信仰ログ:性的な罪の範囲について
こんにちは!
前回からだいぶ期間が空きましたね。
次回から、私の性的な罪とその回避、主による救いについて書き連ねます。
それに先立つ認識合わせとして、今回は「何を性的な罪と位置付けるのか」を書いておきます。
※ 記事内の聖句は、「口語訳聖書(1954/1955)」によります
問題と考える行為について
まず、便宜のために以下をまとめて「婚外行為」と定義します。
・婚姻関係にない者同士における性行為
・同性同士おける性行為(今のところ婚姻が成立しない)
・自慰行為
その上で「聖書によれば、婚外行為は全て罪である」と私は考えます。
この考え方に対抗するものとして、
「婚外行為自体が罪なのではなく、それに伴う欲情が罪である」
とする主張があるようです。
そうであってほしい気持ちは分かりますよ。
良く分かりますよ。
しかし、それは自己が性的快楽を得るための言い逃れではありませんか?
そのような言い訳で自分を誤魔化していませんか?
そのような弁明・回避策で、私たちは本当に神様の前に立てるのでしょうか?
厳しすぎるように感じるかもしれませんが、婚外行為は全て罪とみなすべきと私は考えます。
本当に、欲情抜きで性行為できますか?
以下、婚外行為が全て罪であると考える理由を書いていきましょう。
第一の理由として「欲情を伴わぬ性的行為は考えにくい」ということを挙げます。
例えば「射精というのは排泄と同じである」という主張がありますよね。
クリスチャン的な文脈に限らず、男性による品のないトークテーマでも良く言われることです。
事実、ヤングな私もそのように言ったことがあります。
(品のない)いち男性としては、言いたいことを理解しますよ。
その主張をする人たちは、「射精は排泄行為の一種に過ぎないから、聖書的に無罪だ」というロジックを展開したいのですよね。
やりたいことは分かりますが...。
本当に、射精は排泄と同じですか?
以下、分かりやすく「射精」と書きますが、
女性向けとしては「エクスタシー」でも「性的満足」でもOKです。
良い感じに置き換えて読んでください。
思考実験をしてみましょう。
貴方は今、まさに排泄をしようとしています。
その時、例えば国会議事堂の威容を頭に思い浮かべてみましょう。
ここで国会議事堂を想像する意味は分かりませんね。
意味不明です。
しかし、特に問題なく排泄はできますよね。
また、国会議事堂を想像しなかったとしても、特に問題なく排泄できますよね。
つまり、国会議事堂を想像しようがしまいが、内臓の許容量を超えたら排出してしまうわけです。
それが排泄です。
では、排泄ではなく射精の場合を考えてみましょう。
貴方は国会議事堂を頭に思い浮かべて、射精できますか?
できませんよね?
そんな芸当が可能なのは、国会議事堂フェチの人くらいでしょう。
もちろん、国会議事堂でなくても良いです。
「難しそうな数式」「おばあちゃん」「面白すぎる漫才」...などなど、
およそ性と結びつかないイメージなら何でも良いですよ。
上手いこと当てはめてください。
それらを熱心に想像して、射精できますか?
できませんよね?
むしろ、萎えますよね?
国会議事堂で射精はできないけれど、排泄はできるのです。
何を想像しようとも、溜められる容量を超えれば排出するようにできている…それが排泄です。
コップに水を注ぎ続ければ、いずれ溢れますよね。
それと同じです。
排泄というのは物理的な現象であって、頭で何を想像するかは基本的に無関係です。
射精と排泄、同じではないですよね?
また、もう一つの大きな差分として、刺激の有無が挙げられますよね。
排尿時に、性器に継続的な刺激を与えますか?与えませんよね。
与えることで促進できることはあるかも知れませんが、そんな刺激はなくても排尿は可能です。
つまり、意図的な刺激がなくても排出できるのが排泄ですよね。
どうしても「射精=排泄」と定義するのであれば、「無刺激の排出」に限らねばなりません。
精液は毎日生産されますが、精液を溜める器官には容量の限界があります。
いつか限度を超えた時には、精液を漏らすことになるでしょう。
つまり、「性器を刺激して排出する」のではなく「刺激なしで、容量の限界を超えたことで押し出される」のです。
それこそが排泄です。
人為的な刺激による射精は、性嗜好を満たすための行為に他なりません。
欲情と結びついていると判定せざるを得ないのです。
このようなわけで、私は「射精は排泄行為だから無罪」というのは詭弁である…と思います。
性行為というのは、欲情と切り離すことが事実上できない。
ゆえに、罪であると私は考えます。
以上は聖書を根拠にするというよりも、ロジックの組み立て方に欺瞞や不正確さがあるのでは?という指摘ですね。
聖書によると
以下は、聖書をベースにした議論です。
さて、仮にです。
百歩も千歩も譲って「欲情と射精を分離できた」としましょう。
仮にそんなことができたとしても、婚外行為は罪であると私は考えます。
つまり、私は「婚外カップルの性行為や同性の性行為、自慰行為は全て罪である」と言いました。
聖書は姦淫について「情欲を伴う」といった条件設定をしていないからです。
次の通り「姦淫」そのものを問題視しています。
すべての人は、結婚を重んずべきである。また寝床を汚してはならない。神は、不品行な者や姦淫をする者をさばかれる。
この聖句のように、聖書によれば「不品行」や「姦淫」というのが婚姻外の性行為であることは明らかでしょう。
「情欲を伴う姦淫」のような限定句は見当たりません。
それとも、正しくない者が神の国をつぐことはないのを、知らないのか。まちがってはいけない。不品行な者、偶像を礼拝する者、姦淫をする者、男娼となる者、男色をする者、盗む者、貪欲な者、酒に酔う者、そしる者、略奪する者は、いずれも神の国をつぐことはないのである。
「姦淫する者は…神の国をつぐことはない」と明示されている通りです。
偶像礼拝と並べていることからも明らかなように、婚外行為は全て罪であると考えるべきではないでしょうか。
それが、聖書を信仰する者としての適切な態度であると私は考えます。
以上で十分とは思いますが、念のため別の観点からも検討しました。
主の設計に逆らうリスク
婚姻外の性行為を愉しむことは「主が意図された設計通りに身体を用いていない」という点でも罪でしょう。
不品行を避けなさい。人の犯すすべての罪は、からだの外にある。しかし不品行をする者は、自分のからだに対して罪を犯すのである。あなたがたは知らないのか。自分のからだは、神から受けて自分の内に宿っている聖霊の宮であって、あなたがたは、もはや自分自身のものではないのである。あなたがたは、代価を払って買いとられたのだ。それだから、自分のからだをもって、神の栄光をあらわしなさい。
私たちのこの体は、私たちのものではないのです。
聖霊様の宮なのです。
可能な限り清らかに保つべきであり、姦淫によって汚してよいものではありません。
主の怒りを恐れよう
そして何より、婚外行為というのは偶像崇拝そのものである可能性が非常に高いです。
このことに触れないわけにはいきません。
だから、地上の肢体、すなわち、不品行、汚れ、情欲、悪欲、また貪欲を殺してしまいなさい。貪欲は偶像礼拝にほかならない。これらのことのために、神の怒りが下るのである。
貪欲がなければ、自らの体を貪り楽しむ必要はありません。
どんな理由であれ、婚外行為の奥底にあるものは貪欲であり、聖書に従えば偶像礼拝です。
結婚を伴わない性行為、同性による性行為、自慰行為...
主はこれを偶像崇拝と呼び、その怒りを示されます。
だからこそ、私たちはこの偶像崇拝を今すぐに止めるべきなのです。
結婚を伴わない性行為をやめるべきです。
同性による性行為をやめるべきです。
自慰行為をやめるべきです。
今すぐに、です。
偉大なる主を信じよう
「Mitzよ、そんなことを言われると困るんだ。
性的快楽というのは生理現象だからどうしようもないんだよ。
この楽しみを失うのは非常に困るんだ。」
と言いたいのですか?
その気持ち、痛いほど分かりますよ。
精通した思春期から30年余り、他でもない私自身が、性欲に振り回され続けてきたのです。
性的快楽を失う怖さは、良く分かります。
その私が、自信を持って書きますね。
性行為を禁じられるのは、辛いですよね?
「性的快楽を捨てるなんて無理だ、不可能だ」と思いますよね?
でも、安心してください。
我らが主は、この抗いがたい性欲さえも、見事に解消してくださるのです。
そこに快楽喪失の苦しみはありません。
むしろ、喜びのうちに解消してくださるのです。
あれだけ性にまみれ、汚れ切った存在の私ですが、
真剣に主に嘆願して以来、婚外行為を一度もしていません。
今や、性欲を気にすることも全くなくなりました。
何かを失った感覚や悲しみは、一切ありません。
それどころか、幸福感や満足感が増えました。
行為に耽ることもないので、自由時間が増えました。
こんなに安らかで楽しい世界があるとは思いませんでした。
これは、神様が私に授けてくださった証であり恵みである…
少なくとも私は、そのように考えています。
というか、それ以外に考えられないんですよね。
男性なら分かると思います。
あの、我々を困らせ続ける性欲が、我々を支配し続ける性欲が、どこまでも追いかけてくる性欲が、ゼロなんですよ。ゼロです。
こんなこと、あり得ないですよね。
私ももう四十路だけど、まだまだ性欲にまみれるはずの年代ですよ。
現役バリバリの中年ですよ。
その中年男性から性欲が消え去るなんて、あり得ないですよね。
そのあり得ないことが、すぐに実現されたのです。
そんな不可能を可能にされるお方は、主しかおられません。
私たちは、主の御業を信じるべきです。
この素晴らしい恵みと証を、私は貴方と分かち合いたいと思っています。
どういう経緯でそのような恵みに預かったのかを、次回以降に書いていきます。
そのためには「筆者が何を性的な罪と考えているのか」を書いておく必要があると思いました。
そこで、今回の記事を投稿した次第です。
私は不勉強な聖書ビギナーですから、誤り等があればぜひご指摘ください。
ここまでお読みいただき、有り難うございました。
この記事が主の御心に適うものでありますように。
貴方と、私と、私たちの大切な人たちの上に、主の恵みがありますように。
