「書かないと」の義務感は習慣化の証
「書く」行為は、自己満足です。
もっと良い情報を知ってほしい。
こういう魅力があるんだよ。
ここに注目してください。
そういった読者にたいしての期待は、
究極は書く側の願望でしかなくて。
だから、「書く」行為は
自分自身を褒めるために書く。
書きたいから書く。
このように考えると
ある種の一過性のような感覚におちいります。
つまり、
やる気が起きなければ書かないでいい。
ネタがなければ書かないでいい。
書きたくないなら、書かなくていい。
だって、自己満足なんだから。
それでも「書き続けられる人」は、
わたしは書く行為そのものが
習慣化に成功していると考えます。
「書かないといけない…」
そういうふうに義務感を持って
妙な責任感を抱いて書き続ける。
まるで後ろから死神に
喉元へ鎌を突きつけられている感覚。
✔作業感って、
楽しいですか?

書くことを辞めたところで
だれからも責められない。
それでも「書かなきゃ」と
自分を追い込む人。
「ドM??」
見る人が見れば、そう思うかもしれない。
また、淡々と書き続ける行為は
まるで工場のベルトコンベア作業に似ています。
ひたすらに文字を打ち込み、
無から文章を作り出す。
脳内に浮かぶ”自分語”をたくみに使い、
それっぽい記事に仕上げていく。
その一連の流れを無機質な作業ゲームのように
感情を無くして書き続ける。
それって、面白いですか。
ユニークですか。
人生、損してないですか。
って、
言いたくなりますよね。
たしかに、書き始めの頃は
「自分で文章が書けた」の喜びは大きい。
まったくと言っていいほど
文章の「いろは」も分からない状態で
完成にこぎつけた記事の感動たるやひとしおです。
でも、
書き続けるために必要ですか。
といえば、そうではなくて。
書き続けるためには、
作業感に慣れること。
いや、作業に徹すること。
でないと、つねに
その日のモチベーションであったり
気分だったりに左右されて
「書く気力」にすら生まれないからです。
「書けたっ!」という感動は大切です。
ただ、どこかのタイミングで
卒業しないといけない。
ステップアップするとすれば、
「読んでくれた」が重要なんです。

「はたしてなぜ書く行為は、
続けられるのだろう」
ふと哲学的な気分におちいりました。
「書きたいから書く」
1~2年前は、
そう思っていたかもしれません。
それよりもいまは
「書かなきゃ」のほうが強い。
そして、この義務感こそ
習慣化された証拠そのものだと感じます。
キレイごとではまとめられない
継続の世界。
だから、残された結果に多くの人が魅力し
興奮するのだろうと考えます。
なぜなら、
「自分では到底、不可能な結果だ」と
自分との対比で価値観を感じるからです。
「書く」行為は、深淵から
わたしを覗いているだけのようです。
では、また。
失礼します。
いいなと思ったら応援しよう!
サポートしていただければ、あなたの習慣活動を全力で応援します!!