弟ポジ #01
六月の午後。
講義が終わると同時に、教室のあちこちで椅子を引く音が鳴った。学生たちは次の授業へ向かう者、帰宅する者、友人との予定へ向かう者と、それぞれ散っていく。
俺もノートを閉じ、鞄へ放り込む。隣の席の友人が伸びをしながら声をかけてきた。
友:そういや教職課程のレポートどうだった?
◯:昨日やっと出した。
友:やっぱ大変そうだな。
◯:まぁな。
友:そこまでして先生なりたいの?
◯:なりたいよ。
友:へぇ。
少し意外そうな顔をされる。
別に不思議なことではないと思うのだが、大学に入ると教師志望は案外少ない。教職課程を取っているだけで真面目扱いされることもある。
国語教師になる。それは、小学生の頃から一度も変わっていない夢だった。
友:俺なら無理だわ〜。
◯:そうか?
友:生徒三十人相手とか絶対無理。
◯:俺もまだ無理だと思う。
友:じゃあなんで目指してんだよ?
◯:だから勉強してんだろ。
友:それもそうか。
友人は笑いながら肩を叩いてきた。俺も苦笑しながら教室を後にする。
*
大学を出て駅へ向かう途中、大きな広告が目に入った。
友:あ、あれ。
視線の先には駅構内に掲げられた、化粧品の広告。モデルは乃木坂46の井上和だった。

◯:ああ…
友:もう慣れた?
◯:まぁ、ようやくな。
なぜこんなことを言ってくるのかというと、井上和は俺の実の姉だからだ。五期生として加入し、あっという間に世間に知られていった。
別に隠しているわけではない。ただ、自分から言いふらすこともない。知っているのは本当に仲の良い友人だけだ。
友:俺だったら毎回写真撮るけどな~。
◯:やらねーよ。
そんなことを言いながら、俺は改めて広告を見上げる。
姉が入ったからといって、それほど乃木坂46を追いかけているわけではない。姉が出るテレビはたまに見るし、ライブに誘われれば行く。その程度だ。
友:じゃあ俺こっちな。
◯:おう。
友人と別れ、俺はバイトの家庭教師先へ向かう。お金を稼ぐことはもとより、将来のためにも自分にとって大切な時間だった。
*
机に向かって並んで座る晃菜ちゃんが、問題集を見ながら唸っている。
晃:先生…これ作者しか分からなくないですか?

◯:どれ?
晃:この、作者の気持ちってやつ。
問題文を覗き込む。小説の読解問題だ。
◯:じゃあ晃菜ちゃんはどう思った?
晃:またそれ〜?
◯:またこれ。
晃:答え教えてくださいよ〜。
◯:すぐに教えたら俺がいる意味ないでしょ。
晃:ケチ〜。
晃菜ちゃんが頬を膨らませる。だが、こういうやり取りはいつものことだった。国語は答えを覚える科目じゃない。どう考えたのかが大事だ。
◯:じゃあさ、この前の部分の文章覚えてる?
晃:うん。
◯:主人公ってどんな性格だった?
晃:優しい人。
◯:じゃあ優しい人がこういう場面で何を思うかな。
晃:あ〜……
少しずつ表情が変わる。考え始めた証拠だ。
数分後。
晃:分かったかも!
そう言って解答用紙にシャーペンを走らせる。
晃:こうじゃないですか?
◯:…うん、いいと思う。
晃:やった!

嬉しそうな顔。教師にとっても、一番嬉しい瞬間だ。
ちょうどここで授業が終わり、問題集を閉じた。
晃:先生って、ホント、教えてる時楽しそうですよね。
不意打ちだった。思わず苦笑する。
◯:そう見える?
晃:見える。生き生きしてる。
◯:なんか恥ずかしいな。
晃:絶対先生向いてると思います。
◯:はは、ありがとう。
晃:じゃあなれたら教えてくださいね。
◯:まだまだ先だよ。
笑い合いながら荷物をまとめる。
先生。そう呼ばれるたびに、少しだけ背筋が伸びる。まだ大学一年生だけど、いつか本当にそう呼ばれる日が来たらいいと思う。
*
家に着いた頃には、空は少し赤くなり始めていた。
◯:ただいま〜。
玄関を開け、靴を脱ぎながら声をかける。
和:おっ、おかえり〜!
リビングから聞こえてきた声に、自然と足が向く。ソファに座った姉は、家では完全に普通の姉だった。テレビの中のキラキラしたアイドルとは別人である。
◯:姉ちゃん、帰ってたんだ。
普段は都内で一人暮らしの姉だが、実家が恋しいのか、こうやって頻繁に帰ってくる。
和:なんだよ〜、もっと嬉しそうにしろよ、弟よ!

ほっぺたを膨らませて、すぐに笑う。
和:今日テレビ見た?
◯:見てない。
和:見なさいよ!
◯:母さんたちが録画してるからそのうち見るよ。
和:なんだよー。リアルタイムでみろよー。
ジトっとした目を向けられる。適当に受け流しながら冷蔵庫の麦茶を取り出した。
和:あ、そういえば今日さっちゃん来るから。
◯:さっちゃん?
和:菅原咲月。
◯:ああ…
名前は知っている。同じ五期生だったはずだ。
和:知ってる?
◯:顔と名前くらい。
和:失礼だなぁ。
◯:だって姉ちゃんしか見てないし。
和:なにそれ、嬉しいのか悲しいのかわかんない。
呆れたように笑う和。俺も特に気にしていなかった。姉の友達が来る。それだけの話だ。
その時、ピンポーンとインターホンの音が鳴った。
和:あ、来た!
勢いよく立ち上がり、玄関へ向かう。俺は何気なく麦茶を飲みながら、その様子を眺めていた。
和:さっちゃん!
咲:お邪魔しまーす!

玄関から、弾むような声が聞こえてくる。明るい人なんだな。そんなことをぼんやり思っていると、和に続いて一人の女性がリビングへ入ってきた。
その瞬間だった。
思わず息をのむ。
テレビで見たことはあった。
名前も知っていた。
でも、全然違う。
画面越しでは伝わらなかった柔らかな雰囲気。
自然とこぼれる笑顔。
部屋に入ってきただけなのに、その場の空気まで明るくなるような存在感。
可愛い。そんな一言では、とても足りなかった。ただ、目が離せない。
和はそんな俺に気づかず、隣の咲月へ笑いかける。
和:紹介するね。弟の◯◯。
その言葉で咲月がこちらを向く。
咲:えー!
ぱっと目を輝かせる。
咲:和の弟くん!?
一歩近づきながら、屈託なく笑う。
咲:こんにちは!初めまして!

……まずい。何か返さなきゃ。そう思っているのに、口が動かない。
和:……あれ?
咲:えっ?
和:◯◯?
和が不思議そうに俺の顔をのぞき込み、ようやく我に返った。
◯:……ど、どうも。
たったそれだけ。それだけ言うのが精一杯だった。
和:あはは!なにその反応!

咲月もつられて笑う。その笑顔を見た瞬間、心臓がもう一度大きく跳ねた。
この時はまだ、自分でも、この気持ちの名前を知らなかった。
