弟ポジ #番外編 〜待ちに待った〜
春の休日。穏やかな陽射しが街路樹の新緑を照らしていた。
駅前の広場で時計を見る。待ち合わせの十分前。教師になってから時間にはさらに厳しくなった気がする。
ふと、人混みの向こうから帽子とマスク姿の女性が手を振った。
咲:お待たせ。
◯:いや、今来たところです。
マスク越しでも分かる柔らかな笑顔。
付き合い始めて一週間。まだまだ「彼女」という存在はどこか現実味を帯びていなかった。
咲:今日は変装、こんな感じで大丈夫かなぁ?
◯:全然分からないですよ。
咲:それならよかった。

卒業したとはいえ、街を歩けば気付かれることも少なくない。だから今日は人通りの多い繁華街ではなく、少し離れた落ち着いたエリアを選んでいた。
二人で並んで歩き始める。以前と同じ道幅なのに、距離感だけが少し違う。隣にいる理由が、「和の友達」ではなく「恋人」になった。それだけで、不思議なくらい意識してしまう。
咲:……
◯:……
沈黙。気まずいわけではない。ただ、お互い少し照れているだけだった。
咲月が小さく笑った。
咲:なんかさ。
◯:はい?
咲:付き合う前の方が普通に話せてた気がする。
◯:それ、俺も思ってました。
二人で吹き出す。
咲:なんでだろうね。
◯:肩書きが変わったからですかね。
咲:肩書きって。

また笑う。ようやく少しだけ力が抜けた。
*
大型ショッピングモールへ着いた。特に目的は決めていない。服を見たり、本屋へ寄ったり、雑貨屋をのぞいたり。
大人同士だから騒がしくはない。
咲:これ、◯◯に似合いそう。
◯:咲月さんはなんでも似合うなぁ。さすが。
そんな穏やかな会話が続く。
ある雑貨店。学校で使えそうな文房具を手に取る◯◯。
咲:あっ、仕事モードだ。
◯:つい、文房具コーナー見ちゃうんですよ。
咲:先生らしい。
咲月はくすっと笑う。その笑顔を見ているだけで嬉しい。
途中、カフェで休憩。コーヒーを飲みながら他愛ない話をする。卒業ライブの裏話、学校で起きた面白い出来事。話は尽きない。
咲:こういう普通のデート、ちょっと憧れてた。

◯:普通ですか?
咲:うん。アイドル時代は、人前で恋人と歩くなんて想像もできなかったから。
そう言って外を見る。普通に並んで歩ける、それだけで幸せだった。
◯:じゃあ今日は思いっきり普通を楽しみましょう。
咲:ふふ、それいいね。
*
モールを出ると、そろそろ日が陰りかけてきていた。
咲:ねぇ、このあと何食べる?
◯:結構何でもいけそうな感じですね。咲月さんは?
咲:ん〜、ここはやっぱり焼肉とか?
◯◯は一瞬止まり、思わず吹き出した。二人の間での焼肉は、やっぱり特別な思い出がある。
店員に案内され、個室へ入ると、咲月が席を見比べて首を傾げた。向かい合わせに座ろうとしていた◯◯を止める。
咲:ねぇ、今日は…
◯:?
咲:こっちかな!
自分の隣をぽんぽんと叩く。
◯:え?
咲:恋人なんだから、隣、座ってほしいな!

少し照れながら笑う。その一言だけで鼓動が少し速くなる。
◯:……分かりました。
隣へ腰を下ろす。距離が近い。肩が少し触れそうなくらい近い。付き合う前なら考えられなかった距離だった。
注文を終え、肉が運ばれてくる。咲月がトングを手に取った。
咲:今日は私が焼いてあげる!
◯:え、大丈夫ですか?
咲:失礼だなぁ!
◯:だって前科が…
咲:あれはお話に夢中になっちゃっただけ!
そう言いながら肉を並べていく。ジュウッという音とともに香ばしい匂いが広がる。
咲:はいどーぞ!
焼き上がった肉をそのまま◯◯の皿へ乗せる。
◯:ありがとうございます…ん!美味しい!
咲:でしょ?さちさん印!

得意げに胸を張る。その表情がおかしくて笑ってしまう。
咲:何よ〜?
◯:いえ。
咲:絶対何か思ったでしょ。
◯:いや、本当に。
笑いながら首を振る。こうして他愛ないことで笑える時間が、何より幸せだった。
しばらく食べ進めた頃、咲月がふと思い出したように口を開く。
咲:こうしてると、八年前の焼肉を思い出すね。
◯:……そうですね。
忘れられるはずがない。人生で一番緊張した食事だった。
咲:あの時の◯◯くん、ずっとお肉の味、分かってなかったでしょ。
図星だった。
◯:……はい。
咲月は声を上げて笑う。
咲:やっぱり。
◯:そりゃ、一目惚れした人と二人で食事なんですもん。緊張しますよ。
咲:あはは、そうだよね。
少し笑ったあと、表情が柔らかくなる。
咲:…ごめんね。

◯:?
咲:あの時は。
◯◯は首を横に振る。
◯:謝らないでください。あの返事があったから、今があると思ってます。
あの時付き合っていたら、お互い夢を追い切れなかったかもしれない。だから今、こうして笑っていられる。
咲月は静かに頷いた。
咲:うん、ありがとう。
その「ありがとう」は、もう別れの言葉ではなかった。
*
店を出ると、春風が心地よく吹いていた。川沿いの遊歩道をゆっくり歩く。休日らしい穏やかな景色。
すると、咲月が何気なく腕を組んできた。
◯:!
手をつないだ時よりもダイレクトに彼女を感じ、思わず固まる。
咲:……
◯:……
咲:…ふふ、固まり過ぎじゃない?
◯:いや、その…
咲:恋人なのに?

少し意地悪そうに笑う。
◯:まだ慣れなくて。
咲月はくすっと笑った。
咲:…実は、私も。
そう言うと、組んだ腕をさらに引き寄せる。
咲:だから一緒に慣れていこうね。
その一言が、春風よりずっと優しかった。
少し歩いたところで、咲月がスマホを取り出す。周囲を確認し、人が少ないことを確かめてから小さく笑う。
咲:今日の記念に一枚だけ。
◯:写真ですか?
咲:うん。
恋人になって初めての写真。肩を寄せ合い、スマホを構える。
咲:いくよ。
◯:はい。
カシャッ。

画面には、少し照れた二人が映っていた。
咲:ふふ。
◯:いい写真ですね。
咲:うん。
大切そうに画面を見つめながら、小さく呟く。
咲:これからは、こういう写真をいっぱい増やしていこうね。

◯:はい。
その返事だけで十分だった。
遠回りした八年間。夢を追いかけた時間も、待ち続けた時間も、全部無駄ではなかった。
春の空の下。二人はゆっくりと歩き続ける。今度はもう、同じ未来を見つめながら。
