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映画ノート⑬ 映画と演劇を融合させたメタフィクション映画『劇場』

又吉直樹原作『劇場』は、観る人によって好悪がはっきり分かれる問題作。      
脚本家・俳優としての自分の才能を疑いながらも演劇への夢を捨てきれず、自堕落ですさんだ生活を送っているダメ男永田と彼の才能を信じて支え続けたピュアで優しい女神のような女性沙希との7年間の愛と苦悩の日々を描いた悲恋映画。 

永田は高校時代の友人と小劇団を主宰しています。一度は自分が脚本を書いた公演が評判をとりますが、ビギナーズ・ラックだったのかその後が続きません。生活にも困窮した永田は下北沢にある沙希の部屋に転がり込みます。養ってもらっている上に甘やかされているという負い目と劣等感を隠すため必要以上に沙希に辛くあたる永田。

この辺り、全編、永田のモノローグとナラタージュによる一人称で物語が進んで行くので、観客には永田の不安定な心理状態が手に取るように分かる仕掛けになっています。その代わり、沙希が何を考えているかは、彼女の台詞や表情から想像するしかないので、もどかしい一面も。

狭いアパートでの二人の日々は、林静一とあがた森魚の『赤色エレジー』に一脈通じるものがありますが、一郎より永田の方が百倍性格が悪いです。自分勝手で自己中の永田のクソ男ぶりがすさまじく、巻き込まれた沙希もアルコール依存症になって次第に壊れていきます。

観客からすれば、「こんな最低のヒモ男とは、早く分かれたほうがいい!」と忠告したくなるのですが、沙希には永田と別れたくない彼女なりの理由が存在します。

高校卒業後、演劇女優を目指して青森からあこがれの東京に出て来た沙希。明示的にはっきり描かれている訳ではないのですが、上京早々、レベルの違いを思い知らされ、自分の才能に見切りをつけざるを得なかったのでしょう。

女優への道に挫折し、東京にいる意味を無くした沙希の前に現れたのが、売れない脚本家兼俳優の永田。沙希は永田の書いた台本を読んでその才能に驚き、惚れこみます。目標も失って空虚な沙希にとって同じ演劇での成功を目指す永田は希望の光であり、彼女を東京に繋ぎとめる唯一の絆でした。

沙希は何度も永田に裏切られ、褒められたり、愛の言葉をかけられたりしたことなど一度としてありません。それでも永田と別れなかったのは、永田の成功を夢見て彼を支え、尽くすことが沙希の生きがいであり、自分のアイデンティティを支えるよすがだったからです。

永田が沙希に依存するのと同じように沙希にとっても永田は自分の存在証明であり、二人の相互依存関係を続けるためにも「都合の良い女」を演じ続ける必要がありました。しかしそこには、果たしてそれが「愛」と呼べるものなのかという疑問が常に付きまとうのですが。

後半、沙希が壊れていくにつれて「都合のよい女」を演じ続けるのが難しくなり、少しずつ彼女の本音が顔を出し始めて永田を責めるようになります。沙希が永田と別れる決心をしたのは、自分がもうこれ以上「都合のよい女」という「一人芝居」を演じ続けられないと悟ったからに他なりません。金ならぬ「演技」の切れ目が永田との縁の切れ目だったという訳です。

沙希の「演技」が破綻し始める最初のシーンです。           映画の後半、激情に駆られて部屋で暴れる永田を沙希が咎めます。    「永くん、おかしいよ。」                      永田「そんなの、最初からでしょ。」                 「永くん・・・、私、27才になるんだよ。地元の友だちみんな結婚してさあ。私だけだよ、こんなの。」                   「次は一緒に住めるかなーと思って頑張ったけど、一人っきりで住んじゃうしさあ。」                             この後、沙希は、溢れ出てくる思いをついに制御できなくなります。   「もう、何考えてんのか分かんないよう。」              泣きじゃくりながらビールの空き缶を投げつけ、永田を叩く沙希。   

「いい女」を演じるために今まで必死に抑えていた本心を沙希が初めて吐露するこのシーンには、心が震えました。

実は、密かに己の才能に疑いを抱いている永田もそれを沙希に知られるのは耐えられません。沙希のイメージ通りの「今は売れていないけれど、本当は才能がある永くん」を無理して「演じて」見せているのは沙希と同じなのです。

人は誰しも対人関係ではTPOに応じて様々な役割を演じ分けて生きています。永田の場合は、劇団の仲間や小劇団界隈の人間たちに自分がどう思われているか気づいているだけに、沙希にだけは「自堕落だけど才能だけはある」と思われていたいと言う強い承認欲求があるのです。

沙希からの尊敬は、永田のブライドを支える最後の頼みの綱です。しかし、そうした願望と実像との乖離をうまく処理できない無自覚のストレスが、沙希への精神的DVとなって表れているという側面も。

心を病んだ沙希がアルコール依存症になり、気持ちも自分から離れ始めたことに気付いた永田は手のひらを返したように、急に沙希に優しく接するようになります。バイト先の店長のアパートから沙希を自転車に乗せて連れ帰る途中、永田は今まで一度も見せたことのないような明るい表情で沙希を褒め始めるのです。

とってつけたように饒舌に甘い褒め言葉を並べる永田に対して、この間、沙希は一言も発せず、顔も能面のように無表情なままです。後ろで聴いている沙希は永田が投げかける初めての優しい言葉に涙ぐみはするものの、その表情はずっと虚ろなまま。

急変した永田の態度の裏にある軽薄さや嘘っぽさ、そして「演技臭さ」を沙希は敏感に感じ取っていたのでしょう。そんなことで、沙希が心に受けた深い傷が癒されるはずはないのです。そのことは喋り続ける永田自身にも痛いほど分かっていたはず。

満開の桜の下を走る二人を乗せた自転車。美しい夜桜との対比が既に修復不能になってしまった二人の哀しい行く末を更に際立たせ、心に残る名場面になっていました。

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ストーリー的には最後まで陰々滅滅で救いようがないシーンが続くのですが、では、映画としてもダメなのかと言うと決してそんなことはなく、リアリティのある「青春映画」として立派に成立しており、傑作と呼んでも過言ではないレベルに達しているように思います。

この作品の成功は、一にも二にも主役を演じた山﨑賢人と松岡茉優の演技力と存在感にあります。山﨑は人格破綻者のようなむさ苦しい汚れ役を最後まで熱演。松岡も今回は女優への夢に挫折した女性役なので、『勝手にふるえてろ』や『蜜蜂と遠雷』で見せたオーラや華やかさはみじんも感じさせずに地味で平凡な女性像を見事に演じ切りました。

暗く重苦しいエピソードばかりが綴られるこの作品の中で、たったひとつだけ本当の明るさを感じさるシーンが最終盤にあります。そう、この作品の白眉ともいうべき「二人芝居」です。  

永田と別れて青森に帰った沙希が、荷物を取りに上京して来ます。永田と別れたことで沙希は、本来の明るさを取り戻していました。永田は、部屋の整理中に出て来た昔の台本を沙希に見せます。それは、永田が脚本を書き、沙希が主演して評判になった芝居の台本でした。台本には沙希が書いた沢山の書き込みがあり、懐かしい思い出に浸った二人は戯れに台本の読み合わせをします。

かけあいの中で、興に乗った二人は次第に台本にはない台詞を入れ始めます。「本当は永君、何にも悪くないんだよ。だから、どんどん自分が嫌いになってく。勝手に年を取って、焦って変わったのは私の方だから。」という台本にはない沙希の本音の告白が涙を誘います。

それを聞いて半泣きになった永田は、演劇への思いと未来の二人のバラ色のような夢物語をまるで贖罪でもするかのように延々と語り続けます。

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このくだりの演出は非常に演劇的ですが、自転車に二人乗りして満開の桜の下を走った時のような軽薄な嘘っぽさはなく、この映画のクライマックスとも言うべき実に感動的なシーンに仕上がっていました。

別れて演技する必要がなくなった永田と沙希は「二人芝居」と言う形で初めて本音で語り合うことが出来たのです。私にはそれがお互いへの「遅すぎたラブソング」のように聞こえ、永田が明るく振舞えば振舞うほど余計哀切さが募るのです。

とんぼちゃん「遅すぎたラブソング」

観ている側としては、二人がもっと早くこうなっていたらという思いもありますが、それは出来ない相談でしかありません。

二人の関係は、永田は生活力はないが秘めた才能のある男を、沙希はそんな永田にとって「都合の良い女」をお互いが演じることで成立していたからです。それは、そもそも出会いの初めからボタンが掛け違っていたということです。

そのような偽りの虚像の演技を続けることに疲弊して二人の関係は終焉を迎えるのですが、演技することをやめてフラットになったからこそ、沙希と永田はお互いの真の姿と向き合うことができたのです。哀しいことに、別れることでしか二人の本当の心の交流は成立しなかった訳です。

(メタ認知論的な見方をすればこの感動的な場面さえも実は「演技」で、二人が語っているのは本音ではないという捉え方もできるのですが、それでは、あんまりですよねえ。}

初めてこの場面を観たとき、沙希が壊れて変わり果ててしまっても動じず、何の変化もなかった永田の人格が、ここに来て急に変わったような違和感を覚えたのですが、さもありなんでした。

何と途中で突然部屋の壁が四方に倒れ、そのまま劇場での舞台に切り替わったのです。次のシーンでは今まで演技をしていたはずの沙希が、今度は満員の客席から(自分の)芝居を見ています。沙希の目からは涙が溢れ、「ごめんね。」とつぶやきます。永田を最後まで支えてやれなかった後悔の言葉だったのでしょうか。

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全く予想していなかっただけに、このメタフィクション的展開には正直驚きました。今村昌平のセミ・ドキュメンタリー映画『人間蒸発』で使われていたのと同じ手法ですね。今村の場合は事実とフィクションとの境界がいかに曖昧なものであるかを可視化するための仕掛けでしたが、こちらは近松の「虚実皮膜論」を援用したもののように見えす。

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劇が終わり、一人だけ残った沙希が去り際に誰もいない舞台をもう一度見つめます。そして照明が消され、「劇場」のタイトル文字が浮かび上がってフェイド・アウト。

視聴者は最初から映画ではなく、文字通り劇場の舞台を観せられていたような感覚になって終わるのです。映画の基本は演劇から来ていることを改めて思い起こさせる見事な幕切れでした。

舞台の二人は、その後、どうなったのでしょうか。           「現実世界」ではボタンの掛け違い故に結ばれなかった二人でしたが、だからこそ、劇中の永田と沙希には幸せになってほしいと願わずにはいられません。

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