弟ポジ #17
夜になっても、咲月はなかなか眠れなかった。
部屋の明かりを消えたあとも、天井をぼんやり見つめたまま、何度も寝返りを打つ。静かな部屋に聞こえるのは、時計の針が進む音だけだった。
目を閉じるたびに浮かんでくるのは、今日の出来事だった。
◯:「自分の言葉で誰かが笑ってくれるなら。それが好きな人なら、なおさら嬉しいです。」
あの穏やかな笑顔と声が、何度も頭の中で繰り返される。
咲:(……)

三年前なら、迷わなかった。夢を追いかけたい。恋愛はできない。その気持ちに迷いはなかったから、「ごめんね」と伝えることができた。
でも今日は違う。その言葉が、最初に思い浮かぶことはなかった。
どうしてなんだろう。その答えを探すように、咲月はゆっくり目を閉じた。
思い浮かぶのは、◯◯との思い出ばかりだった。
初めて家庭教師をしている姿を見た日。
勉強を教えるだけではなく、晃菜の表情を見ながら、一つひとつ言葉を選んでいた姿。
焼肉を食べながら夢を語っていた夜。
教師になりたい理由を、少し照れくさそうに、それでも真っ直ぐ話していた横顔。
文化祭で再会した日。
生徒たちの輪の中で笑いながら、一人ひとりへ声を掛けていた姿。
そして今日。自分の「ありがとう」を、本当に嬉しそうに受け取ってくれた笑顔。
咲:(……変わってない。)
三年という時間が流れた。大学生活を経て、教育実習をして、少し大人になった。
それでも、あの人の根っこは何も変わっていない。夢も、誰かと向き合う優しさも、人の成長を心から喜べるところも。
気付けば、自然と口元が緩んでいた。その瞬間、咲月は小さく息を飲んだ。
咲:(……あ。)
どうして文化祭で会えたことが嬉しかったのか。
どうして真っ先に報告したいと思ったのか。
どうして今日、再び「ごめんね」という気持ちにならなかったのか。
全部、一つの答えにつながっていた。
咲:(私……)
少しだけ照れくさくて、少しだけ怖い。それでも、もう誤魔化せなかった。
咲:(好きなんだ。)

静かな部屋で、小さく心の中だけで呟く。その言葉は、不思議なくらい胸にすっと馴染んだ。
ようやく、自分の気持ちに名前を付けることができた気がした。けれど、その温かさと同時に、現実も浮かび上がる。
ライブ。
レッスン。
ツアー。
キャプテンとして背負う責任。
まだ自分には、やるべきことがたくさんある。
咲:(……やっぱり今は付き合えない。)
その気持ちも、同じくらい本当だった。
中途半端な返事はしたくない。待っていてほしい、と軽く言えることでもない。
だから今は、この想いを胸にしまっておこう。そう決めると、不思議と心は少しだけ落ち着いていた。
*
翌日、仕事の合間、控室でようやく一息ついたところで、和がペットボトルを片手に隣へ座った。
和:昨日からずっと考え事してるよね。
咲:……そんなに分かる?エスパー?
和:ふふ、分かるよ。
和は笑いながら頷く。
和:私とさっちゃんだよ?長い付き合いじゃない。

その一言に、咲月も思わず笑ってしまう。
少しだけ沈黙が流れた。やがて咲月は、小さく息を吸った。
咲:……ねぇ、和。
和:うん?
咲:私ね…
膝の上で手を握る。ほんの少し震えていた。
咲:◯◯くんのこと……
言葉が止まる。照れくさくて、でも逃げたくなくて。
咲:好きなのかもしれない。
和は一瞬だけ目を丸くした。けれど驚いた表情はすぐに笑顔へ変わる。
和:やーっと気付いたかぁ。
咲:えっ?
和:私は結構前から、そうなる気がしてた。
咲:そんなに分かりやすかった?

和:うん。
即答だった。
和:文化祭終わってから、◯◯の話ばっかりだったし。
咲:……そんなに?
和:そんなに。
二人で顔を見合わせ、思わず笑ってしまう。
笑いが落ち着くと、咲月は少し真面目な表情になった。
咲:でもね。
和:うん。
咲:やっぱり今は付き合えない。
その声に迷いはなかった。
咲:キャプテンになったばかりだし、まだやることがいっぱいある。
少し視線を落とす。
咲:中途半端な気持ちで返事したくない。ちゃんと今の乃木坂をやり切って、その上で伝えたい。
和は何も急かさなかった。静かに頷くだけだった。
和:それでいいと思う。
咲:……うん。
和:◯◯なら、きっと分かってくれるよ。

その言葉に、胸の奥が少しだけ温かくなる。
咲月はゆっくり笑った。
咲:もし、その時もまだ好きだったら…今度は私から、ちゃんと伝える。
その表情には、昨日までの迷いはもうなかった。和も安心したように笑う。
和:その時は、ちゃんと応援する。
咲:ありがとう。
三年前には想像もしていなかった未来が、少しだけ現実味を帯びて見えた。
*
その夜。仕事を終えて帰宅すると、咲月は机の上に置いたスマホを手に取った。
LINEを開く。画面を下へスクロールしていくと、三年前から残ったままのトーク画面が現れる。
指先でそっと開いた。この前は「ありがとう」を送ろうとして閉じた画面。
今日は違う。画面を見つめながら、小さく笑みがこぼれる。
咲:(今じゃない。)
送るべき言葉は、もう決まっている。でも、それは今日ではない。
スマホを静かに閉じ、窓の外へ目を向ける。夜空には、いくつもの星が瞬いていた。
咲:(卒業したら。)
その言葉を胸の中で繰り返す。
咲:(その時は。)
少しだけ照れながら、小さく笑う。
咲:(ちゃんと私から伝えよう。)

三年前、自分は「ありがとう」と「ごめんね」を伝えた。
次に伝える言葉は、もう決まっている。
その日が来るまで、今は自分の夢を最後まで走り抜こう。
そう心に決めると、不思議なくらい心は軽くなっていた。
咲月は静かに明かりを消した。
明日からも、前を向いて歩いていこう。その先に、もう一度想いを伝える日があると信じて。
