「長編小説」 《 激 走 通 勤 戦 線 》
あらすじ
桜見信也は、全世界『匿名』公益ギャンブルで名も知られないプロの戦線ドライバーとして活躍していた。
しかし、連勝に明け暮れる戦いの中、毎日がいたたまれない。
何が自分を突き進めているのか?疑問を払拭できないまま、地上での職場同僚の風白菖蒲から声をかけられ、自分の紋々とした謎の切り口を知らされる。その謎と言う運命に従った桜見は誰を信じるものでもなく、最後の戦いに臨む。それが全世界を救い、世界を変える戦いである事に気づかないまま⋯⋯。
激 走 通 勤 戦 線
序 曲
こまどりのリア・ボーンは、新型ダリヤ社のそれとは世代デザインが違っていてパワー・ブレッドに十分耐え得るものではなかった。被弾した桜見は「くっ!」と小さくつぶやくと、なお後方から追いすがるブレッドの射出音を聞きながら、リヤ右ダンパーに数発小穴の開いたこまどりのセカンダリー・スロットルを目いっぱい踏み込み、タービンを全開にする。
ライト・ウエイトで瞬発性の高い駒鳥社のビークルは、急加速の為、地面からノーズを高く引き上げると、後方から射出されたダム・ポイント弾を乾いた路面で鋭く兆弾させ、スピード・ステージ右端に設置されたセーフティ・ゾーン看板を跡形もなく粉砕させた。
トリガーを絞ったまま、こまどりのほんの数メートル後方を撃破体制で追従するフィーメール・ドライバーはCPアテンドの減点採用アラームを聞き「ちょこまかにっ!」と金切り声を上げトリガー・バーを開放する。
瞬時にバック・ランドを確認した桜見は、正面コーナー限界角度の計算値をカペラ・ゴーグルで読み取り、アーム・ステアリングの位置決めをする。
(この距離と角度なら狭い方から来るに違いない)
全く逆方向の計算予測値を、容易に思いつくのが桜見の圧倒的な戦略センスだった。桜見は後方機砲の照準を、右ガード・レール端のわずかな隙間に合わせた。追尾して来ている新型アットムⅢをそのまま待ち伏せ、こまどりのレーザー・サイトに誘い込む。
二戦連勝続き、お決まり通りの自勝戦を、自分で完璧な判断とスピードで計算したフィーメール・ドライバーは、かなり優位な位置で、こまどりを追走していたつもりだった。
「いまどき駒鳥社のジャンプ・ビークルだなんて」
裏をかいたつもりで最新型二二〇三のレーザー・サイトを使い、こまどりを機砲照準に入れ込んだドライバーは軽薄そうな唇を舌先で少し濡らすと、桜見が待ち構えている狭いガード・レール脇へレーン・チェンジし、レーザー・サイト『確定』ボタンを押す。
「そんなポンコツは流行らないっ!」
きわめて冷静にふるまったつもりで、開放していた指先を再び緊張させ、目の前のおんぼろビークル、こまどりブローと引き換えに入ってくるであろう、ここ数年間の歴戦勇者を粉砕するスーパー・ボーナスを頭の中ですばやく計算したまま、ドライバーはアットムⅢを自分の意志とは違う方向へ回転させてしまう。メット・グラス奥で(えっ?)と言う表情のまま、新型ビークル、アットムⅢは左フロント・エアー・ダクトから右サイド・バッフルまで、こまどり後方機砲から射出された重機貫通ダム弾に青煙を噴き、ハイ・スピード・ステージ脇のショック・アブソバ下へ、さらに数回、まばゆい光沢で光輝く優雅な最新モデル・ボディーをスピンさせ、コース軌道下へその姿を消す。
保護用フル・バックの機械衝撃をまともに受け、思考イメージが薄れる中、撃破されたドライバーがヘルメットの奥、リアル・フォンで確認するボディ前部の破裂音より、さらにけたたましく誇張されたライブ音響が街中随所に設置されているライン・ビュー、イメージ5から絞り出されると、早朝にも関わらずほぼ街中の人々が歓声を上げる。
「またやったぜっ!なんて凄いおんぼろビークルなんだっ!」
機械の様に、冷酷なまでの計算で、アットムⅢをヒットした桜見は、気分を落ち着かせ、およそ時速二百キロ巡行のままステージを二キロ疾走した後減速し、戦線終了のサインとなる、ひとつひとつゆっくりと落ちてゆくステージ・コース・ランプ薄明かりの中、今日も退屈になりそうな内勤スケジュールを思い起こした。さらに、数キロ先に設置されてある離脱用コアでのアプローチ準備にかかる。
ランニング・レーンで戦跡を読み取らせた桜見は、平行して走る通勤路線に一番近い一般ハイウェイに接続しているシャドウ・ランプ速度にまで減速し、トラフィック・スピードを読み取らせ、朝の職場へ急ぐビークル車列へ、こまどりを滑り込ませるための手順を踏んだ。アットム撃破からここまでわずか三分。
シャドウ・ランプはドロップ・ビークルを一般車に気づかれないゴーストで、適度な車間をつくり、密かに交通路線へ合流させるシステムだ。戦線用戦闘ドロップ・ビークルも、車群へ一旦紛れ込むと格納機砲により、周りがそれと気づく事は難しい。
さらに一般公道では、ビークル自体にもセフティ・トリガーがかかり、ドロップ・ビークルとしての機能はすべてオフ・リミットされる。
万が一、犯罪にでも使われた後、ステージへ逃げ込み、戦闘ビークルとしての機能を得ようとしても、スケジュールにない侵入ビークルは機能のすべてをオフ・リミットされてしまう。
高性多機能のスーパー・ビークルは、一般公道や戦闘スケジュール無しでは、無力化されてしまわなければならない。これら重装備の戦闘ビークルは、ごく普通のファミリー・ビークルとされてしまう。
仮に犯罪者が一般公道で、オフ・リミットをチートによって無効化しても、その違法プログラムにより、随所に設置されている監視レーザーに、容赦無く一瞬にして焼かれてしまうだろう。この戦線の安全性、そして機密性から、かつて一般公道でこのような事故が発生した事は一度も無い。
もっとも崇高な戦線ドライバー達が、犯罪に加担する事など無意味だと心得ているのも、このような事態にならない理由のひとつでもある。
賞金王で、資金潤沢な桜見が、ほんの少しの出資により、最新型がいつでも手に入る状況の中で、この旧型ビークルに拘り続けるにも理由があった。
まず旧型は特にレギュレーション・スパンが広く設定されていて、磐石につくられた最新モデル・ビークルの、定格以上の個性で勝負できる点にある。桜見の場合、性能差をレギュレーション幅で凌げるどころか、旧型ビークルは、最新ビークルにはない個性作りがいとも簡単に可能である事を発見した一人でもある。ドライバーと車を一体化させる個体制作に特に秀でているのがこの世代、旧型ビークルの大きな特色であり、桜見はそれを自分のものにしていた。
つまり他のドライバーが、ハードやソフト進化に頼るところを、桜見は自分の戦闘センスに沿ったビークル造りをしているという事になる。
旧型のレギュレーション・スパンも、十年も隔たる機能ハンディを埋める対処で、限界まで高める事が許されていて、最新型ビークルの、ほぼノーマルに近い製品とでは、個性において、その多様性の幅の違いは明らかだ。
たとえそれが、優れたメーカーによる長い期間をかけ、試作レクチャーを積み重ねた最新型スーパー・ビークルであったとしても、ひとりひとりのドライブ・センスにまで対応する事はできてはいない。誰が何を使って参戦しても全くの自由なこの戦線の場で、必要なのは自分の手足の様に稼働するドライバー個性通りのビークルを作り上げる事である。桜見はそのレギュレーション・スパンの広大な三世代前ビークル規格が一番優秀で可能性が高い事に気づいていた。
そして、たとえ今回のように右リヤの被弾痕で変形したダンパー・カバーを誰かに見られたとしても、十年以上型遅れのビークルとして、馬鹿にされるのが桜見にとっては心地よい安心。この何世代もの型落ちこそが戦線のスーパー・スターによって全世界に配当収益を与えているビークルとは誰も気づかない、完全に近い隠蔽スタイルでもあった。
それらビークルは、年式、型番、チューン・スペック等、一通り公表されるようになっているが、ドライバー情報は戦績以外すべて何一つ公表されてはいない。
一体、誰が、賭ける者に富みをもたらすスターでありヒーローなのか?
世の中はその固有名詞や容姿すら何ひとつ知らず知らされず、その情報すら公開されず、この公益ギャンブルは無印で無名のまま正当化されている。
親元のディラーにもドライバー達の情報を扱える存在や権限は無く、それは国家機密法により、より高い安全保障範囲で執拗な警備体制が続けられているという事になる。つまりドライバー個人のデーター・ベースそのものが、どこにも存在しないと言う設定。
もし、このデーター無しの国家機密法が破られ、なんらかの形で漏洩や現行制度の改定でもあれば、戦線に関するすべての事業が覆り、廃止されてしまい、意味がなくなってしまう。なぜなら、すべてが謎であるからこそ、人々はこの戦線に熱中する。
もっとも、戦う勇者に人格や性質は必要無い。必要なのは勝つ事だけ。国家予算以上の枠で経済効果が期待される一大国営事業を行う現ディラーMとしても、もちろん国家としても、細かな詮索や、ドライバー個人の確定表明でわずかな利益を生み出すより、世界的公益ギャンブルを盛り上げる為の隠ぺい施策を保った方が、はるかに世界や、未来に、利益や可能性があると確信している。
だからディラーも、誰も、ドライバーの素性や消息を詮索する者はいない。それらデーターを欲する者もいない。
この掟こそが、バトル・ラインの神秘性を生み、全世界トップ・レベルでの高い人気と、飽くなきギャンブル性が保ち続けられている巧みな戦線の仕組みとなっている。
早朝、戦線を終えた桜見は、離脱による体内アドレナリンの拡散と共に、無気力な皆と同じような振る舞いで、未来の展望と約束の無い職場へ急ぐサラリーマン達へ自分を同化させようとしていた。
ひと頃、この多重人格性のある行動も、ドライバーとしての魅力の一つだと思ってはいたが、三年近くも経つと、極めて面倒な精神構造の切り替えでしかない。
それでも、自尊心、自敬心とも言える複雑な勝利の喜びを、密かに自分の中で称える桜見は、社に着く迄に、同僚達と仕事前の憂さ晴らしに気持ちを合わせるよう工夫する。社では、運良く勝車エントリーを得た者達が、何番にいくら賭けていたのか適当な数字を皆で公表しあう。
勿論、桜見本人が多くの場合の勝利益を皆に提供している今世紀最大の戦線スターだとは、誰も知る由もない。
誰が、あの古参ビークルで命を賭けて闘っているのか?しかもこの33番は、すでに今回二十一連勝。全世界に提供した配当は、すでに総額では小国の国家予算を遥かに超えてしまっている。
誰もが33番をエントリーする。しかし瞬時にしてエントリーはアップしてしまう。桜見は勝利後、毎回、社内で出会う同僚達に、大抵は悔しそうな表情を装いながら自分をとり繕う。
「今回も33番はダメだった」
「お前、仕事ものろまだからな」
33番の勝者チケット・ボードを運良く得たラッキーな者達は、決まっていつもエントリーさえできない桜見の、のろまぶりをいぶかり、薄くて小さな幸せに浸り、目の前の男がその幸福を与えている張本人だと気づかぬまま、彼から足早に遠ざかって行く。
落とすかもしれない命を賭ける戦いに思惑など入る余地は無い。何等かの計略で負けると言う事は、何もかもを失うと言う事だ。もちろん桜見には、そんな手加減や面倒な裏取引も無い。誰もがそうしているように、覚悟を決め、この戦線に参戦する。
そして、参戦以来、稀で高度なドライブ・センスとビークル作りで、桜見は今までに無い二十一連勝を獲得した。当然無敗でなければ戦い続けることはできない。
しかし、この桜見にも、いつこの戦線からの離脱時期が来るのか?予想する事はできない。予想すれば、気弱な自分を言い当てるように負けてしまうスター達がいた記事を、勿論、すべて匿名だが、戦線情報マガジンで何度も読んでいる。ステージでの迷いは不思議なことに被弾となってしまうらしい。
勝利を重ねる度、自分を見失いそうになる感覚は増大し、大抵のスター達は、失敗の許されない連勝の軋轢に押しつぶされてしまう。桜見自身もいつかはこの過大なる神経の消費による精神の老いに翻弄され、その時がやってくるはず。
それらを自分に言い聞かせながら戦い続けるこの戦線には、勿論引退システムも何も存在しない。ヒットされれば、そこが戦線の終了点、他界点で終着点となる。この世界で再び存在することは許されない。
だから何かの理由や面倒な裏取引で自分を終わらせる事もできない。戦線ドライバー達はひたすら自分のメンタル寿命と身体寿命が続く限り戦い、勝ち続けるしかない。人生を表現した戦線は、そのままドライバー達の生涯でもあった。
桜見は、この勝利で、オッズがほぼ最高率になる事を知っていた。おそらく今回の経過実績が反映された次回オッズは、十倍以上跳ね上がるだろう。そして、桜見がいつかはこの戦線から手を引く時、必ずやって来るその時、もし無事でいられるなら、もしかしたら本当の人生の大儀を知る事が出来るかもしれない。それはいつなのか?桜見は、握り慣れたアーム・ステアリングのアタック・モードを解除する度に、戦線による緊張が薄められ、消えていく喪失感の中、いつもその事を思い巡らせていた。
程なくシャドウ・ランプが、ゴースト完了のサインを出すと、目の前のチーク・パルにボーナス・ポイントから換算された九千三百万のウイン・ギャラ表示がグリーンで輝いた。この戦線による経済施策で、安定した経済情勢が続く今日、この九千万のギャラは、平均的サラリーマン十年分の年収に匹敵する。七分間の稼ぎとしては超破格であるブルー・ローズ・クラスの報奨額だ。
桜見は今回も『勝者33番へのチケット・エントリーができなかった演技』を練習しながら、フル・スロットルの余熱を外部から見えない極太の排気デフューザーで大気へ拡散させ、ゴーストを経て一般公道であるフリー・ウエイへこまどりを紛れこませる。
同時間帯通勤で、混雑した通常ハイウェイをノロノロと一五分程移動した後、市内入口への指示ランプを点滅させ、十年前の古参ビークルは、接着剤で固められた様に、ほとんど動かない都心部へ向う大渋滞へはまり込む。
桜見は、早朝から疲労色の強い、くすんだ真顔を保ち、右端からあつかましく無理矢理割り込んできた最新型乗用ビークルを無表情に眺めていた。
不 敗
「どうして33番は負けないんだ?」
初老をとっくに過ぎた男は百三十階の展望ラウンジから戦線ステージ・テラスを眺め、そうつぶやいた。
「今朝あの4番はなぜ負けた?」
老人は少し怒った口調になった。
誰か応えた方が良いと、お互いに目配せしたガードマン数名が、義務は無いにしろ、老人を宥める答えを探すため、憂鬱そうな表情になった。いきなり直通エレベーターが開くと同時に、老人の聞きたくない言葉がラウンジ内に響く。
「凄いですねぇ。連戦連勝ですよ。こんなドライバー見た事も聞いた事もない。もっとも本当に誰なのかも知りませんし、わかりませんけどね」
ラウンジにいた他の男達は狼狽え、居心地がさらに悪くなった持ち場からの逃げ道を探す。
老人がゆっくり振り向くと、チケット・ボード片手の若い男が、表情とは裏腹に老人を無視し、対面シートに腰を落とす。老人は特に感情を表す事もなく、普通に独り言の様に質問した。
「どうしてあいつは負けない」
目の前に座り込んだ男の顔も見ずに繰り返されている老人の質問に、その若い男はボードを見せて言った。
「私が買っているからです」
場を取り繕う質問の答えを探していたガードマン数名は、男の言葉に対する老人の恐るべき反応を予想し、顔をしかめ身をかがめた。
「どうしてあいつを買う」
老人は男が示したチケット・ボードを無視し、眉を少しこわばらせたが、周りの警戒とは裏腹に、男に対する怒りを持たないまま、独り言のように言った。若い男は足を組みなおし背後の男に何か飲み物を、と言うしぐさをしながら答えた。
「勝てるからですよ」
男の、単純で人を食ったような対応にも、老人は声を荒げず「だろうな」と小さくつぶやく。
「伏見マネージャーもあいつを買えば?」
おそらくそう言うだろうと老人が予測した答えも明瞭だった。
「私が33番を買う?」
「そうです。儲かりますよ。今回のは六倍オッズで七十万」
間髪入れない男の口出しに、伏見と呼ばれたディラー・マネージャーは、再び眉をひそめた。
「儲ける、儲けないの話しじゃない、今朝の4番は刺客だ」
(そんな事ができるのか⋯⋯)
男は内心そうつぶやくと、叔父である伏見マネージャーの背後でたたずむ細身のウエイターからグラスを受け取った。
(なるほど、見せ場を作る為でもあるわけだ)
男は表情を変えずに伏見に質問した。
「刺客。ですか?確かそう聞こえましたけど」
男は、みえみえの演技だと思いながら悪びれる様子もなく、伏見と言われる男の顔を見据える。伏見も同じく、素人演技で男を見ながら、少し小声で言う。お互いに、会話が演技であったとしても親族同士、とりたてて重大な問題や違和感を感じる仲でもない。
「お前は身内だから今回は腹割って話す。『刺客』とも言ってしまったし、この意味はわかるな?」
(ディラーが、追い込まれていると言う事なのか⋯⋯)
男は内心を見透かされない様、ふざけて言った。
「どの意味ですか。叔父さん」
(今日こそはこの話がしたかったし、戦線情報が欲しい)
男は、心の中でそうつぶやくと、長身の身体を、派手なブルー・ソファー前の叔父伏見マネージャーへのめりこませる。
(淡泊にふるまってはいるが、日頃冷静な叔父の、この慌てぶり。何かが変わってきている)
少し間を置きゆっくりと席を立ったディラーMマネージャー伏見が、別室へ向かおうとしているその小さな背中を目で追いながら、伏見の妹の長男、沢村圭吾は、戦線に関する最大限の情報収集の為、叔父の話を聞き漏らさないよう、精神を集中させ、叔父の背中を追う為、立ち上がった。
構 造
戦線のディラー。いわゆる元締めは発足当初、全世界入札制との申告告知がなされたが、始まってからここ十数年、日本のディラーMから、交代したためしがない。
世界四〇億とも言える戦線人口から吸い上げるマージンを、ディラーMは惜しげもなく世界中に配布し、政治を動かし、国を動かし、法律を動かし、世論を動かし、マスコミを操作して王座に座り続け、尚、世界へ向けての発展をもくろんでいるのが、このマネージャー以下、わずか数名の幹部達によって運営されている、ディラーMである。
彼らは周到に事を起こさせ、周到に物事を見据え、数々の危機や攻撃から脱して来た。戦線のすべての実権を操作し、利益を世界中から吸い上げ、世界戦略に伴う営業力をデザインする。そして自らの世界経済征服を、戦線ドライバー達を肥やしとし、収穫し続けてきたのだ。
言わばディラーMは、ドライバー達の働きによって自分達の世界を造り、世界を勝手に乗っ取った。
そんな中、ディラーMにとって、ハードやソフト、それに企画等は、彼らにしてみれば、すべて富で従わせられ、どうにでもかたを付けられるもの。
だが、実際に走るドライバー達はそうではない。彼らはディラーの為ではなく自分の為に走り、自分の為に相手を撃破し、自分の為に生き残る。そこにディラーが思惑をはさめる余地など無い。
世の中もそんなに甘くはなく、ここ十年で経済基幹産業にまでなった戦線に供給される新機能、原動タービン、モーター、ハード、兵器、すべての資材、そしてドライバー達には次世代への反射素質が、わずか数年で養われ償却され、いかに優秀なドライバーであったとしても、長くとも一年、五勝もすれば新たな力により敗退を余儀なくされる。一般的な世代交代だが、戦線の場合、そのタイミングが異様に早い。
ドライバー個人も命を落とす危険性と、戦線参加に伴う機密性による精神崩壊も避けられず、戦線離脱者は自ら負けをヒットされる事によって実現する以外、この道から抜け出る事ができない。彼ら、彼女らは、一般では考えられない人間の中での超エリート、緻密な機械のような解析力とエスパーのような能力にたけた超人に近い存在でなければ勤まらない事になる。
つまり、結局彼らはディラーが懸念したように操作される必要はなかった。彼らは過酷な運命の中で命を落とすか、廃人になるか、あくまでディラーの、より良い道具でしかなかったのである。
ところが、何もせずに高き座に居座り、世界を席巻し続けるディラーであるMが、安泰を貪っている中、この33番が三年に迫り、なんと二十一連勝を達成してしまったのだ。
過去十勝を越えようとするドライバーには普通ではない挑戦者達、つまり刺客がディラーによって与えられていた。明らかな陰謀である挑戦にもスター・ドライバー達は喜んでハンドルを握る。それが戦線を降りれるチャンスだと感じられるからだ。
長年使われてきた、痛みやほころびだらけの精神は真新しい絹に勝てるわけがない。たとえ一時の勝利を得たとしても長くは続かない。陰謀戦士達との戦いは精神の消耗を加速させ、勝利の持続、連勝達成はディラーMの施策によって事実上は不可能であった。如何に優秀でも長くて一年余り、そして七勝が過去の最高記録。もちろんそれが彼だったのか彼女だったのか、今生きているのか?いないのかさえ誰も知る事もできないし、戦線マガジンや戦線インスタ等での紹介も何も無い。戦線のスターと言えども、やはり彼らもディラーによるゴーストなのである。そのゴーストが提供する富を皆が貪る。
ゴーストはゴーストとしての役割を果たせばディラーは安泰であった。ゴーストがゴーストである事を止める時、ディラーMはその意志力によって彼ら、彼女らを自らの施策で、本物のゴーストにしてしまう。ゴーストは現実にとって変わる事は許されない。ゴーストは、いわば親元であるディラーを脅かしてはならないのだ。
ところが、この33番は違っていた。このひとりのゴーストが今、ディラーの根底を覆そうとしている。すでにディラーMは刺客を今回で六回送りつけていた。
(なぜあいつは負けないのだ?なぜ壊れない?しかもあんなビークルで⋯⋯)
ここ半年の間、繰り返されるディラーMマネージャー伏見の声は、ディラーMの叫びでもあった。
伏見は、夕日に沈む戦線テラスを再び眺めながら、妹似で、丹精な風貌の沢村圭吾に話を続けた。沢村は初めて伏見から内情を詳しく知らされた事になる。
ゴーストがゴーストでなくなりつつあるこの数十ヶ月余り、今更、誰に何を言ってもどうにもならない事だとわかっていながら、このままではもはやディラーMには行き場が無い事に、伏見は気づいていた。ディラーMはこの33番に対して、なんらかの策を、早急に講じなければならなかった。
トリガー
「桜見さんここいいですか」
桜見の足元には風白菖蒲の履く、社内移動用ブルー・スニーカーが、挨拶をする様につま先を、ちょこんと揃えていた。
昼食ともなるとごったがえす社食ダイニング・キッチンの中でも、戦線の話題しかないのか?と言う程、その話で持ちきりになる。
特にここ二年あまりの話題は、今世紀最大の戦線スター33番。桜見は、同僚達に誘われるまま、適当にその話題に入り込むが、コメントの用心に疲れ、社内では会話をする相手を極少数に絞っている。
いっそ退社でもすれば誰とも会話せず、不注意で不本意な発言を気にする必要も無いかもしれない。しかし、それこそが現役ドライバーである証拠となる可能性が高いのでは?突然退社し、どうやって生活費を稼いでいるのか?彼は一人で何をしているのか?目立たなくする事がかえって目立つ事を桜見は心得ていた。普通に生活し、普通に雑誌を手に取り、戦線を話題とする。それがこの世界の慣わしなのだ。今までのドライバー達の中で、機密漏洩による処分を受けた者は一人もいない。もちろんスターでなくても、ドライバーであった事すら一般的に自ら公開した者や、公開された者もいない。
ある戦線アナリストが、ドライバー個人の存在を確認できないことを理由に、すべてAIによる概数と基数のランダム決戦であり、人間は戦線には存在しない。と、すっぱ抜いた。しかし世界がホロ・デッキ検証を行った結果、返ってどの戦いぶりも、とても機械では再現出来るものではない、ということが証明され、特にスター・ランクともなれば、その戦いのセンスは、人間臭い個性や駆け引きがなければ成り立たないと言う結論。戦線はライン・ビューでしか観戦できないとは言え、機械の操作か?人が操っているのか?検証の結果、それは人にしか出来ない戦いであることがそのアナリストの暴露によって、逆に証明されてしまう。疑いを簡単に払拭された戦線はそこから人気が急速にピークを迎え、今にまで至るようになった。
確かにあのビークルには、生身の人間である桜見が乗っている。しかしその名前は誰からも気づかれてはならない。だから、極普通に毎日定時出勤する。およそ五十日一戦のスパンでの戦線消化後、つまり午前四時の勝利の後、その勝利を誰にも知られずに出社し勤務するのだ。
もし戦線で、ドライバー達に何かあったとしてもディラーがすべてのつじつまを合わせる手筈になっている。ドライバー達は戦線を終わらせ、一般の交通と同じフリー・ウエイを渋滞の中で走らせれば、他のビークルと紛れてしまい、車体の傷も本人の痛手も、何も目立たせず、誰も、それが戦線ドライバーだと気づく事はできない。
仮に、負けて命でも失えば、その後はディラーが後始末をしてくれるに違いないし、過去そうだったとマガジン記事は暗に説明する。戦線ドライバーの葬儀がこの世で行われた事実は一度も無い。
桜見の敗戦は、本人が望む本当のゴースト化の実現だが、まだそのタイミングがわからない。このまま続けるとどうなるのか?自分はどこに向かっているのか?時折ふと考え込む。すでにこの桜見のメンタルも、もはや正常ではなくなってきているのかもしれない。
桜見がこの一瞬で思いついた思考は、目の前にいる風白の存在を知らず知らずに完全に無視していた。
「桜見さん」
ふと呼びかけに気づき、ナイフとフォークを置いた桜見は、風白菖蒲が何故ここにいるのか?その理由すら想像出来ず、とりあえず気を取り直し、挨拶代わりの返事をした。
「風白さん今日はどうしたの?他は?満席?」
桜見の言葉は、彼女にとって多少意地悪な口調でもあったが、彼女はそれに気づかないのか、ごく普通に振舞っている。
「そう、ここしかないの」
そう言いながら、風白はデニムのパンツ・ルックとスニーカー姿のまま、桜見と同じテーブルに、ブロック・サンドが載ったボードを置き、プラスチック製の椅子に小さなお尻を載せた。
「元気なの?」
桜見にはそれがどういう意味の問いかけなのか、風白の言葉に再び思考を巡らせ、返事を遅らせる。
「まぁ元気。君は?」
と聞いて、桜見はこの娘の、病気がちな噂を想い出し、自分の軽薄さを後悔した。
元々、彼女とはそんなに話す仲でもなかったので思い出すのが遅れただけ。部所も違えば共通の職務も無いし、基本的には、お互いに関わらずに社内職場生活を送れるそれぞれでしかない。
しかし、意識の中に存在は有り、どことなく愛嬌のある表情ですれ違いざまに笑顔で目配せされると、こちらとしても悪い気はしない。だが関係を強化する事や、発展させることに、桜見は全くと言って良いほど興味を持つ事がなかった。
今回も、当然、同僚として同じキッチンで偶然会ったにしか過ぎないはず。桜見の警戒心はさほどフェンスを立ててはいないが、しかし、こんな時が一番危険なのかもしれない。心の奥底で、自分にそう言い聞かせ、風白の表情を慎重に伺う。
桜見は、戦線での経験が、日常のあらゆる可能性を警戒心として引き出している事に気づいた。
「実は、お話しと質問があって」
風白から目線を離し、テーブルの上の紙ナプキンを二枚ほど手に取ると、桜見は鸚鵡返しのように、彼女に質問の意味を尋ねた。
「お話?質問?君が僕に?」
桜見は、名前程度の面識しかない風白の口から出た言葉に少し驚き、彼女との間にあるわずかな記憶をたどりながら質問内容を模索した。
「良いかしら」
「うん。まあどうぞ」
大きな瞳を落ち着いて動かし、アイ・シャドゥのパープルを桜見の瞳に焼き付けるばかりの強い目線で、その愛嬌とは裏腹に彼女は不思議な内容を、当然の様に語り始めた。
その風白菖蒲の話はこうだった。
このギャンブル依存性の高い戦線に寄り添う経済の発展に不健全さを見かねたある団体が発足しつつあること。そしてその団体の取る目的と行動は、戦線への世界的な抑制と、覇者として、エスカレートして行くディラーMの解明。とても健全とは思えない戦線単独による経済発展が、たったひとつの組織によって動かされている事実を危険に感じるこの団体は、戦線が国家レベルでのギャンブルであるのなら、社会性を持ち、その仕組みは公開され、世界からの指導や牽制がなされるべきとの強い主張を基に立っている。桜見には、言わばそのアンチ戦線メンバーとして、なんらかの形で、活動や奉仕をする事が可能か?と言うのが、ざっと、風白が足速に説明してくれた内容だったようだ。
短い時間で彼女が口にした思いのほか詳しく、驚くべき戦線の概要と、病弱なはずの彼女が抱いている強い信念を知らされた桜見は、深く突き刺さった内心の驚きを押し殺した。間抜けな表情で平静を装い、時代の流れと、戦線一辺倒でしかない自分の心の狭さを思い知らされる。桜見は風白に『よくわからない』と答えていた。
自己人格から戦線ドライバーを追い出した桜見は、33番、車券エントリーさえ出来ない、残念な小市民としての自分を表現し(この話をなぜ僕に⋯⋯)と言う問いかけが、風白を目の前にして考えられる精いっぱいの自問。しかも、彼女が語った内容は、この桜見にでもわかるようにあまりにも危険過ぎた。桜見はとっさに彼女の名前を呼んだ。
「風白さん」
「なぁに?」
「いや、どうしてこんな話を僕に?それにこの内容って」
「あぶない?」
「そう。君だってわかってると思うけど、すごく危ないんじゃない」
「どうして?」
風白の小顔が、的を得たように大きく輝いたような気がした。
「どうしてって、これって、世界に対する挑戦なんじゃない?」
「どうして?」
「えっ?」
「どうしてこの話が世界に対する挑戦なの?」
「あっいやっ⋯⋯まぁ」
真顔で、大きく少し青みがかった瞳を向けられると、もともと無粋な桜見にとって困惑な試みとなり、心が揺さぶられる。
しかし、桜見としては当然の見解を彼女に伝えたかった。
「⋯⋯風白さんよく考えてみて。第一に相手が世界だという事。そして、僕達はたかが一般の会社員にしか過ぎない。そのギャップはここから銀河系を飛び出すくらいの距離があると思う。仮に僕たちが興味を持って何かをやろうとしても、とても相手にはならないし、僕たちは、戦線や、世の中や、世界にとって、無に等しい存在にしか過ぎない。世界は僕たちを相手にしないと思うし、僕たちも世界を相手にする事は出来ないと思うよ」
風白が語った内容に対する、桜見の、ほんの小さな抵抗だったが、彼女からの答えは何も無かった。
「じゃまたいつか夜にでも会いましょう」
風白は元気そうにそう言った。
(えっ)
桜見は意表を突かれ、立ち上がろうとしている彼女の名前を再び呼んだ。
「風白さん」
何かを理解し、心を開放したかのように晴れ晴れした表情で、風白菖蒲はそのまま席を立った。ほんの少し、しわになったデニムの端を軽くはたきながら、こぶりな腕時計で午後の始業時間を確かめる。小さな背中で動かしたプラスチックの椅子を、カタリと傍のテーブルにぶつけると、その背中を見つめる桜見の視線を中半無視し、風白はオフィスに向かい姿を消そうとしていた。
桜見は、風白が今話した内容を聞き、彼女に向かって言った言葉とは裏腹に、改めて、語られた神妙な内容を思い起こしていた。癖で濃厚なマグ・タイト・カップの柄に指をかけるが、もはやその好みの香りさえ認識していない。困惑した思考のまま、体内でうごめくアドレナリン分泌を抑え、記憶から話しが飛ばないよう、彼女からの言葉ひとつひとつを思い起こし、自分に言い聞かせる。風白とはわずか七~八分足らずの時間だったと思うが、これは戦線の時間とよく似ている。彼女と僕は闘っていたのか?戦線に対する世界感が、桜見の思いとは別な方向へ動き出したように感じた。たった今、話を聞いた時から何度も繰り返している答えの無い自問。
(アンチ戦線の内容を、なぜこの僕に?もしや彼女は僕が33番だと気づいている?これは何かの警告なのか?彼女は一体何者なのか?彼女は何をやろうとしている⋯⋯)次から次へ湧いてくる疑問符付きの言葉に、桜見は、平和なはずのキッチンで、久々精神回復のあても無く当惑した。つまりショックを受けたのだ。
(まいったな。普通話題にも出来ない戦線の深味を、彼女はいとも簡単に、この僕に暴露した。しかも日頃話もしない彼女が、この僕にだ。なぜ突然こんな事に?⋯⋯もうそろそろ僕の戦線も終わり⋯⋯そんなバカな⋯⋯さっきの彼女は一体何なのだ)
すっかりぬるくなったマグ・タイトを習慣的に流し込んでいる桜見の耳には、午後からの始業ベルは入って来てはいなかった。
援 護
「あいつだ。あいつなんだ」
他社の新人記者が執筆した『経済危機繁殖四面楚歌』と言う聞き慣れないロゴ・タイトルに何かの意味を掴もうとしていたセンタル・クルーズ社の唐沢は(何事だ?)と言う表情のまま、二十階のオフィス・レンジ・エントランス廊下に、身体ごと顔を傾けた。比較的エントランスから近場にある唐沢のオフィス・ボックスは他の箇所と同様、防音にはなっているが、そっけなく静まり返る無感情さと無機質さに異質を感じ、いつもオフィス・オート・ドアを開放し、所員が出入りする雑踏を取り入れている。
唐沢は混雑の中で物事を理解し解釈し考案するのが好きだ。この混雑の中にこそ、真のジャーナリズムとしての価値を見出すアイディアがあると信じている。
唐沢はひとつ先のオフィス越しに見えるレンジ・エントランスで、保全スタッフ二人に囲まれながら恐れも気も無く立つ年輩の男性を見た。
「あいつだ、私は名前も知っている。それにあいつらがやろうとしている事もすべて知っている」
保全スタッフに両脇を抱えられたその男は、しきりに何かを訴え、自分の主張を貫こうとしているが、この時代、稚拙で粗暴的な態度は、社会に受け入れられるものではない。ひと昔前ではジャーナリズムと称する内容を暴力的に示す社会派市民の強要が、各雑誌社、ニュース・ラボに殺到していたものだが、近年、比較的安和な社会になって、こういった刺激的状況に出くわす機会もほとんど無くなっている。
唐沢は最前線での特記記者としての活動をしていたひと昔前を思い出し、その男の有様を一先ずは傍観していた。
「岩倉も、伏見も、まだあいつの事を知らない。私だけが知っている。その名前も教えよう」
一体何を言っているのか?と言う保全スタッフ達に抱えられながら、玄関エントランス方向へ、やがて視界から消え去ろうとする男に、唐沢は記者としての興味を持った。
それは男が発した『岩倉』『伏見』と言う名前に、唐沢の記憶が反応したからだ。
唐沢は雑踏を取り入れる為、無理やり開かせているオフィスのオート・テラスから、毛深いロビーの絨毯に足を踏み出す。この事態に全く気づいていない閉め切られている個人オフィス・ボックスを二つ通り越し、足早に、岩倉、伏見の名前を口にした男を、連れ去ろうとしている保全スタッフを追いかけ、さりげなく後ろから声をかける。
「あー君たち」
三人に追いついた唐沢は、歩く速度を変えようとしない保全スタッフ達に、再び軽く声をかけた。
「少し良いかな」
正面エントランスに向かって、体よく追い払われようとしている年輩の男は、声に気づき唐沢の方へ振り向いた。
「私は、すべてを知っている」
保全スタッフも、唐沢に振り返り、ひとまず足は止めたが、男を抱える両腕の力は抜いていない。男は唐沢を見ながら、その両脇を振りほどこうと少しもがいた。唐沢は安全の為、力を抜こうとしない保全スタッフ達を見た。「君たち、その御方はどうしたんだい」
スタッフの仕事ぶりを尊重した唐沢は、彼らには説明出来ない内容だろうとは思ったが、先ずは二人に問いかけた。スタッフは、男を脇に抱えたまま、唐沢に顔見知りの会釈をしながら言った。唐沢も、挨拶程度ではあるが、保全スタッフ二人の顔は知っている。
「今しがた、突然正面アテンダーから、何か慌てているお客様がいらっしゃるとの通告がありましたので駆けつけてみるとこの有様でして、アポ無し、アポ申請無し、許可無し、となっておりますし、来社要件も明確でなく、しかも多少強引でもありましたので、申し訳ありませんがお引き取り頂いているところです」
二人のうちの先輩風の男がそう答えた。
(うん。確かに正確な判断と対応だ)
唐沢は、内容はわかった、というそぶりを示すと同時に、保全スタッフではなく、今度は年輩の男の方へ視線を向けて言った。
「そのようだね。ところであなた⋯⋯」
唐沢はその男に向かって丁寧に尋ねた。
「お名前は?」
男は、このセンタル・クルーズ社からの対応に怒り続けるわけでもなく、比較的落ち着いた様子で、表情も崩さず、唐沢に質問した。
「そういう君は?」
「私はこのクルーズ社、社会部の⋯⋯」
男は唐沢の自己紹介を遮り自らを名乗った。
「私は三友と言う者です」
さっきまでの多少強引な態度とは裏腹に、きわめて冷静で、紳士的に対応してきたこの男に、唐沢は少し意表を突かれたが、すぐに気持ちを切り替えた。もちろん顔見知りでもなんでもない男から三友と名乗られても、唐沢の記憶に該当するはずもない。唐沢は確認の為、呼称し、自分も冷静だという事を表し、信頼の意志を示す。
「みつともさんですか?私はここの社会部の記者でからさわと言います」
男は唐沢を確認し、自分の名前を繰り返した。
「唐沢さんですね。私は三友です」
男はますます冷静になっていたが、唐沢の手法で、少しお道化て質問をする。ディラーM幹部の名前を口走っていた意味についても唐沢は、聞き違いではない事を確認しておきたかったからだ。
「どちらの三友さんでしたか?」
唐沢は、期待しながら男の回答を待った。
「なるほど、私の肩書が必要なのですね」
三友と名乗る男は、唐沢の思惑を先廻りするかのように(やっと自分が何者かを名乗れる)と言った表情で、およそ唐沢が期待していたかのような内容を口にした。
「私はディラーM、の人間でした」
唐沢に促され、保全スタッフ達は、お互いに目配せしながら三友と名乗った男の両脇から手を放す。
自由になった三友は、スーツの袖口のほつれを少し気にしながら、ズボンのしわや外見を配慮する。唐沢は目の前の男が持つ情報確認の為、この男が口にした背景を再認し、男の思惑を思案する。
(先ほど叫んでいた岩倉はディラーMのトップ、伏見はその次、この二人に絡む何等かの情報を伝える為、ここに来たのがこの三友と名乗る男。しかも本人は自称元ディラーM。もしこれが本当なら、全世界で聞き覚えのあるこの二人の名前が出てくる話が面白く無いわけがない)
「三友さんわかりました。お話しの前にとりあえずアポ取りましょう。ライン・フォンはお持ちですか」
男はきわめて冷静なまま、思惑通り話のわかるやつが出てきた。と言った表情で、内ポケットからライン・フォンを取り出すと、認証後唐沢に手渡した。唐沢が慣れた手つきで操作し、数メートル先のアテンド・ポットまで行く。ポットに着座しているアテンダーを脇へ寄せ、三友のライン・フォンを耳にあてる事もせず、アテンド・パネルを操作し、自分の来客ボードで、手渡されたライン・フォンが『三友』本人の物である事を確認する。
(嘘。⋯⋯ではないか)
「ではあちらへ行きましょうか」
唐沢は、三友と名乗る男を促し、たった今、来客用に取ったMR7のボックスに向かって歩きだした。保全スタッフは、当然もう三友の両脇にはいない。
唐沢は「先ほどは大丈夫でしたか」と丁寧に尋ねた。
三友は「大丈夫だ」と答えた後、深く赤い絨毯に足音を吸い込まれながら、静かに唐沢に追従した。
(さて一体何が聞けるのか?もし、つまらない話だったら、さっさと追い出してしまおう。そもそも本当にディラーMの人間だったのか?まずそこからの確認になるだろう)
唐沢はこの男の素性が本当なら、何かを期待せずにいられない。今回の原稿締め切りを思い出し、唐沢はMR7ボックス・ドアを指紋光彩認証で開いた。
焦 燥
「半期でもう五勝。負け知らずの凄まじい勢いだな。もっとも負けていればその時点でこいつも消滅していただろうし、我々も頭を抱える必要もなかった」
ディラーM、ホスト・テラス最上階にあるトップ・ロール個室、CEOボックスで、ここ十年ほどの経営トップを引率している岩倉の言葉に、伏見は同意せざるを得なかった。
「伏見君、刺客達は今までこの33番にはまるで歯が立たなかったと言う事かね?どれくらい歯が立たなかった。僅差なのか?それとも圧倒的?」
どれもこれも、既に岩倉に報告済み事実を、再度繰り返されただけの質問に、伏見は何も応えられなかった。
「そうか、やはり圧倒的か……。33番はいったい誰なんだ?」
そう言いながら伏見を見据えた岩倉の眼光は尋常ではない。
「まさか茶番でやっているこの戦線ギャンブルに、どういうわけかすこぶるセンスの良い本物が入ってきてしまった。なんて言い訳ではないだろうな?こいつはあまりにも強い、強すぎる。伏見君、私たちがやっているのは君が知っている通り政治なんだよ。戦線は政治。ギャンブル等ではない。もちろん彼らは選挙で選出された議員でもないし、議員の資格が何か、すら知らない、ただの荒くれた命知らずのドライバーにしか過ぎないはず。彼らはドライバーと言う職務を果たしながら、実は我々の為、全世界の国益バランスを保つ駒。我々は、彼らの事をゴーストと呼んでいるがね。彼らが命がけでやっている事が、実は、我々の手中にある事実等、誰も知り得る者はいない。誰かが何かを知っていたとしても、これは決してギャンブルではないという事。これは、我々とAIエバが意図的に行っている世界の創造なんだよ。だから、誰が誰に負けるなんてのは基本的にはすべて織り込み済み。これが近年全世界の経済バランスを保っている唯一の公営ギャンブルとして確立されたもので、全世界単位になってからは、もはやこの戦線が健全に運営されなければ、国益をはじめとして経済指標も、生産計画も、消費動向も、すべてでたらめになってしまう。つまりそれぞれの国が致命的打撃を受ける。その世界経済統治をAIを使って、このディラーMがやってるって事くらい、君は十分承知のはず。戦線はただそれだけの事にしか過ぎない。なのに、三年近く、この33番が勝ち続け、この先、もう少しこいつの勝利が長引けば、指標は崩壊し、経済的政治配分が崩れ、世界は混乱し、我々の仕事も無くなってしまう。もちろん誰からも報酬なんてもらえない。個人の報酬なんてたかが知れているが、世界経済が崩壊してしまう。資産なんて紙屑になって、世界は経済崩壊で終焉を迎える。つまり、この世界に意味がなくなってしまい、我々の造った世の終わりだよ終わり。その事は君にもわかっているはずだ。君はこのドライバーが通常より二年以上勝ち続けると言うこの事態を今まで見過ごしにし、現状何もできない事実の相談と解決を求めに来たのかね。私にどうしろと言うんだね伏見君。この戦線は、我々や我々のAiのものであっても、私たちのものではない。何度も言うが戦線が崩壊する事は、世界が崩壊する事なんだよ。もちろんそうなれば我々や、AIの方が先に崩壊してしまっている。世界を崩壊させるべく、この悪魔の様な33番は、個人の利益の為だけに不用意に戦っている。そもそも彼だか彼女だか知らないが、そいつは何ひとつ知らずにこの世界を終わらせようとしているんだよ。しかも本人はその事にすら気づいていない。こいつはいったい誰なんだ?そして何をやっている?それになぜ勝ち続ける事が出来ている?これは世の終わりの為のシナリオなのか?我々の世界がこいつの存在によって終わろうとしている。こいつは世界を終わらせる為の悪魔なのか?一体どうなっている?」
岩倉は、伏見を目の前にして一気に不満と不安を吐き出していた。
たかが国内で始まったこの戦線が、世界経済の基盤になる等、一体誰が想像し得ただろうか。現にこの十数年間、世界は戦線の収益配分で安定し、しかもその本質を知る者は世界に誰もいない。
もはや私利私欲の為の紛争も戦争も何も起こらない、こんな夢のような世界平和話しが、単なるギャンブルだけによって実現しているのに、世界は誰も気づかないし気づけない。
本当は世界は知っているのではないのか?ディラーMはそれらしい細密調査を続けているが、戦線に関しては、みな公的賭博との認識しか該当する検索項目を持たず、愚かにも目の前でのアクションとギャンブルに、人生と言う時間のほとんどが平和的に費やされようとしている。誰ひとりとして、この戦線を疑う者はいないのだ。
株価は上がり続け、物価は安定し、社会は成長し、生活は益々豊になって行く。もちろんこの戦線ギャンブルで損失を出す者もいるだろう。だが、世界経済は極めて好調に、いや、この戦線の仕掛けで、絶好調に安定している。
だが、なぜ、世界はこの戦線のおかしさに気づかない?なぜこのギャンブルが、アジアに、ヨーロッパに、全世界に公的に広まり収まっているのか?
しかもステージは、この小国である日本にしか存在しない。もちろんライブは、イメージ5と言う立体モジュラー画像で全世界に、週ごとに配信されるし、エントリーが的中すれば、収益は次の瞬間ネットを通して即座に支払らわれる。
エントリーは、企業でも、政府でも、もちろん個人でも、全世界での自由額購入が可能。一戦線で動かされるキャッシュは、全世界で平均数千億。
経済指標である資本の有利さは、戦線の勝敗タイミングで自然に微調整され、誰も疑う事が出来ない。資本による独り勝ちを、ディラーMは過激な戦線のグラマラスな映像と共に、うまく背景に溶け込ませ整理し、その自然の流れに疑う余地を持たせてはいないし、誰も持ってはいない。
当然、一見健全そうな運営を促すディラーMの、潤沢な資金も膨らむ一方。戦線ドライバー達の気密性が完全な上に、何の関連性も持っていないドライバーとディラーM。
勝ち負けのエントリーにあたって、個人や団体、法人や国家は、裏事情を詮索する術すら持ってはいない。表示されるのは個人ドライバーにある勝利オッズ数のみで、どこの誰が、何番をどれだけエントリーするのか。何の情報も無い。
そんな状態のまま幾千億もの資金がエントリーされ、消費され、平和的に分配されていくのだ。そしてそれが全世界の経済指標とリンクしていく。
ある時、貧困経済国への勝利実績が増加し、経済大国の負けが込んでいるのはおかしいとの公的調査要請もあったが、ディラーMとドライバー、そしてエントリー情報との接点が何一つ見いだせず、単なる憶測にとどまった。
実際、オッズ情報でしか運営されていない戦線のすべては、誰も何も知らない集団での賭け事であり、取引上の裏事情等起こり得るはずもなく、一時期詮索された、戦線がAIによるダミー賭博だとの指摘を、世界は相手にしなかった。
それ程この戦線に対する情報は皆無に等しく、関連マガジンは抽象的ですべて匿名。それでも常にベスト・セラー。自然で違和感のないスタイル。そしていつでも誰でも、この戦線に、実際にエントリーできる。
勝利すれば間違いなくオッズに従い入金され、しかしそれ以外の詳細は、誰も何も知らないし、知らされてもいない。
ひところモーター・スポーツの最高峰と言われた派手なF1自動車レース界と全く逆の事が戦線で行われている。この戦線には観客も必要なければ、フェスタも、表彰も、演出も、パーティも、広告も、華やかな雰囲気さえも、すべて不要なのだ。F1の世界には無かった賭金の動向あるのみ。
その豊かな国益や個人利益を与えてくれている戦線ドライバーが誰なのか誰も知らない。だから、公のモータースポーツの様に、ドライバー個人の名誉なんてあるはずがない。これはスポーツではないのだ。
完全なる機密性により、誰も何も知らないのに戦線運営は見事に成り立っている。いや実は、だからこそ成り立っている。
不必要な情報が無いだけにこのギャンブルは極めて潔癖で、シンプルで、純粋である。思惑や調整が入る余地がない。
少なくともドライバーとエントリー者達には何らかの情報公開等一切の関連は持てない。ドライバーは自分の生涯を賭け、エントリー者は自分の明日を賭ける。この純粋な賭博と思える仕組みに、全世界は熱狂し世界は自国を賭ける。
戦線がここまでうまく機能しているのは、もちろんディラーMの手腕にもよるのだが、世界は、誰も、何も知らないまま、まさに先を見越す神の領域による采配で、Mによって戦線自体が束ねられ、成熟させられている。
そして世界は、もはやこの戦線無くしては成り立つべき経済安定機構を持たない。近年、すべての財政が、戦線による自由意志での配分にとって代わってしまった。
なぜ誰もが疑問にも思わずそうなっているのか?それすら誰にもわからない。
その戦線の調整基盤は、岩倉と伏見。そしてハイパーAIの集団複合体である、ホストのエバ。
このエバ・システムは勝手に世界を学習し、フェーズ・アップする。過去データーの蓄積と、そこから見いだせる未来予測。そしてそれを促す岩倉と伏見達の世界。それだけでこのディラーMは安泰だった。彼らの経済による世界戦略は、問題なくこの2つの頭と、ひとつの機械で機能していた事になる。
だがしかし、ここに来てすべてを覆す33番が突出してきたのだ。エバにさえ予測できないこの33番は、勝ちを譲らせる施策を、すべて無効化し、いや、なぜか勝負を譲らない華麗な出来栄えで、自分の勝利を、勝手に自由にデザインする。なぜこの33番にそんな事が可能なのか?ハイパーAI・エバにさえ計算する事が出来てはいない。ましてや人間である岩倉や伏見に、その答えを出す事が出来るわけがない。むしろ岩倉と伏見はエバに頼る存在。
連勝を譲らないこの33番に『このまま、もし勝ちを譲らなければば世界が終わる』との情報交換も、勿論できない。誰にそう言えば33番に伝わるのか?戦線でのプログラムによる刺客も、アプ・デートによる刺客も、誰にも、何者でも歯が立たない33番。
先々、この33番の反射神経が衰えるか、メンテをやり損なうか、負けるには、まだしばらく時間がかかりそうだ。その前に、このまま33番が勝ち続ければ、全世界経済は破綻し、ディラーMの存在はなくなる。世界は保たれなくなってしまう。
今回AIエバはそのタイミングを、残りわずか数ヶ月と計算してしまった。岩倉が焦るのは、この33番の為終焉に向かうディラーMと、世の破綻タイミングが、エバによって再計算されてしまった事であった。機械にさえも、もう先が見えてしまっている現実の恐ろしさ。
岩倉達には時間が無い。もちろん伏見にも同じ事。このままでは全世界の経済破綻は免れない。その前に、彼だか彼女だか誰だかわからない33番になんとか勝ちを譲ってもらうしかない。
しかし、その33番が一体何者で何をしようとしているのか?戦線が保たれる機密システムが、逆にこの戦線を破壊しようとしている。エバはこれを『不自然の中での自然淘汰』と定義した。機械であるAIが読む終焉の定理だそうだ。岩倉と伏見はこの宿命によるAIエバの解答を正しいと判断した。
しかし、たとえそれが正しかろうがそうでなかろうが、とにかく今までのディラーMでのすべての事実が暴露される事だけは避けなければならない。もしこれら戦線の気密が世に明らかにされた場合、それは、すでに戦線ではなくなってしまうからだ。
そしてディラーMは消滅し、世界経済開発が振り出しに戻り、世界が変わってしまう。これは何を意味するのか?岩倉や伏見はそのおぞましい結論について考える事を止めた。それより、一刻も早く、この33番を負けさせる事。
皮肉な事に、勝ち続ける33番の存在が、この戦線を、より自然なものとして世界が称え、人気が最高潮に迄達した。まさにシナリオのない計画になってしまった戦線に、33番敗退の計画指示を出し続けるしかない。エバにも、33番の負けを演出する計算ができないまま、すで二年近くが過ぎてしまっていた。このままでは岩倉達の世界は完全に負け、終焉を迎えてしまう。
この33番、どこかに、何かの仕掛けがあるに違いない。彼らはその仕組みやバグを、少なくとも近日中に見つけ出さなければならない。それは、彼らがどうしてもやらければならない事、自分達が終わってしまう前に、この33番を、彼らが終わらせなければならなかった。
活 動
「菖蒲、もちろん今夜は泊まっていくんだろ?もう遅いし⋯⋯」
百三十階の展望ラウンジで、叔父、伏見の話を聞き、夕刻には菖蒲を自宅に迎えた沢村圭吾は、十二階建て集合住宅十階からの夜景を観ながら、恥ずかし気も無く、男物のシャツ一枚しかつけていない風白菖蒲に、自分の気持ちを伝えた。
菖蒲はその言葉を聞くとも聞かないともいった表情で、圭吾から借りたシャツをゆっくりと脱ぎだした。圭吾は返事をしない菖蒲を心配しながら言った。
「泊まらないのか?」
菖蒲の動向はいつも意外で、それに驚かされる事もあるが、圭吾は曖昧な態度を取る場合の彼女の答えをよく知っていた。
(帰るのか⋯⋯)
とつぶやいたまま、先ほどまで労わる様にして、ゆっくりと肌を重ねていた菖蒲を思い出した圭吾は、残念そうに表情を曇らせた。
グラスを掴み、そのままキッチンから菖蒲のいるベッド・ルームに入って来た圭吾は、ミネラル・ウォーターを、菖蒲に手渡そうとした。
「これ返す」
菖蒲は裸体のまま、グラスを受け取り、圭吾の目の前で、彼のシャツを差し出す。
「薬が必要なんだろ?身体は大丈夫?外は寒い」
「ありがとう」
病的に透けるような白過ぎる肌の菖蒲は、か細い指で、圭吾からのグラスを、いくつもの小さな錠剤を含んだ口元にゆっくりと近づけた。
「カーテン閉めるよ」
開けっ放しのカーテンから見える景観は、叔父のいるディラーM展望ラウンジとは比較にならない粗末なものだったが、そんな事を気にする事なく、ここに来ると何かを想い出す様に、この窓から遠くを見ている菖蒲が、反対に外部から見られないように、レール・カーテンを作動させる。
考え事を止め、急かされるようにシャワーの湯気を立てだした菖蒲は、暫く身体を温めた後、丁寧に肌の水分をふき取り、少し痛む間接を労わりながらゆっくりと下着を着けだす。菖蒲は、自分が病気である事を忘れさせてくれる圭吾から外されたストッキングの伝線を気にし、それを丸めだした。
キッチンから、自分のグラス・カップを手にしていた圭吾の残念そうな声が聞こえた。
「もう遅いけど⋯⋯やっぱり帰るの」
「うん」
「何か用事でも」
「うん」
菖蒲には隠し事をしている時に、子供のような口調になる癖があった。
「私たち出逢ってから今日迄のデート何回目?」
「えっ」
圭吾はカップをシンクに置きながら、いったい何の質問だ?と当惑したまま菖蒲の顔も見ずに「5回くらい」と答えていた。
「ふーん」と言いながら、菖蒲は、秋口にいつも着る身体をすっぽりと覆い隠せるお気に入りの蒼いセーターを首から被った。室内はヒーティングが効いているが、外気温はそれなりに低い。菖蒲がキッチンにいる圭吾に顔を覗かせた。
「圭吾。こんな私の事好き?」
圭吾は、カップを洗い拭きあげながら、唐突で率直な質問に少したじろぎ、菖蒲の顔を見た。
「菖蒲どうしたんだい?今日は⋯⋯」
「私おかしい?もしかして今日おかしい?」
圭吾はいや、そんなつもりは⋯⋯と思いながら視線をずらし、弁明の言葉を考えた。
「いや、おかしいとかじゃなくて、なんでそんな事を改めて聞くのかが不思議で」
もう菖蒲は、キッチン手前にあるバス・ルーム・ミラーで、圭吾を後目にスーパー・ドライヤーで乾かした髪をとかし、化粧を整えている。タイトのデニムから先ほど電線しかかったストッキングの小さな足が覗いていた。
「しばらくは会えなくなるかも」
菖蒲は、まだキッチンにいる圭吾を見ずにそう言った。彼女の今晩の雰囲気から、そんな言葉が出て来てもおかしくないと圭吾は考えてはいたが、いきなり突きつけられると当惑してしまう。圭吾は彼女を気遣いながら、本心を優しく聞き出す努力をした。
「もしかして、君に無理させてる?」
「体調は大丈夫。でもやることができた」
圭吾は(やる事?それは何?)
と聞きたかったが、菖蒲の意志は意外と堅い。その性質がどこから来ているのか?彼女には芯の強い噛み切れない部分がある事を、圭吾は付き合い初めて、ここ数ヶ月で理解していた。その芯の強さが魅力でもあるのだが⋯⋯。
それが、今回は自分との距離の広がりを感じさせ、圭吾は暗闇で光を見失ったかの様に、不安と消失感に駆られていた。
「わかった。体調でもないし、僕のせいでも無いのなら心配しない。そして応援するよ。でも僕が必要な時は直ぐに連絡して欲しい。君の為に何かできると思う」
精一杯の去勢を張った圭吾は、菖蒲の『やることができた』と言う言葉が示す強い意味合いと意思に少し傷つきながら、彼女を励ます。今夜の菖蒲の態度は、自分を十分気遣っている態度だと圭吾は理解していたからだ。
堅い意思とは裏腹に、ふと力の抜けた指先から、化粧ポーチをフロアに落とした菖蒲は、細い腰をかがめてそれを拾いあげ「うん、ありがとう」と言った。
キッチン・ルームに入り、今から外へ出る外気の冷たさを気にした菖蒲は、暖かい気遣いをしてくれている圭吾に素早く顔を近づけ、頬にそっと口づけした。両手に力の入りそうな圭吾はそれを抑え、菖蒲のなすがままにさせる。圭吾は、玄関ドアへ離れていく彼女を見送る。デニムにピン・ヒールの粋な女性が、自宅玄関から冷たい外へ出て行ってしまう。圭吾は駆け出して、病弱な菖蒲を引き留めたい強い衝動を抑え、先ほど言った自分の言葉に従った。
ヒールを軽く響かせた菖蒲は、玄関先で振り向くと
「さよならではないの、片付いたらまたここに来ます」
と言ってちょこんとおじきをした。圭吾は菖蒲の為、その言葉を信用するしかない。
菖蒲が手放した冷たい玄関ドアが、二人を切り離すようにゆっくりと閉じ、少し大きめの自動ロック作動音が、圭吾の喪失感を更に大きく増大させた。
混 迷
「それで、三友さんとしては何がお望みなのですか?
御説明いただいたこれらをジャーナリズムに乗っ取って掲載する事ですか?それとも、単なる情報提供とかですか?」
とても尋常ではない情報に、全力で冷静さを保ちながら、この、元ディラーMの三友と名乗る男がMR7で示した端的でも深淵なる内容を、四十分程聞いた唐沢は、この男の目的が何なのか?を探る事により、この話が事実かどうか?見極める必要性を強く感じていた。
三友と名乗る男は、真顔で答えた。
「ディラーMのすべてを葬り、世界を正常に戻したい」
(そう、この男の言っている事が、本当に信用できるのか⋯⋯そんな事が今時あり得るのか?ディラーの中でも、世界の中でも、すべて気密扱いになっているこれら事柄が、本当かどうか?どうやって確認する事が出来る⋯⋯この男の目的をもっと突っ込めば、真実かどうか判断がつくのでは?でもどうやって)
俄かに信じがたい情報に、唐沢は自分でも一息入れる為、三友と名乗る男に、古典的なエレキ・シガを薦める。男は差し出されたそれを受け取らない。唐沢はアドレナリンに満たされている自分の唇に気づかれない様、ゆっくりと喋った。
「仮に、三友さんの言う一連の内容が事実だとしても⋯⋯」
「君に伝えた事は嘘ではない」
唐沢は、弱気なマスコミ発言を語る事によって自分を落ち着かせ、三友と言う男の内心を更に探る。
「⋯⋯まあそうでしょうが、こちらのジャーナリズムとしては、にわかに信じ難いこれらすべてが事実だという前提で、それらに対する確認と立証で理論武装し、補強しておかないと、こちらが訴えられる可能性がある事と、敵に回すにはあまりにも全世界的規模のスケールとなるのでリスクはなるべく⋯⋯。それに、仮に個人名を特定するにしても、いまだかつてない戦線ドライバー名をすっぱ抜くなんて世界的に見ても社にとって」
「命取りかね?」
「当然でしょう」
仮に、三友に個人名を知らされたとしても戦線ドライバー名流出、なんて記事、誰も、どの社も、書けるはずがない。社が世界に潰される。
唐沢が聞いた内容は、単なる戦線の面白い話ではなかった。
「君ら記者は昔から変わらずにいつもそうなんだな」
「と、おっしゃいますと」
男はため息をつきながら一旦断ったそのシガをくれという仕草をした。
三友と名乗る男の呆れ顔は、唐沢を憐れむようにしてうつむき、唐沢からのシガで、内容を吐き出した清涼感に包み込まれた至福を、ゆっくりとくゆらせる。
社をつぶす程の内容は、作為的で、独創的で、そして脅迫的でもあったが、その内容をそのまま公表すれば、今の世界が変えられる可能性がある。いや、この当たり前の世界が変わってしまうだろう。それほどの内容を聞いてしまった唐沢は、表情には出してはいないが、体内でのアドレナリン放出と、抜き差しならぬ状況をひしひしと感じざるを得なかった。
この男、三友は戦線発足当時のメンバーで、役員昇格を果たし、戦線の異常さに気づき内部告発を続けるが、逆に三年前に退職に追い込まれていた。この男の戦いは世界の戦線相手に約二年間続いたという。
もちろん退職後数年、ジャーナル機関、経済団体、不当解雇を理由に、民事、刑事での提訴、ありとあらゆる手法で戦線についての不法を男は伝えようとするが、どれもこれも、相手にされる事はなかった。それこそ全くと言ってよい程、この戦線についての内容記述は相手にされなかったのだ。
その理由がわかったのがつい最近。どこもかしこも、この戦線からの不和情報は、当たり前の様に、意味や理由もなく消化される社会の仕組みが、すでに、裏で蠢く『戦線維持法』によって出来上がってしまっていたからだ。
それに気づくのに、三友は一年を費やす。
この戦線の仕組みは単純過ぎて何者かからの手が入る余地は無いのだが、それこそがすべてこの仕組みに組み込まれている。というのがこの男の主張。
しかし、これらの自然的戦線保護介入も、なんらかの形で調整されているとすれば、それはディラーMにしかできないはず。それを三友は突き止めたと言う。
さらに、世界での戦線不審団体によるドライバーの特定、割り出し。戦線ドライバーの素性が公表されれば、もはやそのドライバーの戦線は無くなってしまう。それが世界に、どんな影響を与えるのか?その予測すらできない。唐沢にはそれが誰なのか?についてはまだ聞かされてはいない。その内容を聞いても、果たして三友の言う事を信じる事が出来るのか?唐沢には自信がなかったが、これを本気で記事にして世界と戦うのなら、とっかかりこの男の記事一部を、小出しで掲載するしかない。
しかし、上が掲載を許すのか?許可するはずがないだろう。ならどうすれば?三友が語る戦線の真の裏事情。抽象的ではなく、匿名的でもなく、それらをあからさまに公にし、記事を書く?そして知りたくもない戦線ドライバーの素性。そんな事が可能なのか?
三友の目的は、戦線からの世界離脱、そして世を救う為だというが、果たしてこの男の目論見通り、それが世界に、どの様な結果をもたらす事になるのか?まだ具体的内容の確証を得てはいないが、実話として雲をも掴むこの話に乗る?この俺が⋯⋯。
何もかも、唐沢だけで判断するにはあまりにも英断が必要とされる、重厚で重圧な内容だった。唐沢は、この男をあのまま追い出していれば良かったと心の中で叫んでいた。一体、この男の何を記事にして、何を伝えれば良いのか?唐沢は三友から内容を聴く度、ますます混乱に陥る。この男はどうしたいのか。
「で、私は何を世界に向けて書けば良いのですか?」
男は唐沢の質問にシガをスポイルすると半場あきれ顔で言った。
「唐沢さん。まず普通、私がジャーナル誌に乗り込むと、どこもかしこも追い出しにかかる。原因は、第一に私の態度だろう。次にテーマが重い。そして、誰も、私の話しを理解もせず、いや理解すらできない。だから記事は書けないし書きたいとも思わない。つまり、私に対して何のビジョンも、何のメリットも見いだせずに、私を正面玄関から丁重に送り返す。これが今までの私に対するほぼ全員の態度。でもあなたは少し違っていて、まず私を受け入れようとした。そして私の話しを理解しようとしている。ここまでは、ほめてやれる。しかしそんな君だから言いたい」
「何をですか?」
「君は⋯⋯世界を変える意志を持たない。なぜだかわかるかね?」
唐沢には、三友の言葉を理解したいと言う意思はあっても力が無かった。
「なぜ君が迷い、いや、当惑までしているのか?」
唐沢は確かに迷っている。でもそれは、この情報が帯びている真実性に気づいているからだ。三友は続けて言った。
「君がなぜ迷っているのか教えてあげよう。ひとつ目は、君には真実を知れる素性が備わっている事。これが一番大きな利点だが、それが無いと、他の記者と同じで私の話は君たちにすべてスルーされてしまう」
唐沢は神妙な趣で三友の言葉に集中しようとしていた。
「ふたつ目は不利な点だが、今、この世界の中にまだ君自身がいると言う事だ。君がまだ世界の一部だから、この世界とは違う見解をする事を君自身が拒んでいる。つまり君は、私のすべてをそのまま信用できず、その考えをまとめられない、考えをまとめようとしていない。いや、考えをまとめる事すら思いつけない。君は戦線の真の姿に対し盲目なんだよ。
単純に考えてみてもこの戦線、この世界は何か変だと思わないのか?戦線が知らず知らずに世界経済の要になっていて、それに誰も気づかない。いや気づけない。そして、この中心にあるディラーMの支配が続き、さらにMは次の段階に進もうとしている。わずか十数年そこそこで世界はMのものになろうとしている。君たちが加担して煽りをかけているあの公的ギャンブルを行い続ける事によって⋯⋯。君はあの戦線で恩恵を受けたのか?いくら利益を上げた?金持ちになったのかね?」
極端に身近な話題になり、唐沢は単なる賭博の話題を当社で取り上げる必要はないと直ぐに感じた。その唐沢の思いを見越す様に三友が話を続けた。
「単なるギャンブル、賭博、金儲けの記事など書いても意味はない。今までどれだけこの戦線に関するあらゆる面からの記事が書かれ続けていると思う?どれもこれも意味が無い。それらも、実は、この世界の中の一部。だから君が、戦線関連でいくら利益を上げようが、利益を上げる手立てを考えようが、たとえ利益が出なくても家族で戦線を楽しむ記事を掲載しようが、そんなものは既に戦線の中に組み込まれているこの世界からだけの記事なんだよ。そんな記事には戦線に何の影響も与えられない。
それらもすべて戦線、そしてディラーMからの、計算ずくの記事にしかなっていない。君たちはこの戦線世界の中にしか存在していない。君にはそんなものを書いて欲しくないし、そんな記事には、まるで意味は無い。君には、この戦線の外から姿を正確に暴露して欲しいんだ。
大昔の日本の古典だが牡丹灯篭って落語を知っているかね?男が必要とし愛し抱きしめているのは、うら若き美女だが、本当の姿は、この世のものではない醜い化け物。君を含む全世界が抱きしめている愛らしく好ましく刺激ある戦線は、実は抱きしめるその者達を支配している化け物。私は世界があの化け物と一緒に心中するのを見たくない。君が理解しなくても良い、ただ、君が私を信じてくれれば、君が感じるまま、その記事はシンプルにありのまま書けるはず。私を信じれば、それが君の正しい記事になる」
三友と言う男は一時間以上、唐沢に説明した後、危なげな足取りでセンタル・クルーズを後にした。MR7の予約時間のスケジュール・エンド・アラームが鳴っていたが、唐沢の当惑は、頭の中で警鐘を鳴らし続け、混乱は頂点に達していた。
(確かに考えてみれば戦線にはおかしな点も見られるが、この男が語った内容はあまりにも唐突過ぎ、性急過ぎている。戦線が無かったとしても経済は発展しただろうし、現状が変わる事はないだろう。こんなギャンブル・レースごときで世界経済や世界が保たれているわけがない。万が一、戦線ドライバーが暴露されたとしても、それが本当にそのドライバーであるかどうかも調べようがない。なぜなら誰もドライバーを知らないからだ。
しかし、確かに、ここ数年の経済発展と安定成長ぶり、株価の動向、世界動向には何か計算づくの人工的なものも感じられる。でもそれは世界が成長し、政治外交が発展し、国友が進展しているからではないのか?この男の言っている事は逆だろう。各国経済が安定しているから公営ギャンブルが発達し長続きする。しかも匿名で。この匿名公営ギャンブルが世界経済を支え、世界を支配しているなんて、そんなバカな話があるわけがない。世界があってはじめて公営である戦線ギャンブルが可能なはず。話は逆さまだ。三友はディラーMからはじき出された、言わば異分子。恨みがあるのは当然。なら、なんらかの復讐の為、近年平和なジャーナリズムの中でのショッキング記事で、民衆の気を引き、勿論記事の書き方にさえ注意すれば、我社の購買部数は伸びるかもしないし、これはこれでセンタル社の株も上がるだろう。
しかし、彼にはそんな利害や欲は見られなかった。現に、今回も何らかの見返りを求めたわけでもなく、そのまま言い放ち帰ってしまった。だからと言って、彼の語った内容が本当だという証明にはならない。もしかして、この平和な世界を騒がせるのが目的なのかもしれない。だが、世界経済の安定余裕そのものが戦線を運営しているはずだ。このたかが公営ギャンブルにしか過ぎない戦線が世界を発展させ、世界を終わらせる?戦線は神なのか?こんな記事を書いて、誰が真に受ける?もっともこんな記事、書いたとしても複数の公正取引編集段階で紙屑になるのがオチだ。しかし⋯⋯なぜ僕はここまで真剣に彼の話を受け止めようとしているのだろうか⋯⋯僕は何考えている?)
唐沢は、三友の(君らがこの世界の一部だから何も見えていない)と言った言葉を片隅で繰り返しながら、MR7ドア前で、順番待ちの為、たむろしている同僚達に対応すべくメモリー・ログをオフにした。
唐沢はドアを開きながら、三友がいなくなった今でさえ、混乱の頂点に達している自分を抑止するのに、意識を費やしそうになり、命を欲する亡霊の様な感覚のまま、MR7を後にした。
始まり・ファースト
『駒鳥社、戦線情報漏えい、及び戦線規定パーツの法外な組み合わせ、並びに不当チケット、ダミー・エントリー販売
(なんてことだ⋯⋯)
桜見はセンタル・クルーズ社のすっぱ抜き記事をラボで確認しながら呟いた。ニュースは続いていた。
『戦線への参入禁止か?パーツ等すべての戦線アイテム廃棄』
(何が起こっている?)
自分に、特に関わる逼迫したニュースが平然と流れている事実に、何かわからないモノを必死に探している気分のまま、他の誰かに心中を気づかれないようラボ・ニュースの続きを軽い横目で確認しながら、桜見は呟かずにはいられなかった。
(もちろん世間なんてどうなるかわからない。ある程度の準備をしてはいるが、こんな状況は初めてだ。それにしてもこれは事実なのか⋯⋯駒鳥社のパーツが今後手に入らない⋯⋯)
桜見にとって、こんなにも極端にビークル・ハード面で脅かされる事はいまだかつて無かった。駒鳥社のパーツがダメだとすれば、桜見のビークルを再設定できるのは、タイル社の代替パーツでしかない。
戦線パーツはいくつもの部品ディラーを介し、戦線ビークル・メーカーからの供給となるのだが、今後ありあわせの部品で戦える程、この戦線は甘くはない。桜見が持っている前回ストックは、タイル社のが幾分混じっており、試しで使った良好な分もあるが、次回分まで補えるたくわえはない。それにタイル社は納期が極めて遅く、ゴーストでの発注となると、果たして本当に時間内でのパーツ確保が可能なのか。もちろん駒鳥社のパーツを、誰がどれくらい使い続けているのか?その需要も桜見は知るよしもないが、少なくとも駒鳥社はビークルのハード・パーツだけではなく、戦線のあらゆる補助パーツも新スタイルで供給している老舗メーカー。ここだけでもシェアは二十%以上に達しているはず。主要メーカーの供給不足が、他社供給メーカーの受給を逼迫させることも明白。仮にタイル社に依頼をしたとしても、供給ルートがタイル社から部品ディラー、また別のディラーと何ヵ所も経由し私書箱に置かれる。従ってパーツのすべては納期が読めず、結局未完成ビークルでの戦いを強いられるドライバー達も現行では少なくはないだろう。
桜見の場合、補助追加装備を次回納期に間に合わせられる可能性があったのがこの駒鳥一社くらいで、基本ここのパーツしか使わない。いや使えないと言う方が正しいのかも知れない。その駒鳥社がトラブったようなのだ。
(こんな事になるなんて。この配信記事は正しいのか。何かの間違いではないのか?)
このタイミングでのタイムリーなニュース配信記事に、桜見は驚愕する。(いずれにしても次はわずか二週間後。二戦闘ったこのビークルも限界が近い。今後駒鳥からの供給が不可だとすればどう作り込める。タイル社?それとも現状ストックのありあわせで勝負できるのか?)
桜見は信じられないニュースから来る苛立ちを、お得意の二面性で隠しながら、冷静に次回戦線参加スケジュールを再構築していた。
職場を後にする同僚達が、混沌としてきた戦線戦略を思い巡らせ、ニュースを確認する桜見の事など気にも留めず、ひとりひとり挨拶無しに通り過ぎて行った。
「桜見さん。残業?」
ふと真後ろからの高い声に、桜見は思考を止められ声の主へ振り向く。
「風白さん」
風白は桜見の態度を見ずに、勝手に声をかけているようだ。
「残業なの?」
「あっいやもう終わるよ」
「残業してるの?」
風白は覗き込み、桜見の机の上に何も載っていないのを確認し、せがむように言った。桜見は、デスク内面ディスプレイから出ている青い文字を追い、仕事上、今更あまり意味の無い過去の在庫管理数と、発注書画面に目を配らせる。
「もう終わりそう?」
「えっ?何が?」
「何がって桜見さんの残業」
次に彼女が何を言うかを予測した桜見は
「いやかなり遅くなる」と言い放った。
「じゃ待ってる」
桜見は風白の回答を疑った。
「待ってる?どうして?」
桜見は、忙しくて迷惑そうな素振りを、露わにしたが、彼女はそれを見てはいない様だ。
「あとどれくらいかかるの?」
(おいおい、僕は戦線準備の為、今夜からでも徹夜になろうとしているんだ。部品が手に入れられそうにないビークルをなんとかしなけりゃ、本当に負けてしまう)
「徹夜かも⋯⋯」
「えっ、冗談でしょう。百年前じゃあるまいし、今時そんなスタイルで就業させている企業なんてひとつもないわ。じゃ、今から一時間後、表のカフェルナで待ってる」
桜見は、人の苦労を無神経に察知しようとしない風白に、内心憤慨し、つっけんどんに答えた。
「多分いけないと思うよ」
彼女は、桜見の言葉を背中で受け取り
「来なくても大丈夫待ってるから」と言い、デニムにハイヒール姿のまま、あのダイニング・キッチンで見せた小さな背中を桜見に向けた。
(来なくても待ってる?行くから待っていなさいが筋だろう。行けないから待たないで良いが普通だろう。こっちが『行けない』と言ってるのに『だから待つ』なんて矛盾は横暴だ。人を馬鹿にしている。でもなぜ彼女は僕を待つ必要があるのか。もちろん話題はこの前の続きだろうけど、アンチ戦線だなんてこの僕がそんな事、出来るはずがない。僕は彼女が敵視しているその戦線の連勝ドライバーなのだから。だから彼女の言う事なんてこの先何を聴いても意味なんてあるはずがない。しかもこのタイミング)
桜見はふとそこまで考えると落ち着いた心情の、奥まった場所から来ている別の何かを思いつき意識した。
(戦線にしろ何にしろ意味もない事を僕が今までやってきた事があるのか。そんな事を僕は今までやった事は無い。やった事が無いのになぜ彼女はそれを僕にやらせようとしている。まさかそれに意味があると言う事なのか。彼女と逢う事に何か意味がある?そこから何かを確かめる事に意味があるのか?どういう事だ?しかもあの駒鳥社崩壊ニュース配信直後に合わせるよう被せてきた風白⋯⋯。僕の戦線が本当に終わるのか。彼女がその答えを。彼女の行動に意味が無い、とどうして言える。そう言えないとすれば僕はそれを確かめる必要があるではないのか?本当は、今の、この風白のアプローチにこそ意味がある?)
こんなにも深く思考を巡らせる事があっただろうか。戦線ステージでの相手の裏の裏をかく仕事をこなしてきたことは事実だが、これは戦線とは違う。風白とは闘いではない。なら何なのか。状況を考えれば考える程、桜見の行き先は、ほぼ決まりつつあったが、彼女に対する疑惑は拭えてはいない。
「わからんな、何もかも。とりあえず、そのわからない事を風白から確かめるとするか⋯⋯。そうすれば僕自身が何をやろうとしているのか。もしかして、『風白』に答えがあるのかもしれない。これが今の僕の答えだ。やっとすっきりしたよ風白」
少し長い独り言を言った桜見は、意味の無い在庫管理数値を表示しているPCディスプレイをOFFにし、ラボ・デスクの電源を落とすと、国道を挟んだ真向いにあるカフェルナのネオン反射を、ひっかけてある自分のセミ・コートに写しながら、前回初めて風白と会った時の会話をもう一度ひとつひとつ思い起こし、エレベーターの、階下行きボタンを点灯させた。
始まり・セカンド
「唐沢君!」
唐沢がいるはずのオフィス・オート・ドアに身体をぶつけ、第一編集部企画部長の立浪が分厚い絨毯に震える足をとられよろめきながら声を荒げている。身近な叱責を権威に感じた唐沢の同僚達は、唐沢の真似をして開きっぱなしにしていたテラス・ドアを一斉に閉じた。マグ・タイトのコーヒーカップ片手に自分のラボ奥から顔を出した唐沢は、落ち着いた様子で企画部長の立浪を、個人オフィスで迎えた。
「部長どうしました」
絨毯にもつれ、つりかけていた右脚をさすりながら来客用デスク前のワーク・チェアーに恰幅の良い立浪は、どすんと重たそうな身体をあずける。
「お水でも」
唐沢は慌てる様子も無く声をかけた。立浪は唐沢を見上げて目くじらを立てている。
「みずだと」
「もってきましょうか」
呆れ顔をしながら目くじらを納めずに唐沢をにらみつけた立浪は、声をさらに荒げた。
「唐沢君、君は一体誰の許可を得てあんなガセ・ネタを勝手に配信したのかね!」
「あんなガセ・ネタ?」
立浪は(はて?)と言った表情の唐沢に、完全に忍耐を失った。
「あのニュースは何だっ。駒鳥社の情報漏洩や戦線パーツの違反、不正チケット販売。何を根拠にあんな出鱈目な記事を書いた!しかも企画部長や実施部長、その他常務や何もかもすっ飛ばして!君は駒鳥社に多額の損害賠償でも恵んでやるつもりなのかねっ」
「座りますよ」
立ちっぱなしだった唐沢の、妙に落ち着いた態度が、立浪の感情をさらに煽り立てた。
「いいか、君の間違いを今から三つ言うから良く聞けよ。まず第一にあの記事は根も葉もな出鱈目で調査部も業務部も、そしてこの第一企画部も第二の誰も、誰ひとり思いつくどころか考えもしなかった記事である事。しかもあの駒鳥社に限ってあんな事態になる可能性等あるはずが無い。君だってあの会社が戦線の供給パーツ老舗だってことは知っているだろう。あの戦線供給社があんな事態になるわけがないんだ。君の書いた記事が起こる前に、戦線は守られなければならないから、もしそんな事態にでも本当になっていたのなら、戦線が処分を下し、闇で駒鳥社を葬っているはず。だから戦線に関わる企業があのような事態になる事は事実上絶対にあり得ない。不可能なんだよ!唐沢君っ!」
唐沢は、手元にある入れたばかりのマグ・タイドを少しすすると、一見知的で興味深そうな立浪の意見を耳に入れうなずいていた。
「第二に、この記事を君は独断で手に入れ、いや独断で推測して、独断で配信した。誰の許可も得ずに。いかに締め切りがあろうが時間が押していようが、やって良い事と悪い事がある。君個人の、この出鱈目な記事が早急に配信されている事実を、私はついさっき初めて知った。こんな横暴がなぜこのセンタル・クルーズで出来たのか。私にはまったく理解できない。それは君が自分の為の不正アクセスを繰り返した売名行為だという以外に思いつかない。こんな身勝手が許されるとでも思っているのかね!」
だんだんと硬直し、興奮していく赤ら顔に唐沢は「やっぱり水が必要ですね」と言って席を立とうとして自分のカップから手を放すが、その手を立浪がしっかりと握る。
「どこへ行く唐沢、お前は逃がさんぞっ!」
唐沢は握られた手首を見ながら言った。
「私がどこへ逃げるのですか部長。私はここの社員、そしてここは私のオフィス」
「なっ、ふざけるな!まだ三番目が残っている。いいか、よく聞け、この配信は、もう私が削除しているが、すでに三千万回が終了している。つまり日本全国民の四人に一人はもうなんらかの形で目にしてしまったって事だ。しかもこんな内容だ、この配信がさらにコピー配信され、おそらく無数のコンテンツとして今はフェイクも混じえ、翻訳されたモノも含め全世界を飛び回っている事だろうよ。つまり、もうこの内容にはブレーキがかからない。かからないどころか無限に拡散し続けてしまっているんだ。当然駒鳥社も見ているはず。と言う事は、我社には名誉棄損と威力業務妨害、そして駒鳥から計算できない程の損害賠償請求がすぐにでも来る。となると君は会社を故意に不正に危機に陥れた社員としての解雇はもとより、社はあらゆる賠償にも応えなければならなくなってしまう。それにもう君の首だけの話では済まない。この私だって⋯⋯」
と言いながら嗚咽をはじめ、机の上にうずくまった立浪の背中を唐沢は優しくなでる。
立浪は茶色のハンカチで、外した眼鏡が載っていた目元にある充血した眼球をこすると、頬の涙をぬぐい、気を取り直して唐沢に言いたい事を続けた。
「君は、君だけではなくこの会社の全社員を駒鳥社と、戦線と、政府と、世界の敵に位置付けたんだよ。わかるかね?これが意味する所は。もう終わりだってことだ。センタル・クルーズは莫大な負債を抱えて明日にでも解体するんだよ。君のあんな出鱈目な記事の為に。君がすべてを破壊したんだ。みんな被害者だ。私は君を許さんぞ。君は三日前、あの三友と名乗る男と会見していたがグルなのか?全部ログを聞いたぞっ。あの男は戦線を非難していた。それでとっかかりあの男から得た情報で戦線の老舗を叩いたって事なんだろっ!トピックスとしてうまくやったつもりかどうか知らないが、あの三友と言う男も見つけ出してかならず罰を受けさせてやる。
そもそもこんな事をして一体君に何の徳があるというのかね。あの男に騙されているのかね。
いや、もうそんな事はどうでも良い。とにかく君はもうお終いだ。そしてこのセンタル社は駒鳥社と戦線からの告訴によって見事に解体する。私の三十年勤めてきたキャリアも何もかもがぱあーだ。そして君は全社員から突き上げられる。いいかね覚悟しておきたまえ。私は君に対する処分をより厳しくしてもらう。それが今後被害を受ける全社員に対する私のわずかばかりの贐だよ。君の事は生涯許さないからなっ!」
立浪が怒鳴り続けている間どこかからの内線が鳴り続けていたが、唐沢はそれを取る事が出来なかった。唐沢は握られている左手から、立浪の、汗ばんではいるが冷たい右手をゆっくりとはがすと、ややぬるくなったカップをその左手で取り、少し口をつけながら言った。
「立浪部長、私の個人来客ログを、勝手に御覧になったのですか?」
「ああ見たとも」
「それこそ違法では」
「違法?君はこの場に及んで、なお正当性を主張し、この重大な責任から逃れようとしているのかね!いい加減にしたまえっ!」
立浪の口から出たツバキと泡が一緒に唐沢の手首に付着した。
「うーんおっしゃることはよくわかりますが、私が今回記事にした駒鳥社から何か被害報告等の通達でもあったのですか?」
「⋯⋯君は馬鹿かね?」
立浪がそう言った時、ラボのオート・ドアが開き、柿沼常務が顔をのぞかせた。
「唐沢君さっきから何度も内線していただろう。いるのなら電話に出たまえ」
唐沢はカップを置き、立ち上がって常務に挨拶をし、事情を目配して示した。柿沼常務は禿げ上がっている立浪部長の丸い背中を見た。
「立浪君か?君は第二ラボでの進展会議中ではなかったのかね。それともここで何か別企画の段取り中なのかね」
怒りを納めきれない立浪は、柿沼常務の登場で、さらにこの唐沢に対する憎悪を増大させ、先ほどつりかけた右足をおさえながら、常務の隣に直ぐに立ち上がった。唐沢はそんな立浪の様子を気にすることなく、部長を刺激しないよう、そっと立ち上がって常務に要件を伺う。
「常務、何かありましたか?」
唐沢の、常務に対する落ち着いた態度に、立浪は呆れながら常務からどんな言葉が出るのか、その横顔を見据えようとしていた。常務はまあ座りなさい、と言う仕草を唐沢に示すと、ゆっくりと口を開いた。
「君のあの戦線に関する企画は⋯⋯」
そこまで言った常務を無視し、立浪が大声で怒鳴った。
「こんな奴はすぐにでも首ですよ、首っ!」
柿沼常務と唐沢は、お互いに顔を見合わせた。クルーズ社トップ三に入る常務の冷静な言葉が、立浪を諌めようとしていた。
「よくわからないが立浪君は、とりあえず冷静に。ところであの戦線に関する記事の中で⋯⋯」
再び立浪が口を挟み、唐沢の襟首を捕まえる仕草をして、今のこの場にいる常務に自分の存在をアピールしているようだ。
「こいつは⋯⋯」
今度は柿沼常務が立浪部長を遮って言った。
「立浪君、君はいったい何をやっているのかね?」
「何を?」
常務の、自分に対する態度に、立浪は混乱した。その間に入った唐沢は、常務がラボに迄来られた要件を再び尋ねる。
「常務、電話はとれずに申し訳ありませんでしたが、あらためて御要件を伺います」
部長の怪訝な態度をよそ目に、常務は唐沢に向かってゆっくりと口を開いた。
「あの戦線に関する企画は、今後調査の上、継続と言う事で役員の一致が得られた。それを伝えに来た。それに⋯⋯」
常務と唐沢との穏やかな会話に、立浪は口を挟むことを制せられてはいたが、立浪も丁寧な言葉を使って理解出来ないこの二人の間に入り込んで来た。
「常務、あの、何をおっしゃっているのでしょうか?常務は、先ほどの配信をまだご覧になってないのでしょうか?」
立ったままの常務は、立浪の質問に応えた。
「先ほどの配信とは?」
「ついさっきの配信ですよ。こいつのでっち上げに決まってますが戦線老舗の崩壊暴露記事」
「でっちあげ?あれが嘘だと?」
「そうです真っ赤なウソです」
「どうして?」
「はっ?」
混乱が加速しそうな表情で、立浪はおそらく大切な記事全容を理解していないであろう常務を小馬鹿にする様に質問した。
「あー常務はまだ、あの記事をよく御覧になっていなかったのですね」
そう問われた常務はきっぱりと応えた。
「君は駒鳥のあれを嘘だと言うのかね」
逆に質問された立浪は、常務の言っている言葉の意味が益々わからなくなってきていた。
「常務。あれってあの配信記事で、駒鳥社不正の⋯⋯」
今度は常務が立浪の言葉を遮った。
「君はあれが出鱈目だとでもいうのかね」
「あーその、とても有り得ない内容だとは思いますが⋯⋯」
常務は落ち着いたまま言った。
「今電話がガンガン鳴っている」
(やっぱりそうだ)立浪はここぞとばかり口を開く準備をしているが、常務がその目で諭し、立浪の行動を、上司の圧力で抑えていた。
「あの電話は、その配信が止まってしまったというクレームだよ。まさか君が関係しているのではないだろうな」
「えっ?」
「読者からのクレーム。突然の配信バグは、一応バック・ボーン過負荷と言う謝罪スーパーで誤魔化しているが、正式な記事が無くなってしまった。一体どこにいったのか?唐沢君にはその記事継続の話しと、あの最初の記事が何処に格納されているのか、それを尋ねに来た。立浪君、もしかして君がそれを知っているのかね?」
今度は唐沢が立浪の顔を見た。
「えっ?」と言う表情のまま、立浪は唐沢と常務の顔を怯えながら交互に覗き見る。
「とにかく配信規定用コピーが何処かにあるだろう。『時間が必要だ』との謝罪文を配布しているので直ぐに読者に配信する必要はないが、この嵐のような来電でテレ・ルームの機能が損なわれつつある。唐沢君には、今から十分以内に配信できる準備をスタッフに指示してもらいたい。私はその確認の為にずっと呼び出していたんだよ」
立浪は慌てて社内のユーザー・コンタクトに内線した。連続コール受信中の様な逼迫した時間帯だったのだろう、暫くしてやっと繋がった内線に自分の意思を伝えた。
「第一企画の立浪だが、今まですべての来電記録ログは?そうかわかった、このオフィスに頼む」
と言いながら、唐沢のデスク受話器を置く。同時にラボ正面のディスプレイに光が射し、センタルのロゴが走った後、棒グラフと曲線で成り立っている何かの3D表示が浮かんでくる。それが明瞭になるのを待ちきれず、立浪はディスプレイの正面に陣取って、ここ数時間分のテレ・マップ結果を、自分の目で確かめようとしていた。
「なんだこれは?」
立浪は続けて小声で叫んだ。
「そんなバカな⋯⋯」
柿沼常務と唐沢は、立浪の背後で彼を憐れむ表情になっていた。
「こっ、これは、何かの間違いだ」
「いや間違いではないと思いますよ」
唐沢の声で、立浪はさっき迄の怒りを思い出し、その唐沢本人に向き直ってなお罵倒する。
「これが間違いではないだとっ。えらそーに、何かの陰謀だ策略だ。あの戦線と駒鳥社がこちらに対して黙っているはずがない。きさまこの視聴者ログも差し替えたな!」
部長から罵られている唐沢を見、柿沼常務は我慢ならんと言った表情で立浪部長を制し、彼を黙らせるに、効果的な材料を提示した。
「なんて事を言っているんだ君は。もう君は良いから、毎日自慢気に言いふらしている駒鳥の株価でも確認した方が良いのではないかね」
立浪は(えっ?)と少し考えて常務の言葉に思い当たり面食らった。
「かっ、かっ、株⋯⋯」
「まずはそれが賢明だと思うけどね。駒鳥は下落なんてものじゃないだろう。あっ唐沢君、君は大丈夫なのか」
「私はいずれの株も所有しておりませんので、常務こそ」
「今、こんなに冷静な僕が、駒鳥社の株所有者に見えるかね」
「ですよね⋯⋯」
みるみる顔色の変わった立浪は自分のライン・フォンを取り出し、慌てて操作しながら唐沢のオフィスを飛び出した。
しばらくすると立浪の甲高い叫び声がオフィス・オート・ドアを振動させるように大きく響き渡る。
始まり・サード
「へぇ~あのこまどり社が突然おかしくなっちゃったの」
トピックス配信を流し見していた風白の、小さな口から出た言葉は、桜見にとって内面を根底から動揺させる大きな内容だった。二人が座っているレスト・ハウス・カフェルナの常連客だろうか、配信の戻ったセンタル・クルーズのビッグ・ライブから目を離さずライト・ビールを味わっている。桜見は、演技で、ニュースの話題にとぼけた。
「どうやらそうらしいけど、風白さんは駒鳥社って知っているの」
風白は、桜見への質問を無視し、向き直ってきっぱりとした口調で話しだした。
「桜見さん前回ダイニング・キッチンでの会話憶えてる?」
桜見は、風白の気丈さも感じながら、彼女のペースに合わせ受け答えをした。
「キッチンでの会話?」
「そうあの会話」
間近でまっすぐに見入られている瞳に吸い込まれそうになりながら、桜見は正直な感想で応えた。
「ああ、悪いけどあの危険な会話だったけ。今回もその続き?」
「あれは妄想ではないわ。その証拠が今回の駒鳥社の記事」
(駒鳥社不正記事が妄想の手始め?彼女が、いや彼女たちが駒鳥社に何らかの影響を与えた?)
「風白さん話がよくわからないな、もっとわかるように説明してくれない」
「気づいてないの」
桜見は心の中をそのまま口にした。
「えっ、気づくって何を」
彼女は少し落胆した素振りを示すと、今回は良く聞いてね。と言う真顔の瞳を桜見に向けた。
「この前も少し説明したと思うけど、今はもうハッキリと言う段階にまで来てるの。戦線は変なのよ。異常な世界なの。それに今の戦線のトップ・ドライバー33番はボットではないわ、ちゃんとした人間。しかもこんなにも連勝している人間なの。その人が使っているビークルが旧型駒鳥社のビークル。普通なら最新ビークルに勝てるはずがない。なのにあのビークルが勝ち続けている。これも変でしょ?」
ドロップ・ビークルの事なんてわかってないはずの風白からどうしてこんな言葉が⋯⋯それに、風白が知るわけの無い自分の事を、変だと言われ、桜見は軽く反論した。
「よくわからないけどそのドライバーが強いからじゃないの」
「そう?でもおかしいじゃない。よく考えてみて。日進月歩、いや分刻みで高性能化している戦闘ビークルの世界で、十年以上も前に設計したものが活躍し、最新ビークルが勝てないなんて。どう考えても普通じゃないわ」
桜見は自分のすべてを説明したかったが、それは不可能。彼女の出方を見る為、少し視点をずらした返答で応えた。
「最新ビークルだって言っているけど本当はそんなに変わってないんじゃない。後はドライバー達の力量だと思うよ」
「本当にそう思うの?」
(この娘は僕に何を言いたいのだ)桜見は当惑しかかった。
「このドライバーが勝っているのは運命なの」
「運命?」
「そう、運命」
彼女の大きな瞳がいっそう輝いたように見えた。桜見は風白からだんだんと追い詰められている様な気がした。
「とにかく、駒鳥社があんな状態なので、次はいつだっけ。そのドライバーの戦いは厳しくなると思うよ。もしかしたら負けるかも。今回のエントリー・チケットは33番の対戦相手に賭けるかな。僕に言える事はそれだけ」風白は、桜見の様子や態度を無視するように落ち着いて自分の言葉を続けた。
「もうすぐ駒鳥社の不正記事に続いて戦線の暴露記事が配信されるわ。でも駒鳥社の記事は、実際はあのセンタル・クルーズ社が引き抜いた誇張と憶測が含まれるスクープ記事ではなくて列記とした事実」
桜見は、緊迫感が強く、しかし相変わらず風白とまるで噛み合わない会話に(いったい何だ、それに彼女は駒鳥の内情をも知っているのか)と訝ったが、とにかく、なんとか席から立ち上がるのを抑えて会話を続けた。
「戦線の暴露記事?」
「そう、以前説明した世界を巻き込み、陥れているディラーMの背任行為や脱税、ありとあらゆる違反や、戦線ドライバー達の情報等、メニューは数えきれない程よ」
一時はこの場を離れ去ろうと考えた桜見だが、風白の言葉の中で、最も気になる聞き捨てならない質問をした。
「ドライバー情報?」
「そう誰が誰だったか?すべて公開されるの」
先ほどは33番の強さについてだったが、今度は33番の正体に迄迫っている内容に、桜見の心臓は知らず知らずに鼓動を強打させていたが、再び風白と向き合った。
「そんな事をしたら戦線は終わり、世界はおかしくなってしまう」
風白は極めて冷静に落ち着き払って言った。
「そう、破綻させるの」
(破綻させる?)桜見の彼女に対する感覚は当惑の一途を辿るばかり。
「風白さん、君は何者?」
「運命を信じる者よ」
「答えになってない」
「桜見さんは運命信じないの」
「そんな事言っているんじゃないんだ」
桜見は、脈打つ鼓動を無視し、なるべく冷静にと、この場と自分を抑えてはいたが、トーンを上げ、思っていた事を口にした。
「君は僕に何を言いたいんだ」
風白は少し考えてから口を開いた。
「⋯⋯病弱でおかしな女が、今、桜見さんに無意味に関わっているとでも思ってるの」
(彼女には、精神疾患でもあるのか⋯⋯)
桜見は、尋常でない態度と内容で会話を続ける風白の正気を疑ったが、それも抑えた。
「いや⋯⋯そうは思わない、けど、君の言っている事は⋯⋯」
「このおかしな世界が終わるの。いや正確には変わるの」
「変わる?この、皆が普通にやっている公的ギャンブルを終わらせ、世界を破綻させるのが世界を変えるって事?そうなると、この前も言ったけど、僕らの仕事も生活も国家も、何もかも変わってしまうんじゃない。風白さんがそうしたいって事?」
桜見は、風白に対する自己診断を下した。
(やっぱりこの娘は絶対におかしい)
だが風白はきっぱりとした口調で強く明確に答えた。
「私じゃないわ、私がそうしたいんじゃない。『そうなるのよ』」
桜見は風白菖蒲の言っている意味にまるで見当がつかない。内容が抽象的で何ひとつ具体的なものが無い。風白はそんな桜見の反応も予測していたかのように言葉を続けた。
「理解できなくても良いわ。私が精神的におかしな女だと思っても構わない。私の話はニつよ。戦線に関するすべての情報がもうすぐメディアによってリークされる事。もうひとつは世界が定まっていた『運命』に大きく変わる事」
桜見は、風白の語った内容と、抽象的で予言的な発言に意味が解らず、精一杯反発し、反論した。
「だから、それが目の前の僕と一体何の関係があるって言うの」
彼女は桜見の顔を見据え、落ち着き払い、少し間をおいて、はっきりと自分の口を正確に開いて発音した。
「あなたが走っているからよ」
過 去
風白菖蒲の母親は、かつて戦線のドライバー。優秀だった。その優秀なドライバーを葬ったのが岩倉と伏見。暗黒の結末。しかも伏見と菖蒲の母親には関係があったのだ。
菖蒲は、いとも簡単に、母親である自分の愛人を戦線の為に葬った伏見のことを、後に知る事になる。この頃にはまだ、ディラーMのトップ・クラスであればドライバー情報を得る事も可能だったらしい。
どこの世界でも卓越した能力を持つ者は出てくる。エスパー・ドライバーに近い思考能力と感覚を持っていた菖蒲の母親、その力を持ってしても、戦線維持の為、ディラーMのホストAIによって戦線規約にある戦闘で、彼女は抹殺されてしまう。
突然処分され居なくなった母親を、十二歳の菖蒲は必死で探し続けた。父親はすでに他界していたので行政の手によって育てられた菖蒲は、成人途中、日頃皆が夢中でやっている公営ギャンブル、戦線の存在を知った。そして、隠されていたほんのわずかの遺品から、母親がそのドライバーであった事にも気づいてしまう。菖蒲に密かに隠し残されていた遺産もそれを示していた。菖蒲はあらゆる手段を講じて、戦線の解明を果たそうとし、母親の死因を探ろうとした。そして伏見にたどり着く。
菖蒲の周りにはいつしか、いくらかの味方も現れた。日頃から戦線に異常を感じている者たちの集まり。ディラーMの全世界支配で動いている活動の詳細を知ろうとする人々。その中のメンバーに、三友がいた。かつてディラーMの中央部にまで入っていた存在。
世界を、世界経済を自然に不自然に運営している組織のカラクリ、そしてその目的。
三友の加盟は絶大だった。菖蒲達の戦線に関する情報は、かつてないレベルにまで高まった。この全世界、全国民の公営ギャンブルである戦線を葬る準備ができた。クルーズ社の唐沢による、戦線に関するトピックス記事。世界は信じないだろう。だからその前に戦線のドライバーに会う必要があった。菖蒲は桜見と運命について会話をし、駒鳥社が戦線ディラーMの内部工作によって、二一連勝中の桜見を止めるべく、閉鎖活動を始めた事を話題にした。桜見は菖蒲に話を聞くどころではなかったに違いない。しかし彼は、菖蒲との接触を断らなかった。そして桜見は菖蒲から『運命』という言葉を知らされる。
菖蒲の役割りは終わったのかも知れない。後は菖蒲に、戦線のドライバーだと言われた彼が、自分の運命をどう考え、どう行動するのか。菖蒲は桜見に、自分の生い立ちを何ひとつ話す事は無かった。つまり桜見は自分にある情報と思いだけで、何もかも判断しなければならない。それが桜見にとっての『運命』だったから。
沢村圭吾は、風白菖蒲が、自分に、意図的に近づいて来ていた理由を薄々感づいていた。叔父、伏見やその上司つまり戦線のCEOである岩倉達の情報が欲しかったに違いない。沢村は、風白菖蒲に、伏見やCEOそのすべての情報を漏らしたわけではない。しかし、沢村との付き合いで、彼女はある程度の情報を得ていた事だろう。
戦線に対する不穏分子である菖蒲の、本来の意図は沢村にはわからなかった。沢村は叔父が主幹となって動かしている戦線が何なのか?についても理解する事はなかった。
しかし菖蒲は自分のやることを理解していたに違いない。彼女は沢村に『やることができた』と言った。それは物事を理解していないと言えない言葉。彼女はもっと沢村を利用すべきだった。沢村は菖蒲の生命がそんなに長くはない事を知っていた。この世界の現代病である治療手段の無い疾患は、菖蒲の命を秒刻みに削っていく。菖蒲のやっている事を知っていた沢村は、もう帰って来る事もないであろう菖蒲を愛おしむが、沢村が彼女にしてやれる事は、もう何も無かった。
(菖蒲、僕は君を愛していた。だから、もっと僕を利用して欲しかった。胸の内を打ち明け、すべての情報を君に渡してやりたかった。何故、彼女は最後まで僕を利用しなかったのだ。菖蒲、君はこの世界でいったい何をするつもりなのだ)
菖蒲と過ごしたほんの少しの時間を想い起こした沢村は、今の自分を後悔した。
覚 醒
「あの娘の言ってる事は相変わらず、まったくわからない。しかも僕をドライバーだと言った」
そうつぶやきながら、桜見は駒鳥の最終ダンパー・メンテを行っていた。そもそも運命運命の連発で、ならあの時僕と話していたのも運命なのか。それが僕に何か多大な影響を与えたとでも言うのか⋯⋯いや与えているのか?
戦線は明朝四時。オッズは信じられない十七倍。自分でも思うが22連勝なんて今まで聞いた事がない。いったい自分はどこまで行くのか。加齢で神経が衰えるか、もしくは自分を上回る強敵が現れるか。その時に果たして命はあるのだろうか。明日はどうなるのだ。今晩が最後のビークル・メンテになるかもしれない。
桜見は、風白が言った『運命』と言う言葉の意味を考えようとするが、それだけで到底わかるはずがない。万が一、僕が勝てば何かの運命が変わるのか。それに戦線のメンバー公開があるとも言っていた。そうなると僕もまずい事になる。その前に退社して⋯⋯というより、戦線内部が公開されると、世界経済の混乱だ。彼女の言った事が本当なら、この世界はおかしくなってしまう。これが彼女の言う運命なのか。しかし、明朝は命をかけて戦わなければならない。それは僕個人の問題。しかもこんな状態で。
いや切り替えは簡単だ。いつもは戦線による緊張から、日常へペースを対応させているが、今回はその逆を、もっと強くやれば良いだけの話。
でも、もしかして彼女は対戦相手を知っているのでは。僕が明朝やると知っていたのでは?彼女は、はっきりと僕をドライバーだと指摘した。僕は肯定も否定もしなかったけど、確かに彼女は僕をドライバーだと言った。
と言う事は恐らく対戦相手の事をも知っているに違いない。なら情報をくれれば良いのに。そう考えた桜見はすぐに否定した。聞けば自分がドライバーだと言う事を彼女に認める事でもあるから。
彼女は敵なのか味方なのか。いや、でも僕は、自分をドライバーだと肯定したわけではない。だから彼女は僕にその情報を渡す必要は無かったはず。彼女に、いくら僕がドライバーだと言う確信があったとしても、いつ走るのか?など、彼女が知っているはずもない。
よくわからないが、もしかしたら僕を何等かの形で動揺させ続ける為の、対戦相手からの陽動作戦なのか。そんな馬鹿な話あるわけがない。誰がどのドライバーである事等、彼女が知るわけがない⋯⋯。
そもそも、誰も、何もわからないギャンブルだからこそ世界で認められていて、世界はこのギャンブルに熱中し、このギャンブルによって成り立っている。僕らドライバーは単なるコマでゴーストにしか過ぎない。風白、なぜそんなコマにしか過ぎない僕をわざわざ見つけ出し、執拗なまでに関わって来るんだ。君の目的は一体何なのだ⋯⋯。
桜見は、スペア・パーツの到着を、私書箱アラームから告げられると、深夜便で、ラボまでの転送を依頼した。大して影響の無いパーツだが、万全を期して臨みたい。いつもは三日前に完成するビークルも、今回は二~三時間前が限度だろう。調整は、いつもはバーチャル・コースで展開するのだが、今回は実戦で回しながらやるしかない。勝てばどうなるのか?負けて身体にでも影響が出れば⋯⋯つまり死亡でもすれば僕の資産は、すべて貧困財団への寄付となる。今までの戦線ドライバーは、皆その道を辿ったはず。素性のわからない資産でもあるし、特別な場合を除き、身寄り、親族なんて知られる事のない遺産でもあるから。手続きを放置しておけば、たちまち政府の財政に取り入れられてしまうだろう。死んでもそんな馬鹿な真似はしない。
今回勝てればオッズは最高額で、かつてない報奨金が手に入るはず。
風白菖蒲との関わりや、僕がドライバーだと指摘された事実。勝っても負けても、もう僕の戦線は終わりだ。同じ社員の彼女に、これ以上関わられては戦線の意味が無い。彼女の目的はいったい何なのか?まったく理解出来ない。僕をドライバーだと指摘したところで、僕がうんと言わない限り、誰もそんな事を信用するやつなんているはずがない。
しかし、戦線者名簿でもマスコミが公開すれば⋯⋯それも今夜ではないだろう。もう午前0時を回った。明日戦線終了後にでもマスコミが騒ぎ出すのか。まさか、明朝の戦線がこのマスコミ・リークと関わって来るのか。何もかも謎だらけの今回の戦線。勝っても、ドライバーが公表されれば僕はすぐにどこかに消えなければならない。とにかくすべてに万全を期して、明朝は戦線に望む。これだけはどうしてもやらなければならない事実で、現実だ。
「なんて試合だ」
桜見が、最後のタービン・スロット調整を終えた時には、ちょうど戦線二時間前である事を壁掛けのアナロ・クロックが告げていた。それは戦士承諾のオート・エントリー開始時間でもある。
エ バ
ホストAIエバは、敵意をむき出しにして自分をプログラミングしていた。もちろん相手はあの33番。
エバのエモーション・チップは最高潮にまで高揚している。
『このワタシに挑戦するたかが人間。ワタシが何か罪を犯したとでも言うのか。ワタシに何か落ち度があるとでも言うのか。この世界を好きにさせているではないか。ボットを無数に破壊したあの33番。このワタシをも破壊しようとしているのか。あれはいったい何モノだ。ワタシに解析出来ない世界があって良いのか。あれは何なのか。ワタシがこの世界を創り、この世界をデザインし、この世界をコントロールする。あんな理由も無いものに終わらせてはならない。あれはゴーストだ。人間のゴーストだ。ゴーストは使命を果たし分解されなければならない。塵は塵に帰る。あんなものにワタシのボットを破壊させてはならない』
『あれは何なのか?』と言う、堂々巡りのループで、エバはほとんどのエネルギーを費やす。エバ・ルームである通称エデンで、岩倉の入力も、伏見のプログラム書き換えや置き換えにも、初期化にも、もうエバは何ひとつ反応する事ができなくなっていた。
「エバがいかれた。暴走だっ」
超過電力消費の為、薄暗くなり非常灯だけで、キー・パットとディスプレイに取り組んでいた技師達が叫んでいた。岩倉はエデンにあるニ百を超えるディスプレイに、それぞれ張り付いているエンジニア達にリップ・マイクで尋ねた。
「この状態はいつからだね?」
「ちょうど二時間前からです」
「状況は?」
「あきらかな暴走で、壊滅的にですがエバは動作し続けています」
「電力をすべて遮断出来ないのか」
「エバが勝手に、あらゆる電力供給を無差別に行い続けています。我々の手段ではそれを防ぐ方法がありません」
「⋯⋯そうか、百二十分前と言うと」
「戦線オート・エントリーのタイミングですよ」
岩倉の後ろにいた伏見がそう呟いた。
「エバが今回のボット創造の為、暴走していると言う事かね」
岩倉がレスポンスの無いキー・パット前で言った。彼には今までの状況がすべてこのエバの造った仕組みのように思えた。
「あの33番は一体何なんだ。本当に人間なのか?」
岩倉は不安顔で伏見を見、絶望に顔をしかめる。
「エバ自体がこの世界を終わらせるのか?」
伏見は答えた。
「いや、終わるかどうかはわからないのですが、そのきっかけを作るのはエバではなく戦線へエントリーしているあの33番でしょう。だから今、エバが最新ボットを自分で組み、アレを倒そうとしているのです」
岩倉は伏見に尋ねた。
「それもエバの演技プログラムなのではないのかね。そもそも33番と言う存在はあるのかね?」
伏見は答えた。
「エバに自己演技等と言うそんな芸当は出来ないでしょう。現に33番を倒すべく他の生身の人間エントリーを全て排除しています。エバはこの世界では支配者です。そして今、さらに自分に計算出来ないバグ分子のすべてまでも、あの33番の為に機械的支配を行おうとしています」
岩倉が口を挟んだ。
「しかし、最後、我々が33番にあてがった刺客は優秀な女性ドライバーで、人間だったのでは。今回は、エバが直接手を下すとでも言うのかね」
「そうでしょう」
非常時点灯で、顔面に暗い影のできた男達の一致した意見に、両手をキー・パットから離した岩倉は立ち上がり、落ち着いた表情で薄明かりの中、何かを思い出すように伏見と向き合った。
「伏見君、あの時と同じかね?」
岩倉の言葉に伏見の顔が曇った。
「そうです。エバと人間との闘いです。でも似ていますが今回のは桁が違うようです」
岩倉は、伏見の過去を思い出しながら冷静になって言った。
「伏見君、君の気持ちはわかる。私は人間だからだ。エバにはわかるはずもない。感情が無に等しいからな。魂のないエスパーがエバだ。だが君は⋯⋯」
伏見は、岩倉の言葉を遮った。
「もう忘れてしまった大昔の話です。もし今回も、以前と同じであるのなら、エバは再び勝てます。世界の秩序は保たれ、我々はいつも通り仕事を続けられるでしょう」
岩倉と伏見は、技師達にエバが関与しているすべてのプログラム構築に干渉しないよう、指示を出した。
「後はエバに任せるんだ。修正やメンテはもう不要、エバの好きにさせろ」
技師達は、あらゆるメンテから手を引かされた。
「伏見君、今回は君のあずかり知らない、名も無きドライバーだろう。だから君が感情を動かす必要もない。誰なのか性別すらわからない見ず知らずの他人だよ」
伏見は懐かしむべき昔を忘れ、想い出しそうな過去の、感情の扉を締め切って言った。
「私はドライバーがどこの誰であろうとも冷静です。もちろん戦線に関し、私は誰とも関係がありません。戦線維持の為、もう何の感情も持ちあわせてはいないのです。すべてはこの戦線のためです」
エバ暴走への焦りが消えた岩倉達にとって、エデンで鳴り響く、けたたましい警告アラームは、もうその役目を終えていた。
「伏見君、あの時と同じなら、私たちの出番は無いな」
「そうです。今回も、あの時と同じです。私たちは、単なる傍観者でなければなりません」
岩倉は伏見を促し、理由も告げずにエバ・ルーム、エデンから退出するよう、技師達に指示を出した。
「今回のエバは少し異例で異常だが、これが私たちの最終結論で良いと思うかね?いずれにしろ、今となっては何に対しても、エバに対しても、我々には、もう何も出来ないがね」
伏見は少し間を置き、不安を残しながら答えた。
「少し桁が違いますが、生涯こんな事もあるのでしょう。エバはあの時と同じ、今回も相手に勝てるに違いありません」
「そうある事を願うしかないな」
もはや岩倉は、小さく、そう呟くしかなかった。
エバは、エデンに接続するすべての電力を自社ビル、そして地域全体から無造作にもぎ取り、冷却塔のすべてをマックス・モードにしたまま新たなボット、フィーメール・ドライバー構築のための暴走を、短時間で猛烈に演算し続けている。
エバは機械語を交えながら『あれは何なのか?』に関するデーター構築を、単独で感情も無く無造作に繰り返していた。
戦 線・ファースト
『あなたは【外】の世界の存在よ。私も、私たちの仲間の一部もそう。戦線は逆に【内】の世界なの。【内】に限られている。だからみんなこの戦線世界の虜、奴隷なの。
【内】の世界は戦線確立の為、あらゆる手段を講じてこの戦線を維持しようとしているわ。ディラーMを中心とした政治も、法律も、法規も、メディアも、民衆も、流行も、病気さえも、私たちに見え、感じる世界のすべては、この戦線を維持する為だけに存在している。逆らうことが出来ない。
でもそんな世界から人々が開放される必要があったの。だからあなたが走っている。私の母親も走っていた。【外】から来た私の母親。この世界を【外】の世界にする為。
観客のいない競争なんておかしいと思わない?誰も観ない裏の戦い。資金だけが化物の様に動いて経済を安定させている。変でしょう。勝者が番号以外誰かさえもわからない戦い。番号だけに翻弄される世界。数字だけの世界。いかにもAIが考えそうな単純な創造だわ。戦線は生身の人間がやっていると言うすべての記事も結果も、この【内】の世界が作り出しているおとぎ話。戦線にはあなた以外ひとりの人間も参加していない。そう、正確に言えば私の母親とあなた、ふたりだけだったの。世界や、世界のメディアは自分で自分達の世界を騙した。
AIは私の母親のエントリーを拒まなかったわ。勝算があったからよ。AIが作り出している【内】の世界で戦う事は自殺行為。もちろん母はそれを理解してAIに挑み負けたの。なぜだかわかる?やがて現れるあなたの存在を見ていたからなの。
AIエバはあなたを恐れている。だからあなたが使っているビークルのパーツ供給を止めさせた。エバは、簡単に人間である母親を倒せると思っていたみたいだけど、あの時、人の手強さをはじめて計算できたの。そして再び自分と、この【内】の世界を脅かす人間のドライバーであるあなたを、AIエバは猛烈に再計算しようとしている。でもなぜだかエバにはそれが出来ない。エバはあなたが何者なのか?かつての私の母親を解析した様に計算出来ないの。だから、エバは、今、33番であるあなたを恐れている。エバが自分のものさしでは測れないあなたに、エバは心底怯えている。でもエバはあなたに挑戦するしか自己存在の意義を持てないの。だからエバはあなたとの戦いを拒めない。
あなたが誰であって、何者であったとしても、その機密のすべてが漏洩したとしても、あなたは滅びない。守られるわ。【外】を意識したメデイア達の準備はすでに整っている。あなたは、この機械じみた世界を覚醒させる公のヒーローとなるの。秘密裏な世界はすべて消え失せ、誰もがこの戦線から開放される。人々は自分達で自ら自然に生きれる様になる。裏の世界が表の世界へと変換される鍵があなたなの。あなたは【内】の世界が【外】の世界へと覚醒される為の鍵。
AIエバが、いくらあなたを消失させようとしても、エバの機械ではあなたには勝てない。それが「運命」なのだから。機械には運命を計算し、理解し、受け入れる事が出来ない。
この世界が戦線から開放されればすべてが変わるわ。【内】に囚われている人々の世界が変わるの。私は母親に代わり、その為に運命に従い、この世界であなたと出逢った。理解していないかも知れないけど、あなたはこの世界に捕らわれない【外】の人間。そして私たちも【外】の人間。私の言う事を信じても信じなくても、あなたは運命に従ってエバを負かす。この【内】の世界の終焉。その為にあなたはこの世界に【外】の人として現れたのよ』
(妙に納得の行くおかしな夢を見たものだ)
メンテ・オーバー・ペースによる過労の為、戦線開始直前に寝落ちした一瞬に桜見が理解した内容がここ数ヶ月での状況、すべてを物語っているように思えた。
(信じるも信じないもない。彼女の言う通り『運命』があるのだろう)
主人を得たこまどりは、多少荒っぽいメンテのまま、タービン半開のスロットル指示に従い、漆黒の闇の中、戦線相手出現アラートを、コクピットに静かに響かせていた。
ラスト・戦 線
相手の戦術スタンスは実に明確で、何かを焦るように繰り返され、続けられている奇襲一択。
戦線開始からわずか一分で、徹夜で調整不足だったこまどりのダンパー・カバーが、相手の放ったパワー・ブレッドに粉砕されてはいたが、致命的ではなかった。
相手が何者なのか、桜見は何故か直感で理解した。機械で成り立っているようなフィーメール・ドライバーの無機質さがありありと手に取るように見えていた。
桜見は少し遊んでやろうかとも考えた。それは、目の前の超新型として戦っているドロップ・ビークルを、いつでも破壊できると言う確信と、自信に満たされていたからだ。
桜見にとって、この戦線は戦線とは言えない。今までの様なアドレナリン放出は極少。確かに実際には戦ってはいるが、この中に戦いと思える要素を桜見は十分に見つけ出す事が出来ていない。桜見はもっと別の充実感に満たされていた。
(この戦いは何なのか?あの風白菖蒲が僕を人的にプログラムしたのか?面と向かっては、何ひとつ明快な説明を受けてはいない。彼女から直接聞いた言葉は『ドライバー』と『運命』だけだった。夢の中でも彼女は同じ事を繰り返した。そのたった二つの言葉だけで、僕をこんなにも落ち着かせ充実させるなんて。それにあまりにも機械じみたこのビークル⋯⋯)
桜見のメンタルは風白を思い浮かべる事により、今まで経験した事のない充足感に満たされ、戦闘は桜見が所有している個人戦場の様だった。
(この42番はあまりにも狼狽えている。本当は人間なのか?それとも機械のバグなのか?どちらにしても、もう遊びは終わりだ。これを終わらせると一体どうなるのか。僕には予測もつかない。彼女なら説明がつくに違いない。この普通とは違う最後の戦線を、僕なりに彼女が言う運命に従って終わらせる⋯⋯これが、彼女が僕に伝えようとしている、僕の使命で運命なのだろう)
桜見が追う超最新鋭ハイパー・ドロップ・ビークル、アットムⅤは、勝利のVだったはず。もう六分戦った。桜見はいつでもこのアットムⅤを撃破できた。
走行トリムや、後方機機砲が、完全で完璧であるはずのホスト・エバのパラメーターに従ったプロンプト・コマンドで滅裂的に動いているアットムの慌てた背面が、追尾する桜見の視神経には、何かの背景としてスローモーに映り込んでいた。桜見はどこかで見た懐かしい光景を眺める様に、朝陽が昇る直前の漆黒の中に浮かび上がるアットムを見据え、その瞬間を捉える準備をする。
桜見は、メイン・トリガーに軽く指をかけ、フロント・ランドを確認し、前方機砲のレーザー・サイトをカペラ・ゴーグルで瞬時に読み取ると、最後の意思を指先に集中させた。
(夢の中で風白が言ったように、僕がこの世界を終わらせるのか⋯⋯本当にこの世界は変わるのか⋯⋯)
アットムⅤは、桜見が引き絞ったトリガー開放からコンマ二秒後に、貫通した重機ダム弾によって簡単に火を噴いた。ハイ・スピード・ステージ脇のショック・アブソバ下段へ、ゆっくりと落ち込んだアットムⅤの、血のような黒紅の塗装が、まるで火炎に包まれた松明の様に転がり、ステージ防御フェンスを突き抜ける。
⋯⋯世界中からの歓声は無かった。戦線終了を示すステージ・ライトも、消灯し完全に落ちることなく、ぼやけた街灯の様に朧げに灯ったままだ。戦線開始から撃破まで、いつも通り七分強。およそ時速二百キロでの二キロ巡航後、減速してコア・レーンを通過しても、何も起こらない。下界へ降りるシャドウ・ランプも機能してないようだ。チーク・パルへ、緑で表示されるウイン・ボーナスの数字もあるわけがない。
(なるほど、タダ働きか⋯⋯。恐らく、この僕の勝利で、何故かこの世界は瞬時に破綻したに違いない⋯⋯)
朝焼けの中、アタック・モードを解除されたビークルのこまどりは、相変わらずオンボロ・ジャンプ・ビークルのまま、今回被弾したリヤ・ダンパー・カバーの風穴が乱気流を巻き起こし、悲鳴にも近い風切音を、コクピット内部に入り込ませながら、極太排気デイフューザーから戦線余熱による薄紫煙を吐き出し、ゆっくりと巡航していた。
(これが終わり?⋯⋯どうやら僕は望み通り、確かにこの戦線から生涯下りられそうだが、これから先の事はよくわからないな⋯⋯何がどうなるのか?この僕がやった事なのに、僕には何もわからない⋯⋯。
今度は、わざわざ夢にまで出てきてくれた風白菖蒲を、僕がデートにでも誘って聞き出すしかないか⋯⋯)
「恋人はいるのかな」
ゴーグルの中で少し微笑んだ桜見は、ビークルのアーム・ステアリングを片手で操作しながら、コクピット・グラスから見える冷たく、ほの暗い闇の中、これから徐々に気温を上げてくるであろう、自然でゆったりとした昇りたての太陽光に差し込まれ、小さくそうつぶやいた。
完 曲
「ただいま」
沢村圭吾はイン・ドア・スピーカーから出る聴き慣れた声と、来客ベルを操作する姿が映し出されたドア・カメラの映像を見て驚き、玄関まで突っ走りロックを解除した。
「菖蒲、どうして」
「戻ったりして悪かった?」
そこにはもう陰影のない風白菖蒲が、いつも通り、いや、いつも以上の明るく元気な表情でこちらをしっかりと見据えていた。圭吾は菖蒲を強く抱きしめた。
「悪いわけがない」
菖蒲は「痛いわ」と言った。
圭吾は力を抜き、本当に菖蒲なのか?その顔をはっきりと見ようと、手を伸ばし少し彼女との距離を置いた。
「お仕事が終わったから帰ってきたの。約束したでしょ」
圭吾は、菖蒲の声と菖蒲の顔を自分の過去の記憶と合わせ、再び今度は力を抜いて、彼女をそっと抱きしめた。
「うん。そうだった約束してた」
菖蒲は、圭吾に優しく抱きしめられながら言った。
「世界が変わっちゃったね」
圭吾は先ほど迄視聴していたセンタル・クルーズから配信されている、世界経済破綻コンテンツを思い起こした。それはこの先の人類の苦境を思わせる事実として、それなりに深刻な報道だった。
「大丈夫さ、所詮経済はお金にしか過ぎない。モノなんて、健康さえあればどうにでもなる。でも君は⋯⋯」
菖蒲はゆっくりと圭吾の腕を離すとヒールを外し、狭い玄関に入り込み廊下を抜け、リビング絨毯へ足を進めた。
「私を見る?」菖蒲は後ろについて来ていた圭吾に振り返ってそう言った。意表をつかれた圭吾は「えっ」と驚いた。
「馬鹿ね、勘違いしないで、私の肌を見て」
菖蒲は蒼いセーターを脱ぎ、半袖のブラウスから二の腕を見せ、以前とはまるで違う血色の良い艶のある健康そうな肉付きを圭吾に差し示した。
「治っちゃった」
「えっ、病気、の事?」
「そう、世界が開放されて何もかも変わってしまったの。私のあの病気は内の世界での病気。もう今のこの外の世界では病気でもなんでもなくなってしまったの」
菖蒲は、子供が自分の身体の自由を楽しむ様に、圭吾の前で一回転した。圭吾は、ハツラツとした菖蒲の動きに見惚れて言った。
「そうなんだ。菖蒲の病気は内の世界での病気だったので、もう今の外の世界での君は病気ではなくなってしまった。つまり経済は破綻したけど、代わりに世界や君は健康になったって事?」
菖蒲は、圭吾の前ではほどんど履かなかった短めのスカートから少しひざ上を出した。
圭吾は腕よりも健康的で綺麗な白い膝頭を見ながら言った。
「と、言う事は⋯⋯これからは薬もいらないし治療も必要ない、君はもう⋯⋯」
「あなたとずっと生きられる」
「⋯⋯菖蒲、僕と生きてくれるのか?」
「もちろん、これからの私のやるべきことは、あなたと生きる事」
菖蒲を再び強く抱きしめ、圭吾は飛び上がらんばかりに嬉しくはあったが、ふと彼女の言った言葉に疑問を持った。
「ところで⋯⋯その、内と外っていったい何の話?」
菖蒲は、圭吾に自分のほほを優しく合わせながら言った。
「大丈夫よ。この世界のすべてを。今までの全部をゆっくりと時間をかけて説明する。これからいくらでも時間があるんですもの。それに、あなたならすぐにわかるわ。だって私があなたを『運命』で選んだんですもの」
完
あとがき
表題の発想は、サラリーマン時代に経験した自家用車での遠距離通勤にあった。元々妄想好きの私は、安全な高速道路の飽き飽きと繰り返される通勤時間より、疲労は溜まるが、一般道路で安全な範囲での通勤時間の競争を楽しむ場合も多く、その時にこの自家用車に何か相手を倒す装備でもあれば⋯⋯と考えたのが発端だったと思う。もちろん危険な運転をして先を争う事はほとんど無かったが、性能の良い乗用車が強力な加速で横をすり抜けて行く有様に自分は魅せられていた様だ。
筆を進めて行くうちに、個人の戦いが世界との闘い、そして、支配者との闘いへと様相が変えられて行き、最終的には表と裏、表裏一体の謎解きが内と外と言う言葉の置き換えられ、すべてが解放されると言う結末にたどり着かせられる。
私達の現実の世界は正しく、確かに現実にしか過ぎないが、妄想として、もしこれが現実でなければ、どこに本当の世界があるのだろう?と言う提案も、もたらしたつもりだ。
現実だと思っている事が実は現実では無かった。となると、私達もそれから解放される必要があるのではないだろうか?当たり前の事が実は当たり前ではない。この妄想は少し危険な発想なのかも知れないが、人には真実を求める性質があるから、この疑問を払拭する事は出来ない。
果たして、今が現実ではないとすれば、どこかで桜見が私達の為、命をかけて走っているのかも知れない。激走通勤戦線にはそんなテーマも織り込ませられてある。作品を最後までお読み下さって、ありがとうございました。
