じいちゃんの原爆体験記「あの日は暑かった」
はじめに
このたび、今は亡き祖父が1996年に記した「原爆体験記」を公開することにしました。
原発や核兵器の保持が正当化されるような社会には、なってほしくない。
差別や戦争のない世界を願いながら、祖父の言葉を少しでも多くの方に届けたいと思っています。
この体験記は、被爆から50年以上の歳月を経て、祖父がようやく書き残す決意をしたものです。
そこには、当時の記憶とともに、語ることの苦しみや、平和運動への複雑な思い、
そして「自分は何ができるのか」と悩み続けたひとりの人間としての葛藤が綴られています。
文章は祖父自身の手によるものであり、公開にあたっては、できる限り原文を尊重しました。
誤字脱字や句読点の補正、本人以外の実名への配慮のみを行っています。
読みにくいところがあるかもしれませんが、どうか感じたままに受け取っていただけたら嬉しいです。
なお、一部には生々しい描写も含まれています。
被爆者やご遺族、またご覧になる方のなかには、心を痛める内容もあるかもしれません。
あらかじめご承知おきください。

原爆体験記 「あの日は暑かった」
あの日、昭和20年8月6日空は真っ青、雲ひとつない快晴の日本晴れ、7時というのにすでに汗ばむ暑いあつい朝であった。
私はこの4月勤めたばかりの市内鷹野橋にある広島市農業会(現・JA廣島市)に出勤するべく、横川町3丁目の電車停留所に向かった。長いながい行列の後ろに並び漸く3台目の電車に乗ることが出来た。(当時広島市横川町2丁目居住)
しかし十日市町の乗換え場所でまた長時間またされ、来る電車くる電車満員で素どおり、遅刻の心配でいらいらしていたが漸く旧型のドアのない出入り口を鎖で止めてある旧式電車が来た、しかし4~5人ほど乗ると、まだ乗れるのに発車したので、6~7メートル追っかけ走りながら飛び乗った。
このことが今日68歳まで生き延びることが出来た生と死の境目になったのではなかろうかと思っている。
後で分かったのだが、この後の電車を待った人達と一緒に停留所で待っているか、若しくは次にきた電車に乗れたとしても紙屋町辺りで原爆の直撃に遭い無残にも黒焦げになり、あの日を最後に18歳の純粋なまでの尽忠報国、撃ちてしやまん米英撃滅、そして軍国時代の個人の自由のない灰色の青春のまま短い生涯を終えていたことと思う。
8時ごろ事務所の近くの電停鷹野橋に着き、急いで近くにある廣島県農業会(国泰寺町現在の広島市庁南側国道2号線当たり)の2階にある私の勤め場所、広島市農業会指導部に入るため東通用門に駆けつけた。
しかしこの時間丁度1階の県農業会の点呼で(当時は8時始業)O会長さんの巡視中であったので、外で西の空を見上げ、汗を拭きながら会長さんの通過を待っていた。
(もしここで2〜3分立ち止まっていたら、それこそ真っ黒焦げに焼け爛れ性別不明の死体となり、今でも行方不明者となって私の存在はジ・エンドと成っていたでしょう)。
急いで整列している職員の後ろをすり抜けるようにし、階段を二段飛ばしながら2階の事務所に駆け込んだ。
「おはようございます」
と挨拶しながら防空頭巾と救急カバンを隣室の海軍松根油関係事務所との簡易仕切りの衝立に掛け、扇子を使いながら机につき手提げカバンより書類を出しかけた瞬間、黄色いと言うかむしろ白に近い熱い黄色の閃光がピカッとし、バリッという不気味な音とともに当たりは一面真っ暗となりそのまま失神。どのくらい経ったのかふと気がつくと高いところに薄日のような光が差し込んでいた。しかし、身体の自由がきかず窮屈な姿勢であった。
そのうちだんだんと気分がしっかりして、目も慣れたので当たりを見まわすと私の机と後ろの机の間に挟まれ大した怪我もないように感じた。
警戒警報も解除になったことですのでまさか爆撃とも思わず、誰かが助けにきてくれるだろうと安易に考えていたが余にもあたりは薄暗く不気味すぎるほど静かで不安になり大声を出して助けを呼んだが何の反応もないのでやっと……大変さに気が付き、あっちを押し、こっちを持ち上げしていたら何とか動けるのでそろそろと上のほうの明かりを頼りに上がっていった。
その時着ているカッターシャツを破らないように釘や木の折れに引っ掛けないように注意し長い時間をかけ外に出た。(戦時中の物資不足で母が着物をつぶして縫ってくれた当時としては貴重品)
出てみるとエリと肩の部分、ボタンのある前立ての部分だけが原型をとどめ、あとはボロボロ、それにメガネもなくなっている。気が動転していたのかここでやっと怪我に気がつく。左前腕部のガラスの刺さった深い裂傷2ヶ所、左肘関節部に大きなガラスが刺さり、左前頭部にもガラスの刺し込みによる裂傷。
首の付け根にガラス、右腰にもガラス、左ひざの柱材による打撲傷等々の傷だらけ、途端痛さを感じへナヘナトなる。
その放心状態も
「かしはらさん一助けて一一」
と言うか細い女の声にハッとし、よくよく耳をすますと、今這い上がってきた瓦礫の下のほうからのようだ。
この事務所は本部と離れ、指導課の指導係と庶務係だけの勤務場所で職員9名。今朝は、庶務係長のSさん、指導係技師のRさん、私、それに腕の骨折で長いこと休んでいて2〜3日前から出勤していた女性のAさん、4月以来病気で長期欠勤し、今朝初めて出勤した女性のMさん、4月私と一緒に入った女性のOさん、の6名であった。誰の声とも判らないが、とにかく助けなければと思い、今やっと這い上がってきた場所からまたそろそろと降りて行き、
「オーイ、オーイ」
と大きな声で何度も何度も呼んでみたが何の返事もない。
また上の方へと動きかけたら、
「柏原(かしはら)君この木をどけてー」
と言う声。薄暗い中を良く見ると、Sさんが大きな梁のような木に押さえられていた。
「待ってて」
と声をかけ、左手で抱え上げようとしたが、左手は肘関節にガラスが刺さっていたので全然力が入らず、やっと両手で抱え少しのスキ間をつくり這い出てもらった。
それから2〜3度声を掛けたが返事がないので又上のほうに上って行った。
上に上がるとまた
「タスケテー」
と言う声が微かに聞こえてきた。アレッと思い、また下のほうに下りてみたが、さっきと同じで声はなし。上に上がると又
「タスケテー」
の微かな声。また下に、しかし駄目、諦めて上に上がる。
上は瓦礫、木材が折り重なっているので相当な高さである。そこから下を見ると何も無く視野は開け、遠くまで見通しがきき、見渡すとあちこちから火が出ており、黒煙が濛々と立ち上っている。
一瞬恐怖に襲われ、早く逃げねばと南隣の産婦人科医院(確か林医院だったと思う)の方へ向かって降りていった。
途中、顔を血で真っ赤にして太い木材の上にしがみついて震えている女性があっちこっちに3人もいた。高いので恐ろしくなり、降りられなくなっていたのだろう。ひとりは顔見知りの、いつも連絡にこられる市役所生産課のIさんでした。次々に誘導して下に降ろしてあげた。
このときSさんを思い出し見渡したが姿が見えないので、無事に避難できたなと思い、私も早く逃げねばと思っていたところへ、浴衣姿の男性がオロオロしながら私を見つけ、
「この周りに、家内が壁の下敷きになっている。一人では駄目だ、助けて欲しい」
と必死の形相。
私もかなり時間が経っていたので早く逃げねばと焦ってはいたが、放っておくわけにも行かず、二人で倒れた壁を起こし探した。2枚目を起こしたら、運よく大きなお腹の妊婦がぐったりとして居たので、ご主人と二人で助け出す。二人でどうにか避難をされたようだ。
やっと事務所正面の電車通りに出た。
しかしその時は既に方々から火災が発生し、黒煙は濛々と上がり、道路には熱線で焼け爛れた真っ黒焦げの死体、上半身ぼろぼろのシャツ姿に顔も手も火傷し、皮膚がボロキレのように垂れ下がった男女が、放心状態で歩いている。
一体どうしてこんなことになったのかと目を疑い、恐怖に駆られ一刻も早く逃げねばと後ろ向きになった途端、中学生らしき少年にぶつかった。
そしてその子が
「紙屋町の方角はどちらですか、お母さんが居るんです」
と問い掛けてきた。
よく見ると、帽子を被っていたと思われる上半分は正常で、眉毛から下は焼け爛れ、瞼は腫れ上がり、前がよく見えないようだ。
しかし紙屋町方面は火災で黒い煙は天を覆い、たとえ目が見えても大人でも、とても行けそうにもない。このまま行かせるとみすみす死なせるようなものだと咄嗟にくるっと廻して、反対の南千田町の方向に向けて真っ直ぐに行くよう元気づけてあげた。(今でもあの子は生きているだろうかと、あの日を迎えるたびに思い出し心が痛む)
何気なく事務所のほうを見ると、県農業会生産課の女性のSさんが、四谷怪談のお岩のように青黒く腫れあがった血みどろの姿でうずまくって居るのを見つけたので、落ちていた窓枠を壊し、棒にして、その端を握らせ、引っ張ってあげながら二人で逃げた。途中、道路の真ん中で馬車が壊れ、倒れた馬の首に凭れ、顔は血みどろ、上半身焼け爛れた荷馬車夫が息も絶え絶えでひっくり返っていたので、
「おじさん、おじさん、火がそこまで燃えてきているよ、早く逃げないと焼け死ぬよ」
と言い元気をつけたが、その人は、
「もお一えんーじゃ、こいつと一緒に行くよ」
と言って動こうとしない。(翌朝ここを通ったが、人馬共に黒焦げになって死んでいた)
逃げる途中、Sさんの家があったので立ち寄ってみたが誰も居ない。自転車と飯盒を崩れた家より捜し出し持ち出した。自転車はリムの歪みに気付き捨てて行き、飯盒は水を入れるため持って行くことにした。
鶴見橋の袂で自転車に、食用油を乗せ軍刀を腰に差し、白鉢巻をした憲兵曹長が
「お前達、爆弾の落ちた穴を見なんだか」
と居丈高に問い掛け、
「お前達はまだ若いではないか、元に戻って消火せよ」
と言いながら、二人の状態を見て、
「その傷では無理だな、速やかに避難しろ」
と言って立ち去った。(後で新型爆弾、そして原子爆弾と判り、軍人の無知を痛感)
途中、
「日赤、県病院共にも赤チン、ヨーチン、それに消毒液の一滴も無いよ。行っても無駄だ」
との避難者の言葉にがっかりして、それならば似島に避難しようと電車道をとぼとぼと歩いて宇品方面へと向かった。
広陵中学の前(現・広陵高校)まで来て気分が悪くなり疲れて来たので、地べたに座り込み休むことにし、飯盒に水を汲んできてのどがからからだったので二人で思いきり飲んだ。
ところが水によって胃が刺激されたのか、胃腸がゴロゴロと鳴りだし、ガバッと内容物と一緒に真っ青の胃液を大量に吐き出した。ところがこれを境にモヤモヤとしていた気分がすっかりよくなり、頭痛も嘘のように治り、元気を恢復した。
その時また軍人が私達の側に来て、
「お前達、その負傷では大変であろう。ここで待っていればトラックが通るから合図して止め、それに乗り似島の検疫所に行けば治療してくれるぞ」
と教えてくれた。暫くするとトラックが来たので合図し止め、荷台の中を覗くと、中には焼け爛れ、血みどろの人達が半死半生で折り重なって乗っていたので、これはと思い、
「次のにします」
と言って乗らなかった。
後で聞いた話では似島も医薬品不足で、油を塗るぐらいでろくに治療も出来ず随分死亡したとか。
其のうち逃げていく人が
「宇品の川瀬病院まで行けば治療して貰えるぞ」
と言ってるのを聞いたので、またSさんと川瀬病院まで時間をかけて歩いて行った。
着いてみると最早長蛇の列。最後尾に並んでいると先生が出て来られ、
「若い者を優先的にみるから、若い者は前に並びなさい。若い者は今からまたお国のために役立ってもらわねば」
と言われたので、前から2〜3番目で早く治療して貰うことが出来た。
しかし、ここでも消毒薬らしきものも無く、器具の消毒薬の昇汞水で傷口を消毒するので痛いこと痛いこと。まったく目から火が出るよう。麻酔も無く、ガラスを抜き、縫合するのも生、これまたイタイことイタイこと。そんな贅沢な事は言ってはおられず治療してもらえるだけでも有難い事と歯を食いしばって我慢し感謝する。
治療してもらったので少しは落ち着き、辺りの負傷者を見渡すゆとりが出来、見渡すと
眼球に三角のガラスが突き刺さった人、
頭がザックリ割れた人、
手足の骨折でブラブラの人、
喉にガラスの突き刺さった人、
腹から腸がぶら下がり、両手で押さえて放心している人、
等々、其れは酷く、まるで地獄絵図そのものであった。
私の傷は今でも鮮明に残り、子供達や孫達と風呂に入った折には良く説明してやったものです。
特に額のガラスの刺さった傷跡は、30代まではどうにか髪に隠れていたが、40代〜50代〜60代と、段々と姿を現し、今では大威張りで武士の向こう傷とばかり、堂々と正面切って居直っております。
治療してもらったので安心し一休みし、安全な場所に避難しようとSさんと相談の上、兎に角市内の中心部から離れようと仁保方面に向かって歩いた。(その時間、市内一帯は濛濛と黒煙を上げ、大火災で入れない状態)
朝からの極限状態、歩き詰め、それにじりじりと照りつける真夏の灼熱とも思える太陽、空腹。やっとその事が一度に肉体の疲労として押し寄せ、2人とも疲れ果て歩くことも出来ず、旭町の水田や蓮田(れんこん畑)の間にある民家の軒先で遂にダウン。二人とも朦朧として横たわっていた。
暫くして民家の人が出て来られ、
「そこは陽射しが暑いので中に入って休みなさい」
と言って頂き、爆風で壊れた家の座敷に布団を敷いて下さった。
二人はお礼もそこそこに柔らかい布団の上にぶっ倒れてしまった。
其れからどれ程の時間が経ったのか、人の声が遠くでしているのを夢うつつに聞く。
「水々とあれほど言っているのだから上げたら」
「でも水を飲んだら危ないのでは」
「でもどうせ死ぬんだから飲ましてあげようよ」
と言っている。
その声にハッと気が付いた。
私がうわ言で
「みず、みず、」
と言っていたらしい。
もう日は陰り、夕方近くになっていたから、三時間以上も眠ったのであろう。
腹いっぱい水を頂き、丁重にお礼を言って、行く当ても無くその民家を後にした。(布団は血と泥で汚れ、申し訳無かった。元気になってお礼をと思って尋ねたが、どうしても記憶に無く場所が判らず、今もって失礼している。有難う御座いました)
其れからまたそろそろと歩いて丹那の交番所の前に辿り着いたのは日暮れ前。旭町を出た頃からSさんの目は腫れが酷くなり、殆ど前が見えない状態なので窓枠の杖を頼りにのろのろと歩いたので日暮れとなってしまった。
巡査に事情を説明し、交番所の前の防空域で一夜を過ごすことにした。
夜になって体中の痛み、くわえて豪雨が降ったせいか裸同然なので寒くてガチガチと震えていた。
巡査が様子を見に来て毛布を一枚持ってきてくれたが、抱き合うわけにもいかず、二人背中あわせになり毛布をぐるぐる巻きにして貰ったら、どうにか寒さは凌げたが傷は痛み出し、少しでもどちらかが動けば物凄く痛く、お互い耐えながら一睡も出来ず朝を迎えた。
その朝、交番で罹災証明書第1号を発行してもらい、5時半ごろ痛む体を引き摺りながら事務所に向かった。
7日朝はSさんの目の腫れも少しよくなり、見えるようになっていたが、昨日から今朝にかけて水と乾パン2〜3ヶだけしか食べていないので、大変弱って辛そうだ。
市内に近づくにつれ、人家は無く焼け野原と化し、瓦礫の山、そしてあちこちに仰向けに、うつ伏せに、防火水槽に凭れたまま、黒く火膨れした性別も判じられないくらい焼け爆れた、見るも無残な死体が累々と横たわった状況を目の当たりにし、一体どうした事かといくら考えても考えもつかず、唯々呆然とする。
10時前に事務所に着いた。しかし目前の状況を眺め、愕然とする。事務所は跡形も無く完全に焼失し、1階の県農業会は、各課の配置通りに無念の白骨の列。誰の骨かすぐ判別できる程、唯々「霊よ安らかなれ」と、思わず死者に合掌する。(今でも目を閉じると、当時の場面が現れ、異様な寒む気を感じる)
ここで県農業会の負傷者は、直営の吉田病院(高田郡)に収容するので動かずに待つように、と掲示があったので、Sさんにここで待つようにと告げ、当座の費用の足しにと持ち合わせのお金の半分を渡し、別れて一人我が家へと向かった。
市役所の前から私の家のある横川方面は一望千里、見渡すかぎり焼け野原。電車道伝いにとぼとぼと焼死体を跨ぎ、異様な臭気と熱気の中を、梁に押さえられた左膝が酷く痛み、ビッコを引きながら木切れを杖にして歩く。
紙屋町辺りに帰ると辺りの様相は一変し、爆風により電車は軌道より脱線し、道路上に斜めになり黒焦げに焼け、中には真っ黒焦げになった男女の分別もつかない人の死体。中腰になった者、吊革を持ったままの姿勢、虚空を掴み、目を見開き、口を開き、床下が焼けて落ち、苦し紛れに這いあがろうとし、車台の鉄骨を掴み、息絶えているダンゴ状態に折り重なった無残な焼死体。其れは、とてもとてもここで筆に書き現はす事の出来ない地獄絵図。今でも目を瞑ると鮮明に思い出し、もしあの時間の電車に乗っていたらと、50年経った今でも身震いする。(こんな状態の電車が付近に散在していた)
また、家庭用の小さな防火水槽の中に二人も三人も顔を突っ込み焼け爛れた大の男の死体を見てどうしてこんな事に、苦し紛れではとは思いさぞ苦しかったであろうと。その水槽の中にはボーフラの発生を防ぐために入れられた小さな緋鯉3匹が何事も無かったように忙しく泳いでいました。僅か50~60センチの水深がこうも生と死の境になるものかと、然も緋鯉の背は3匹とも何故か白くなっていた。(後であの現象は熱線による火傷だと分かった)そして相生橋の下を流れる元安川、本川の水面に無数の褐色に火傷した半裸体の浮遊死体、相生橋
の西詰には10数名の兵士が隊列を組んだままの焼死体、まるで地獄の世界を彷徨い歩いているようで気が狂いそう。
一刻も早く家に帰りたく、痛む足を引き摺って我が家の前まで辿り着く。勿論家は焼失、通りすがりに横目で見るとガラス食器、ビン類は溶けてダンゴとなり、醤油樽は中身の残っている1/3まで焼け焦げ、醤油の焦げた臭い、なんとも哀れ。早々に立ち去りながらふと振り返ると、家の前の防火水槽に焼け炭で何やら字が書いてあるのが見えた。が、疲労困憊、後戻りするのも辛く事前に決めてあった約束どおりの避難場所へと急いだ。(そこには12時半まで横川駅広場で待つ、その後は安村の避難地に来い)と書いてあったと後で知る。
丁度家の前を通りかかった時刻が12時半頃であり、横川駅広場では父母が荷車に布団を敷き、「もう10 分待とう。其れでも帰らないようでは、もう死んでいると思う。一先ず避難しよう」と言っていたところへ、広場の前を通り掛った私を見つけ、「帰った、帰った」と家族一同大喜び。その声を聞くと私はホッとし、精も根も尽き果てその場で気が遠くなり昏倒。気がついたら避難地の近くであった。(ここに着いた翌日の朝、黄色の大量の胃液を吐瀉し、随分と気分が楽になり、食欲も出てきた。)避難地では家族一同、一人の死亡者も無く揃ったことは珍しく、その幸運を喜び合った。
一番酷い怪我は私で、父と弟は家に居たので二人とも足に軽症、母も右手両足に軽い火傷、妹は動員休みで家の2 階で被曝。木材の切れ端が突き刺さり、右手前腕部に長さ12センチ位の深い裂傷。その大きな裂傷痕のため、娘時代はどんなに暑いときでも長袖を着ており、さぞかし辛い思いをしたことであろう。
一週間ほどここでお世話になり、その後隣村緑井村の父の知人、Aさんの納屋にお世話になることになった。
この納屋から5〜6 メートル離れた所に小さな小道がある。ここを毎日夕方になると大八車に薪を乗せ、その上に死体を乗せて、50メートル程先の河原で火葬していた。立ち上る紫の煙がこの世に思いが残るのか河原一面にたなびき何とも言えない気持ちであった。これが毎日12台から15台も通る。この頃から近所の噂では、髪の毛が抜け出し、歯茎が紫色に爛れてきたらもう助からんそうだと言ってるのを聞き、私が丁度そのよ
ぅな状態だったので何時の日かあの河原で焼かれるのかと思い淋しい気持ちで半ば諦めていた。
其れから、段々と日が経つにつれ元気を取り戻し、幸運にも8月10日頃には、どうやら負傷の外傷はともかく、気力も良くなり、元どおりに近い体になった。
8月の末になって市農業会の古江の本所に行くと皆ポカンとして、
「生きていたのか」
と異口同音に喜んで貰った。 既に物故者になっていたようだ。
其れから満50年、原爆の後遺症らしきものも無く(原爆性白内障で視力に幾ばくかの障害はあるものの)68歳の今日まで人一倍の元気で50年間仕事を続け、やっとこの4月退職したので、落ち着いて忘れかけていた記憶を呼び戻し、この手記を原爆被爆より翌日の2日間を中心に忠実にリアルにまとめてみた。
あとがき
この手記をまとめよう、文字にしておこう、と考えたことは20年も前から思っていたが、思い出すのも忌まわしく、毎年8月6日の記念日の度びに、2つの団体が別々の主張、そしてヘルメットにマスク姿に顔を隠しての騒々しいデモ行為等々見るにつけ、「この人達は本当にあの日、灼熱の熱線を浴び、断末魔のうめきを残し、焼け爛れ、水を求め、無念の涙を流し死んで行った8万とも14万とも言われる広島市民の苦しみが、苦痛が、悔しさが本当に分かっているのだろうか。」と。そして、そんな騒音を避け静かになった夕暮れを待ち、いつまでもいつまでも無緑の仏の碑の前でじっと動くことなく長い長い祈りを捧げ、合掌している老婆の姿を、どんな気持ちで見ているのかと、わけのわからない抵抗感を感じて、どうしても纏める気持ちになれず途中で投げていた。
其れを3年前、中学3年の孫娘がワープロ使用していて、フロッピーの中から途中までの記事を見つけ、
「おじいちゃんは凄い体験をしているんだねー」
と咳きながらじっと読んでいるのを見て、「これは子供や孫に伝えておかねばいけないんだなー」と思った。そう思いながら今回やっと書く気になり、いっさん気に文章感覚等無視して、思い出すまま文字にして見た。
読みづらく、判り難い文章になったが、50年前にはこんな残酷なことが有ったのかと、若い時代の人に後の恐ろしさを改めて感じて貰い、このような悲惨なことは二度と繰りかえさないと言う決心を、更に強固に、不変なものにして貰いたい。
今、フランス、中国は全世界の人類の平和をの願望を無視し、反対を押し切って何度も何度も核実験を繰り返し、訳の判らない理屈をつけて核実験を強行していが、必ずチェルノブィリの二の舞をするだろう。そしてそのつけは、何の罪も無い善良な国民、しかも次代を担ういたいけない少年少女の、発育盛りの未熟な身体を破壊してしまうであろう。
ロシアのチェルノブィリの核爆発による、少年少女の甲状腺肥大等によるあの痛々しい映像、荒廃化したゴーストタウン。こんな事が分かっていても、まだ核の抑止力の為などと核実験を繰り返す。何のための抑止力か....。
乞い願わくば、直ちに止めて欲しい。
広島の人が、50年経った今日なお核の後遺症に苦しみ、死を待ちながら訴える核実験反対の血の叫びを、心の底で受け止めて欲しい。
良識有る世界の人々が共鳴し、「核は人類の破滅、否、地球の破滅」と言っているのです。
結果は幼児と言えど、確実に答えを出します。
唯一つ、「核」はNOの二文字です。・・・・・・・・・・
1996 夏
柏原光哉
当時の指導部職員状況(1996年時点)
Yさん 出勤途中、原爆死
Sさん お元気で生存、80歳
Gさん S58年87才、死亡
Rさん 当時原爆死
Tさん 出勤途中、原爆死
柏原光哉 生存健康(68歳)
Aさん 当時原爆死
Mさん 当時原爆死
Oさん 翌日より音信不通生存との事
Aさん、Mさんは私の左側と前で雑巾掛け中に爆死。Oさんは洗面所で二階から一階に落ちたが無事軽症で避難し、生存を人伝に聞く。武藤さんは自宅より直接己斐花市場に行く途中被爆、軽症。S58年87歳で病死。
死者の方々のご宴福を心から祈りながら
合掌


