弟ポジ #05
休日にしては珍しく、和が実家へ帰ってきていた。リビングで母さんと他愛もない話をしながらお菓子をつまみ、俺はテーブルで大学の課題を進めている。家の中には穏やかな空気が流れていた。
和:あっ、そういえばさ。
不意に和がこちらを向く。
和:今度ライブあるけど来る?
ペンを動かしていた手が止まった。
ライブ。
つまり、和だけじゃない。
……咲月もいる。
胸の奥が高鳴るのがわかった。
◯:あ〜……
カレンダーなんか見ながら、なるべく考えているような間を作る。
◯:じゃあ、行こっかな。
和:おっ、珍しいじゃん。いつもは「暇だったらな」とかなのに。
◯:…たまには。
和:了解〜。じゃあ席取っとくね。

◯:よろしく。
それだけの会話だった。俺は何事もなかったように課題へ視線を戻す。
けれど、もはやノートに書かれた文字は頭に入ってこなかった。
(……会える。)
その事実だけで、少しだけ気持ちが浮ついていた。
*
なんだか落ち着かない日々はすぐに過ぎて、ライブ当日。会場へ近づくにつれて、人の波が増えていく。
グッズを身につけた人たち。写真を撮り合う人たち。聞こえてくる楽しそうな声。
何度か姉に誘われて家族で来たことはある。でも今日は、今までとは少しだけ景色が違って見えた。
席に座ってステージを眺めていると、間もなく照明が落ち、ナレーションが流れ始めた。会場中を包む歓声。その熱気に押されるように、鼓動も少し速くなった。
そして、音楽とともにメンバーが姿を現す。
自然と和を探す。すぐに見つかった。姉はいつも通り、ステージの上で堂々と笑っている。
……なのに。
気づけば、その隣に目をやっていた。
咲月。

家で会った時とはまるで違う。スポットライトを浴びながら歌い、踊り、観客へ笑顔を届けている。
あの時は親しみやすい女の子だった。でも今は、誰かの憧れになるために立つ、一人のアイドルだった。
(……すごいな。)
テレビでは何度も見てきた。それなのに、生で見る姿はまるで違う。
一つ一つの表情が輝いて見えた。
曲が終わるたび、自然と拍手を送っている自分がいた。
*
ライブも中盤に差し掛かり、メンバーが客席へ手を振りながら歩いてくる演出があった。
歓声がさらに大きくなる。
俺も何となくステージを見上げていた。
その時だった。
咲月の視線が、こちらへ向く。一瞬だけ、本当に一瞬だけ目が合った。
咲:あっ!!
そんな表情をした気がした。
次の瞬間。咲月がふわっと笑う。そして、大きく手を振った。

◯:(……え!?)
頭が真っ白になる。
俺の後ろの人へ振ったのかもしれない。
隣かもしれない。
そう思おうとした。
でも。
咲月はもう一度だけこちらを見て、軽く頷くように笑った。
そのまま次の方向へ歩いていく。ほんの数秒。それだけだった。でも胸の鼓動は、しばらく元に戻らなかった。
(……覚えててくれたんだ…)
和の弟。きっと、それだけだ。特別な意味なんて何一つない。
それでも、あの日、家で会ったことを覚えていてくれた。その事実だけで十分だった。
ライブが続いている。歌もダンスも変わらず素晴らしい。なのに俺は、さっきの数秒を何度も思い返してしまっていた。
*
終演後。人の流れに合わせて駅へ向かく。周りではライブの感想を楽しそうに話す声が飛び交っていた。
「今日のあの曲よかったね。」
「最後の演出泣いた。」
そんな会話を聞きながら歩く。
俺の頭の中では、別の映像が何度も再生されていた。
ステージ、照明、歌声。そして。
目が合った瞬間。咲月の笑顔。小さく振ってくれた手。

ただ、それだけ。それだけなのに、思い出すたびに顔が緩んでしまう。
自分でも単純だと思う。でも、その気持ちはどうにもならなかった。
*
家へ帰り、風呂を済ませて部屋へ戻る。
ベッドへ腰を下ろしたところで、スマホが震えた。通知には見慣れた名前。咲月からのトークだった。
咲M:今日はライブありがとうございました〜!いっぱい声届いてたよ!
写真が添えられている。ライブ衣装のまま、満面の笑みでピースをする咲月。
◯:(……今日会ったばっかりなのに。)
思わず笑ってしまう。
もちろん、このメッセージは俺だけに送られたものじゃない。ファンみんなへ向けたものだ。
分かっている。
ちゃんと分かっている。
それでも、今日のライブを思い出しながら見るその一枚は、昼間とは少し違って見えた。
スマホを置いて、天井を見上げる。
リビングで初めて会った日、食卓で笑っていた姿。
「先生向いてそう。」
「応援してる。」
そして今日、ステージの上で見せた笑顔。
目が合った瞬間、小さく手を振ってくれたこと。
一つ一つの記憶が自然とつながっていく。
好きなのか。恋なのか。そんなことは、まだ分からない。
でも、一つだけ、はっきりしたことがあった。
◯:(……また、会いたい。)
また話したい。また笑っているところを見たい。その願いはもう、「少し気になる」では説明できないくらい大きくなっていた。
あの日、何気なく開いた家のドア。
あの瞬間から始まったこの気持ちは、もう止めようと思って止まるものではなかった。
