弟ポジ #02
にぎやかなリビングの中で一人だけ凝り固まっていた空気は、母さんの「ご飯できたよ」の一言で少しだけ和らいだ。ダイニングには四人分の食器が並び、湯気の立つ料理が次々と運ばれてくる。
菅原さん…いや、さっき和が「さっちゃん」と呼んでいたから、頭の中では自然とその呼び方になっていた。
向かいの席に座った彼女は、さっきと変わらない笑顔で手を合わせる。
咲:いただきます!
和:いただきまーす。
母:いっぱい作ったから、遠慮しないで食べてね。
咲:わぁ、美味しそうです!
目を輝かせる咲月を見て、母さんも自然と頬が緩む。
母:咲月ちゃんは初めましてよね。
咲:初めまして!今日はお邪魔してます!
母:和がいつもお世話になって、ありがとう。
咲:いえいえ!私の方こそです!

和:お母さん、保護者面談みたいじゃん。
母:あら、本当ね。
三人で笑い声が重なる。さっきまで初対面の緊張があったはずなのに、不思議ともう馴染んでいた。
母:テレビで見てるまんまね。
咲:えっ、本当ですか?
母:うん、すごく元気で明るくて。周りも明るくなったみたい。
咲:元気だけが取り柄なので!
和:いや、それだけじゃないでしょ。
咲:えへへ。
本当によく笑う。テレビでも明るい印象はあった。でも、実際に会うとそれ以上だった。
誰かが話せば楽しそうに笑い、誰かが笑えば一緒に笑う。部屋の空気が自然と柔らかくなる。そんな人だった。
俺は黙ったまま箸を動かす。別に会話に入りたくないわけじゃない。……入れないだけだ。
視線を上げるたびに咲月がいる。それだけで落ち着かなかった。
しばらく母さんと和の話が続いたあと、不意に咲月がこちらを向いた。
咲:そういえば◯◯くんって大学一年生なんだよね?

一瞬、心臓が止まりそうになる。
◯:あ、はい。
咲:大学生活どう?
◯:……まぁ、普通です。
和:普通って何よ。
母:ふふっ。
咲月も口元を押さえながら笑う。
咲:なんか面白!
◯:いや……
咲:もしかして緊張してる?
◯:し、してませんよ。
食い気味に返してしまった。
和:してるじゃん。

母:顔真っ赤よ。
◯:赤くないって。
三人がまた笑う。完全に遊ばれている。なのに、不思議と嫌じゃなかった。
咲月は俺をからかっているわけではない。ただ純粋に楽しそうに笑っているだけだ。その笑顔を見るたびに、胸の奥が少しずつ落ち着かなくなっていく。
和:この子ね、先生目指してるんだよ。
◯:ね、姉ちゃん!
なんとなく、自分の夢や目標を聞かれるのが恥ずかしかった。友人たちに言う分には何も感じなかったのに。
咲:えっ、そうなの!?
咲月の目がぱっと輝く。
咲:すごい!!
◯:いや、まだ目指してるだけなんで…
咲:何の先生になるの?
◯:国語です。
咲:へぇ〜、国語かぁ。
少し考えるように首を傾げる。
咲:いいなぁ。私、勉強あんまりだけど、国語だけはちょっと好きだったんだよね。
◯:そうなんですか?
咲:うん。でも教えるのは絶対無理。
和:分かる~。作者の気持ちなんてわかんない。
咲:だよね!?

二人が笑い合う。
咲:人に教えられる人って尊敬するなぁ。
◯:そんな大したことじゃ……
咲:いやいや、大したことだよ。
その言葉には、お世辞っぽさがなかった。まっすぐ俺を見て、本当にそう思っているような言い方だった。その視線に耐えられなくて、思わず目を逸らす。
和:でもね、この子真面目すぎるんだよ。小さい頃、本屋行くと全然帰ってこないの。
咲:えー!
和:迎えに行ったら辞書読んでたし。
咲:辞書!?
和:漢字辞典。読むもんじゃないよね。
咲月が吹き出した。
咲:あっはっは!可愛い~!
◯:……
和:読書感想文も毎年やたら長かったし。
◯:やめろって。
和:夏休み最後まで書かない私と違って、この子はすぐ終わらせてた。
咲:すごいじゃん!
和:真面目なんだよ。
咲:先生向いてそうだね~。

またその言葉。照れくさいはずなのに、少しだけ嬉しかった。
*
食事を終え、母さんが食器を片付け始める。和も手伝いにキッチンへ向かい、リビングには俺と咲月だけが残った。
妙に静かだ。テレビの音だけが流れている。
咲:家庭教師もしてるんだって?
◯:はい。
咲:すごいなぁ。
◯:でもアルバイトですから。
咲:でも、人に勉強教えるって難しそう。
◯:まぁ……簡単ではないですね。
咲:私、人に教えるの苦手だから尊敬する。
その言葉を聞いて、自然と顔を上げた。咲月はさっきと同じ笑顔でこちらを見ていた。
咲:じゃあ先生になったら教えてね。
◯:えっ?
咲:応援してる!

その一言が、胸の奥にすっと落ちた。
たったそれだけ。深い意味なんてない。社交辞令なのかもしれない。それでも、その笑顔ごと、心のどこかにしまい込んでおきたいと思ってしまった。
しばらくして、咲月は帰っていった。玄関のドアが閉まり、さっきまで賑やかだった家が急に静かになる。
和:◯◯。
◯:…なに?
和:今日、全然喋ってなかったじゃん。
◯:…喋ったよ。
和:二、三言でしょ。
◯:…初対面だし。
和:さっちゃん優しかったじゃん。
◯:……うん。
和:人見知り発動してたねぇ。

楽しそうに笑う和。そこに深い意味はない。ただ、少し照れ屋な弟を面白がっているだけだ。俺もそれ以上は何も言わなかった。
*
その夜。
風呂に入っても。
シャンプーを流している時も。
ドライヤーで髪を乾かしていても。
気づけば思い出してしまう。
咲:「先生になったら教えてね。」
咲:「応援してる!」
たった数時間前。
たった数回交わした会話。
それなのに。
あの笑顔だけが、何度も頭に浮かんでくる。
布団へ入り、目を閉じる。それでもまだ浮かんでくる。
◯:(……また笑ってる。)
自分でもおかしくなって、小さく笑ってしまう。
……変だな。
こんなこと、今までなかった。
自分でも理由は分からない。ただ一つ分かるのは、今日という日は簡単には忘れられそうにないということだった。
