予感の味|風まかせ文芸部
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風まかせ文芸部・第60回お題企画
お題:”予感の味”がテーマ
締切:7月6日(月)23:59
参加方法:あなたの作品に #風まかせ文芸部 のタグをつけて投稿
朝、コーヒーを淹れる。香りはいつも同じだ。豆を挽き、お湯を細く落とす。ふくらむ豆が静かに息をするように、部屋いっぱいに苦く甘い香りが広がる。その香りで私の一日は始まる。
しかし、その朝だけは違った。
窓の外はいつも通り。隣家の犬は欠伸をし、電線では鳥が喧しい。時計も、ニュースも、カレンダーも、何ひとつ変わらない。それなのに、コーヒーを一口飲んだ瞬間「今日は何かが起こる」と思った。
根拠はない。
味が違ったわけでもない。少し苦く、少し酸味があり、飲み慣れた銘柄そのものだ。なのに舌の奥に、説明のできない余韻が残った。まるで「まだ知らない今日」の味が混じっているようだった。
私は苦笑した。
まもなく還暦を迎えるほどの年齢ともなれば、そんな胸騒ぎも滅多に信じなくなる。それでも、会社へ向かう足取りはどこか落ち着かなかった。
いつもより一本早い電車に乗った。理由はない。ただ、その電車に乗るべきだと思った。
十分後、いつもの電車が人身事故により緊急停車し、運転再開の見込みは立ってないと通知が届いた。
昼休み。
いつもの定食屋から会社へ戻る途中、普段なら素通りする古本屋の前で足が止まった。何かに誘われたわけではないのに店の扉を開けていた。そして一冊の本に目が釘付けになった。
手に取りパラパラとめくっていると、あちこちに走り書きがある。こんな落書きだらけの本が売れるのか?
一文に目が留まった。
君の未来は、少し苦い香りから始まる。
誰が書いたのかも分からない。だけど、その言葉を読んだ瞬間、朝のコーヒーの余韻がよみがえった。
その日の帰り道だった。
駅前の信号で偶然目が合い、十数年ぶりに彼女と再会した。
お互い一瞬だけ立ち尽くしたのはご愛嬌だろう。
「久しぶり」
その一言だけで、十数年という形が崩れていく。
近くの喫茶店へ入りコーヒーを頼んだ。
「昔もブラックだったわね」
彼女が笑う。
「砂糖を入れると、味が分からなくなる気がして」
「変わらないわね」
そう言った彼女の笑顔だけが、少し年齢を重ねているように思えた。
取り戻した時間ではない。
失われた時間でもない。
今日という一日が、二人の間に新しく生まれていた。
決して明日があるというわけでもないのだけれど。
帰宅して、もう一度コーヒーを淹れた。これで何杯目だろうか?
朝と同じ豆。同じ温度。同じ手順。けれど味は違っていた。
いや、コーヒーは変わっていない。変わったのは、自分のほうだった。
朝感じた「何かが起こる」という予感は、不安ではなく人生が静かに向きを変える合図だったのだろう。
思えば、未来はいつも大きな音を立ててやって来るわけではない。
湯が豆を湿らせる音。立ちのぼる湯気。カップを包む温もり。
そんな、ごくありふれた朝の一杯に、そっとやってくるコーヒーの苦味は、決して嫌な味ではない。心を目覚めさせる味とでも言えばいいのだろう。
私は湯気の向こうに明日を見た。そして静かに思う。予感とは、未来が最初に舌へ届けてくる、一番小さな挨拶なのかもしれない。
宇多田ヒカル / パッパパラダイス feat.甲本ヒロト
