥ずべきくびきを喜んで振り払い、彼の部族のみならず同じく抑圧されていた他の部族をもまた、(フンからの)離脱によって救い出した。なぜなら、誰もが皆の利益のためにおこなわれていることに参加することを好むからだ。今や彼らは相互殲滅戦の準備をしていた。事態はパンノニアにおいてネダオという川で戦闘に至った・・・」

ヨルダネス『ゲティカ』50 章


♯ ネダオ河畔の戦い(454年頃)


アッティラの息子たちは、相続をめぐり、兄弟間で領土の分割とともに、服属する諸部族の平等な分割を図った。そのために「くじ引き」をした。
「くじ引き」で解決を図る――、それ自体は相続争いを避けるための、賢明な策であったといえるかもしれない。

しかしこれにアルダリヒが憤った。
「多くの部族の運命が卑しい奴隷の運命のように扱われている」ように見えたからだ。

彼アルダリヒは「奴隷の恥ずべきくびきを・・・振り払」わんと、フンに反旗を翻す決意を固めた。
もとよりヨルダネスの伝える話にどこまで信を置いてよいか問題は残るが、他の部族ともどもフンを離脱せんとする。

かくして、454年頃、フンの支配からの自立をめざす、アルダリヒが主導する旧服属諸族の連合軍と、エラク率いるフンとその服属部族の軍隊とが、パンノニアのネダオ河畔で激突する。

また長くなるが、ヨルダネス『ゲティカ』50 章 のつづきを見よう。

「・・・事態はパンノニアにおいてネダオという川で戦闘に至った。ここで、アッティラが支配下に置いていた諸部族が衝突した。(アッティラの)帝国は諸部族とともに分裂し、一つの体から別々の部分となり、一つの部分が苦しむと、もはや苦しみに耐えるよう手を差し伸べることもせず、頭部が破壊されると互いに激怒した。最も勇敢な部族にあっても、自らを引き裂くようなことがなければ決して彼らに敵うような敵に出会うことはなかったであろうが、自らを疲弊させんばかりであった。それは実に見事な光景だったに違いない。そこでは、ゴート族が槍で戦い、ゲピト族が剣で荒れ狂い、ルギー族が傷口で武器を折り 、スエビー族がその速さで戦い、フン族が弓に優れ、アラン族が重い鎧をまとい、ヘルリー族が軽い武器をもって戦いに闊歩する。長く困難な戦いの末、ゲピト族に予期せぬ勝利が微笑んだ。というのは、フン族とフン族に協力した他の諸部族の3万人が、アルダリヒとその共闘者の剣によって殺されたからである。
この戦いでアッティラの長男、エラクが命を落とした。父(アッティラ)は彼を他の誰よりも愛し、帝国にいる他のすべての息子たちよりもことのほか贔屓していたといわれる。しかし、運命は父親の願いとは一致しなかった。多くの敵を殺した後、彼は男らしく戦いながら倒れたといわれており、父も――もし彼がまだ生きていたなら――同じように輝かしい死を望んでいただろう。しかし、彼の死後、彼の兄弟たちは黒海の沿岸に追いやられた。そこは、先に語ったところによれば、ゴート族が居住していたところであった。かくして、世界が屈服すると誰もが予想したフン族が、敗北した」

ヨルダネス『ゲティカ』50 章

ネダオ川は、現在のどの川か不明で、ドナウ川右岸の最大支流サヴァ川の、さらに支流と考えられている。

フンに服属した諸部族が、どちらの陣営に立ったかは、ヨルダネスの叙述では分かりにくいが、他の史料などとの突合せから、次のように考えられている。

アルダリヒのゲピート族側に立ったのは、ルギー族・スエビー族・ヘルリー族、そしてスキリー族・サルマティア族。
フンの側に立ったのは、東ゴート族・アラン族。

東ゴート族の場合でいうと、ヨルダネスの伝える「ゴート族」がフンの側にあったのか、アルダリヒとともに戦ったのか、判然としない。
同一の研究者が、著作によって、真逆のことをのべていることもあり、読者を困惑させる。
 
しかも、東ゴート族に限らず、各部族民が一致して一つの側についたわけでなく、分裂して別々の側にいた可能性も大いにある。
そこで、そもそも東ゴート族の場合、ヴァラミール麾下の主勢力は参戦していなかったと見る向きもある。
 
別の機会にのべるつもりであるが、私としては、この時期に東ゴート族から、ヴァラミール、ティウディミール、ヴィディミール兄弟の麾下にない、いくつかの小集団があらわれていることから、「敗戦」により部族の結集力が弛緩したと考えられ、このことから東ゴート族はネダオ河畔の戦いではフンの側にあったと見るべきでは、と考えている。


ネダオ河畔の戦いはアルダリヒ側の勝利に終わった。
おそらくはフン勢力は急速に求心力を失い、この戦いの前後にも、服属諸部族との戦いに破れ、黒海方面へ四散したのであろう。まもなくその名を見ることはなくなる。

アッティラの軛(くびき)からの解放を祝うゲルマン諸部族長たち
Julius Naue, 1868
https://www.germanicmythology.com/works/Nau_Volkerwanderung.html


♯ ゲピト王国の成立


ネダオ河畔の戦いは、フンに服属した諸部族のフンからの自立をもたらした。

アルダリヒダキア地域を支配下においた。ゲピト王国の成立である。
他方、おそらくは敗者の側に回ったヴァラミール麾下の東ゴート族は、曲折をへて、パンノニア南部を占有した。これについては別の機会にふれたい。

再再度、ヨルダネスの『ゲティカ』を引こう。

ゲピト族はフン族の以前の領土を武力で奪い、勝利者としてダキア全土を支配下に置き、ローマ人との友好条約では勇敢な者として平和と貢納金だけを求めた。皇帝はこれを喜んで承認し、今日に至るまでこの人びとはローマ皇帝から伝統的な贈り物を受け取っている。しかしゴート族は、・・・フン族が自分たちの古い居住地を占拠しているのを見て、自ら外に侵攻する危険を冒すよりも、ローマ帝国に土地を求めることを選び、東に上モエシア、南にダルマチア、西にノリクム、北にドナウ川がある広大な平原であるパンノニアを手に入れた

ヨルダネス『ゲティカ』50 章


♯ アルダリヒとゲピト王国のその後


ゲピト王アルダリヒは、ネダオ河畔の戦い(c.454)をもって、実は史料上その姿を消し、われわれは残念ながら彼のその後を追跡することはできない。

しかしゲピド王国自体は、アルダリヒ以後も存続し、われわれは時おり、他の部族の歴史において遭遇する。

例えば、488年、ゲピト王トラウスティラが、イタリアをめざす東ゴートの王テオドリックとパンノニア南部シルミウム(現セルビアのスレムスカ・ミトロヴィツァ)近くで戦い、敗北したことが知られる。

ゲピト王国は6 世紀前半に最盛期をむかえるが、しかしその後まもなく567年に、ランゴバルト族の王アルボインによって滅ぼされる。なお、アルボインは直後の568年、東ゴート王国を滅ぼしたビザンツ帝国支配下の北イタリアに移動・侵攻する。

470年頃のヨーロッパ東部


♯ 付記 ゲピト文化


ゲピト王国の遺跡等は残っていないが、墳墓が数多く残っており、その発掘調査からの出土品が往時の隆盛を忍ばせる。

墳墓は、5世紀半ば~後半の時代はルーマニアのトランシルヴァニアの北西部に、6世紀からはハンガリー平原に多数見られる
出土品から、スカンジナビア・チューリンゲン・バルト海沿岸・ビザンツとの密接な交流が推察される。

1889年・1968年・1973年に発掘調査されたトランシルヴァニアのアパヒダの3墳墓は、475年頃のゲピト王の墳墓ではないかと推察されている。

以下、ゲピト王国の往時を偲ばせる出土品をいくつか紹介することで、本記事を締めくくりたい。(いずれもルーマニア国立歴史博物館蔵)

1889年発掘の墳墓から出土した指輪と腕輪。指輪にはOMHALVS(王の名か?)の銘
1889年発掘の墳墓から出土したベルトのバックル
(左)1889年発掘の墳墓から出土したオニオンボタンブローチ
 (右)参考 フランク王キルデリヒ(5世紀半ば)の墓から出土したオニオンボタンブローチ
1968年発掘の墳墓から出土した一対の鞍飾り(ガーネットを用いた七宝装飾)

冒頭の写真
上掲 1968年発掘の墳墓から出土した一対の鞍飾り


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