弟ポジ #06
七月に入り、大学は前期の終盤を迎えていた。
レポートに追われ、模擬授業の準備に追われ、気づけば夏休みまであと少し。教職課程を取っている学生にとっては、一番慌ただしい時期でもある。
そんな休日の午後。和から「実家帰るね」と連絡があり、その数時間後には聞き慣れたインターホンの音が鳴った。
和:ただいまー!
咲:お邪魔しまーす!
リビングへ入ってきた咲月と目が合う。
あの日のように頭が真っ白になることは、もうなかった。もちろん緊張はする。それでも。
◯:あ…こんにちは。
ちゃんと声が出た。
咲:こんにちは!この前のライブ、ありがとね!!

前と変わらない、人懐っこい笑顔。その笑顔を見るだけで胸は少し騒ぐけれど、それでも前より自然に向き合えている気がした。
和:おっ、今日はちゃんと喋れてるじゃん。
和が面白そうに俺を見る。
◯:…うるさい。
咲月がくすくすと笑う。その一言だけで、部屋の空気が柔らかくなった。
夕方まで四人で他愛ない話をしながら過ごした。母さんと咲月はテレビの話で盛り上がり、和は相変わらず自由気まま。俺も時々会話に混ざりながら、その時間を静かに楽しんでいた。
*
ひと段落して、お茶を飲んでいる時だった。
咲:あれ?
リビングのテーブルに積まれていた資料を咲月が手に取る。教科書、プリント、指導案、書き込みだらけのノート。午前中まで課題をやっていて、そのまま片付けるのを忘れていたものだった。
咲:◯◯くん、これ何?
◯:あ、えっと、大学の課題。来週、教職課程の模擬授業があって。
咲:模擬授業?
◯:実際に授業をしてみる練習。
咲:へぇー!
興味津々で指導案を眺めている。和も身を乗り出した。
和:え、すご。
咲:こんなの作るんだね〜。
◯:うん、授業の流れとか生徒に質問するポイントとか、全部考える。
和:先生って大変なんだ〜。

◯:本物の先生はもっと大変だと思う。
咲:すごいなぁ……
感心したように資料を見つめる咲月。その横で、和が急ににやっと笑った。
和:じゃあさ。
◯:ん?
和:練習すれば?私たち生徒やってあげる!
◯:いや、一人でやる予定だったし…
咲:えっ、やりたい!楽しそう!
和:ほら、二対一の方が練習になるじゃん。
◯:いやでも……
和:決まり!ドラマにも出たことがある私たちに任せなさい!

半ば強引に教科書を渡される。なんだか盛り上がってしまって、断れる空気ではなかった。
◯:(……まぁ、確かに練習にはなるか。)
苦笑しながら教科書を開いた。
*
ダイニングテーブルが、そのまま教室になった。和と咲月が並んで座り、俺は向かいに立つ。
少し照れくさい。けれど教科書を開いた瞬間、不思議と気持ちが切り替わった。
◯:じゃあ…授業を始めます。
咲:きりーつ!礼!着席!!
頼んでもないのに日直をやってくれる。このノリの良さはバラエティ番組の賜物だろうか。
◯:…では、今日は、この場面で主人公がなぜ笑ったのかを考えてみます。
和:先生〜。
◯:はい、井上さん。
和:眠いです。

◯:……寝ないでください。
和:無理〜
咲月が吹き出した。
咲:まだ始まったばっかりだよ!
和:授業って眠くなるじゃん。
◯:やる気がないなら立っててください。
和:えー。やだ。やる。
ため息をつきながら教科書を開く。その様子に、俺も思わず笑ってしまった。
◯:じゃあ気を取り直して。
本文を読み進める。
◯:この主人公は、どうしてここで笑ったと思いますか?
和:知らなーい。
◯:少しは考えてください。
和:先生が教えてよ〜。
◯:それじゃ授業になりません。
和:けち。
◯:国語は考える教科です。
和:作者に聞けばいいじゃん。
◯:それを言ったら終わり。
咲月がまた笑う。和は完全に問題児だった。
一方で、咲月は真面目に教科書を読み返し、鉛筆で線を引いている。
咲:先生!
◯:はい、菅原さん。
咲:私は、安心したから笑ったんだと思います。

◯:なるほど。
すぐに正解か不正解かは言わない。
◯:どうしてそう思ったの?
咲:この前まで暗い表情だったのに、ここで初めて笑ってるから。
◯:うん。じゃあ、その前の場面ではどんな気持ちだった?
咲:えっと……
ページを戻り、少し考え込む。
◯:焦らなくて大丈夫。前の場面とつなげてみると見えてくるかも。
咲:あ……
しばらく文章を見つめたあと、顔を上げた。
咲:安心したっていうより……我慢してたものがなくなったのかな。
◯:うん。その方が近いと思う。
自然と笑みがこぼれる。
咲:そっか!
嬉しそうに頷く。その横で和がぼそっと呟いた。
和:◯◯、なんか本当に先生みたいだね。
◯:だから目指してるんだって。
和:いや、なんか実感した。
よくわからないが、そこから問題児も少し大人しくなった。
*
気づけばすぐに四十分近く経っていた。
和:疲れたー!
大きく伸びをする。
◯:なんで生徒がそんな疲れてんの…
和:考えるの疲れるじゃん。
咲:でも楽しかった!高校生に戻ったみたい!

咲月は満足そうに笑っている。
咲:◯◯くんって、教えてる時全然違うね。
◯:そう?
咲:うん。さっきまで普通だったのに、授業始まったら急に先生になってた。
和:確かに。
そう言われると少し照れくさい。
◯:別に意識してるわけじゃないけど。
咲:でも、ちょっと不思議だったんだけどさ。
少し首を傾げながら続ける。
咲:全然答え教えてくれないよね。
和:そうそう。すぐ教えてくれれば楽なのに。
◯:まぁ、その方が早いのかもだけどね。
少しだけ考える。自分でも、なぜ教師になりたいのか。その理由は昔から変わらない。
◯:でも、それじゃ考えなくなるから。
二人は静かに聞いている。
◯:家庭教師やってても思うんだけど、自分で「あっ、分かった」って顔をする瞬間が一番伸びるんだ。
言い終えると、少し照れくさくなった。
和:おー!先生っぽいこと言ってる!

◯:うるさいなぁ。
和は笑う。その隣で、咲月は少しだけ真面目な表情をしていた。
咲:……なんか分かる気がする。
その一言が、なぜか嬉しかった。
*
夜になり、咲月が帰る時間になった。玄関で靴を履きながら振り返る。
咲:今日はありがとう!お邪魔しました!
◯:こちらこそ。付き合ってくれてありがとうございました。
咲:すごく楽しかった!
そして、少しだけ照れたように笑う。
咲:◯◯くんが先生になりたい理由、ちょっと分かった気がする。
思わず目を見開く。
◯:……ほんと?
咲:うん。きっといい先生になれるよ!

そう言い残して、和と一緒に家を出ていった。
ライブで手を振ってもらえた時も嬉しかった。でも今日の嬉しさは、それとは少し違っていた。
アイドルの菅原咲月じゃなく、一人の人として、自分を見てもらえた気がしたから。
その小さな実感が、胸の奥で静かに温かさを残し続けていた。
