2年ぶりに叔母と会う💗
先日9月24日、2年ぶりに東京の施設に入居している叔母に会ってきた。
なぜこの期間、会えなかったのか、いや会わなかったのか・・
私を前から知っている人は、その経過を少しだけ知っているかもしれないけれど、それでも全部の思いを書いたことはなかったと思う。
今回の記事では久しぶりに叔母との関係について書いてみたい。
叔母が倒れてから、入院、施設探し、施設に入るための準備やその後の経過は、今回新しいマガジンを作り、そこに納めてあるので良かったら。。。

『はじめに』
東京の叔母は私の母の妹。現在84才(母は91歳)
叔母は東京都職員で、ずっと都の保育園の園長をしていた。
結婚はせず、東京で一人暮らし。
叔母は東京都職員を退職してからは、英語を学び、海外旅行を楽しみ、悠々自適な生活を10年ほど過ごし、合わせて自分の終活について検討して、あるNPOの死後事務委任契約や後見人の申し込みをしていた。
そんな叔母が最初に脳出血をしたのが12年前。
1回目の脳出血の際に「高次機能障害」が残り、一見普通なのだが、被害妄想で人を疑うようになり、人間関係をどんどん狭くしていった。
そして、2回目の脳出血でまた救急搬送、今度は歩行障害も残り、病院から「一人暮らしは難しい」と施設に入ることを薦められた。
本当は一人暮らしに戻りたかったのだが、叔母もその時は無理だと思ったらしく、叔母の願いを第一に考え、母と私と夫でいくつもの施設を見て、従妹達にも相談して今の施設に決めた。
叔母も最初に行った日はとても喜んでいた。
その施設で私は身元引受人になった。
また、任意後見人にもなって欲しいと言われて公証役場で公正証書も作った。
でも施設が東京だったこと、コロナ禍だったため、なかなか会いにも行けなかった。
そして叔母のマンションをただ空けているのは、公益金の支払いや水光熱費の基本料金が引き落とされるのは無駄だからと母が考えて、叔母に提案をして、叔母の許可を得て私の長男に管理も含めて入ってもらった。
長男は叔母に家賃も払っていたため、マンションのことで叔母の財産がマイナスになることはなかった。
コロナが落ち着いた2年前の11月、叔母を群馬に連れてきて旅行に行った。もしなら、と群馬の施設を一緒に回ったり、母が入る予定の墓地を見に行ったりもした。
わが家でもこれからについていろいろ話した。叔母が入所している今の施設をあまりにも悪く言ったり、施設を紹介した病院のソーシャルワーカーに対してひどいことを言ったりしたので、わかっているようにも見えて、やはり人を信じられない、被害妄想に侵されていて、以前の叔母とは違う姿がみられた。
ただわかったことは、マンションに帰りたい、1人暮らしを自由にしたいという思いが変わらずあることだった。マンションへの固執があったため、最後は叔母の荷物がわが家にあることで、マンションを取られたと思い込んでしまい、それからはわたしを泥棒扱いして罵倒してきた。
施設の悪口も私への不信も全て誤解だということを何とか叔母に気持ちを伝えようとしたが、全く受けれいてもらえなかった。
仕方がないので、叔母が1人で暮らせないのはわかっているけれど、どうしても返して欲しいと大騒ぎをするため、長男にマンションを出てもらい、掃除もして、叔母が帰れるようにしたが、それを伝えても疑いは消えず、最後は酷い言葉(あなたは鬼!悪魔!)も言われてしまった。
悲しみを超えてしまい、正直私も叔母を許せないほどの気持ちになってしまった。病気だとわかっていても…。
私は叔母のために最善を尽くしたのに、そして何よりも信頼されてなかったこと、愛されていなかったと感じてしまい、心から傷ついた。
さらには、従妹・従弟(母の弟、叔母の兄の子ども、叔父は亡くなっている)にも「病気だから仕方がない」と言われた。その言葉は、確かに間違っていないけど、言われる本人からすると、その辛さをわかってもらえない(と思い込んでしまった)寂しさが残り、私も叔母に関わる親族との関係に信頼の思いがなくなっていた。
叔母は私の母(叔母にとっての唯一の姉)まで信頼できなくなり、私と母は叔母とも従妹弟とも1年以上会わずに過ごしてきた。

『カウンセリングに出会うまで』
叔母が倒れてから叔母のサポートは、私なりに頑張ってきた。
それでもその気持ちが伝わらなかった。
病気だからだとしても、時は流れても、私はこれ以上傷つきたくなかったし、叔母とも従妹弟達とも関わりたくなかったし、叔母の情報も聞きたくなかった。
叔母との関係については心を閉ざしてしまった。そうすることがお互いの幸せ、お互いの心の安定になるとも思っていた。
実際、叔母について私の中でシャットダウンしたことで私の気持ちは穏やかになった。でも、時々何かのたびに思い出すときは胸が苦しくなる。それを繰り返していた。
叔母はそれ以降も2度脳出血を起こし、合計4回目の脳出血で身体の麻痺や呂律が回らなくなり、認知機能が悪くなっていった。今は、介助なしで歩けない。施設では車イスでの生活となった。被害妄想に加えて、うまくできない歯がゆさもあってか、文句ばかりを言い、施設の人ともうまくいっていないようだ。
そんな中、母は2024年12月から、私と一心同体と言っていたのにもかかわらず、叔母のことが心配で頻繁に会いに行くようになった。
姉として叔母との関係改善を願うのは当たり前だと思いながら、一人置いてきぼりをされている私は正直切なく寂しく辛かった。
それでも母が行くことを否定はせず、ただ「私に何も報告しないで」と言っていた。なのに、母は叔母のことを私に伝える。
母は母なりに私と叔母を繋ぎたいと思っていたのだと今なら思える。
でも私の切ない気持ちを理解せず、叔母の様子や楽しく交流していることを伝える姿に怒りの気持ちも沸いてしまった。叔母に対してよりも母に対しての怒りの気持ちが抑えられなかった。
母は私より叔母が大切なんだ。私は母にも叔母にも愛されていなかったのだと感じてしまい気持ちを保つことができなかった。
それが今年の2月のこと。
もう自分一人でどうすることもできず「私がおかしくなっているのかもしれない」と近くのカウンセリングルームを探した。
こんなに人を拒絶してしまうほど辛い人間関係に陥ったことは今までの人生で一度もなかった。
でもその体験を通して、今まで生きてきて味わった小さなすれ違いで、自分も相手も傷つきあってきたかもしれないことを思い、私自身も逃げずに振り返らなければと本気で思うようにもなっていた。
叔母とのことがあってから、自分の強みとその強みとのつきあい方を模索したりしてきたが、どうしても自己否定に陥ってしまい、なかなかすっきりせず、傷つきながら、やっとやっと今のカウンセラーのカウンセリングにたどり着いたのだ。
『カウンセリングを受けて』
カウンセリングの初めはただただ話を聞いてもらって泣いて泣いて、受け止めてもらって、心の痛みを少しずつ癒し、少しずつ元気を取り戻した。
夫も私を支えてくれて、共に推し活をして、家から連れ出してくれて、日々は明るく過ごせていた。
それからも、少しずつ落ち着いてカウンセラーと共に、私の人生を深掘りして、小さい頃の恵子ちゃんを癒しつつ母との関係も取り戻して、そして今の私を癒して、心から相手も自分も否定せずを意識して、人とのかかわり方を新しく心に灯せるようになって、私の思考のパターンを知り受け止めながら、私の思い込みも少しずつ外せるようになってきた。
自分も責めずに被害者意識、他責を変えていけるようになり、やっと気持ちを乗り越え、私が母や叔母を受け止められるようになってきた7月、
「恵子ちゃんにも会いたい」と叔母が母に言うようになったらしい。
そのタイミングでさえも、私自身の変化と繋がっていて奇跡に感じる。
ただ、叔母が「恵子ちゃんに会いたい」と言ったと聞いても、まだ叔母の反応の怖さが残っていたため、「会いに行こう」と決意しても「辞めよう」を繰り返し、2か月が過ぎた。
その間もカウンセリングを受け続けて、私の特性『HSS型HSP』や『耐性領域が狭いこと」なども知り、やっとやっと自分の生きづらさも受け止められ、癒し方や考え方を少しずつ身につけて、「叔母がどんな反応をしたとしても今の私なら大丈夫、受け止められる」と思えるようになった。
9月24日、私は母と弟と3人で上京することができた。
『叔母と再会して』今たどり着いた思い💛
私に会いたいと言っても、正直叔母がどんな反応をするのか未知数だったが「大丈夫、大丈夫、どんな叔母でも私は受け止める」と思いながら、施設に入ると、叔母は私の顔を見るなり、「恵子ちゃ~ん」と言って抱きついてきて大泣きした。
そのあと、私がトイレに行って二度目に会っても、また久しぶりに会ったかのように「恵子ちゃ~ん」と泣いて抱きつく。
私も素直に、本当に素直に、
「ずっと来れなくてごめんね、寂しい思いさせてごめんね」と言い続け、私も涙が溢れてきた。
叔母もきっと寂しかったのだ。
マンションでの一人暮らしを満喫していたのに、病気になり、1人で暮らせないことはわかっても、思いをぶつける相手も場所もなかった。
だから、その頃一番関わり、一番そばにいた私にその切なさをぶつけてきていたのだ。
あの頃、「マンションに帰りたいんだよね」「気持ちわかるよ」とただ寄り添えばよかったのだと今は思う。私自身が叔母の病気を受けいれきれていなかった。「私の気持ちをわかってほしい」という叔母の心に寄り添えていなかったのだ。お互いに「私の気持ちをわかってよ」とぶつかり合っていたのだった。
今回叔母と手を繋ぎ歩いたり介助したりしながらも、叔母は過去のことは話に出さなかった。私もあえて過去の話はしなかった。
叔母が全く忘れているのか、もう過去のことと思って叔母の中で消化して、私と会ったのか、本当のところはわからない。
でも、穏やかな笑顔で過ごすことができて良かった。
そして、子どもの頃のことや昔歌った歌は覚えていて、みんなで何曲か歌った。叔母との会話でも、繋がれたと思う時もたくさんあった。
叔母と私は帰りにも抱き合いながら「叔母ちゃんの幸せを祈ってるよ。元気でいてね。また来るね。」と心から言えた。本当に心から💗
たとえ被害妄想があったとしても、コロナ禍であったとしても、叔母の寂しさ、孤独さに寄り添いきれなかったのはやっぱり事実で、私の態度や行動にも愛や優しさは足りなかったのだとあらためて思う。
できるできないや効率ではなくて「人生を自分で決めて生きていきたい」と言う気持ちに寄り添う、それだけで良かったのだ。
事実がどうだとか、理屈だとか、正しさではなく、ただただ受け止めることができていたら、叔母も私もこうはならなかったのかもしれない。
その私の後悔や私の思い込みや傲慢さを認めたくない気持ちがあるからこそ、従妹、従弟の気持ちを素直に受けとれず、彼らとも信頼関係が築けなかったのかもしれない。
でも何一つ従妹弟達に悪気もなく、私を否定しているのでもなく、私が落ち込まないようにとの配慮だったことでさえも私は受け止められなかったのだ。
でも、自分自身と向き合い、自分自身を赦せるようになってきた私は、
あの日、叔母と素直に抱き締め合えたし笑顔を届けられた。
叔母は会っている間、何度も何度も、
「恵子ちゃん、綺麗になったね」と言う。
私の頬を触り、
「綺麗な肌だね、綺麗だね」を繰り返す。
今回久しぶりに会って、不信感を持った頃の恵子ではなく、昔から可愛がっていた恵子ちゃんとして優しく綺麗に見えたのかもしれない。
従弟とも沢山話をして、お互いの思いを伝えあうことができた。
今、叔母の身元引受人は従弟がなっている。従弟も定年延長で働いてはいるが、以前より仕事も楽になり、叔母の施設まで30分以内で行けるところに住んでいるため、サポートもお願いしている。
従弟も叔母の対応には苦労しているようだ。
それでも、今回なんとか関係を繋げてくれた従弟と、そしてずっと叔母と私の関係を再構築したいと願い続けてくれた母に今は心から感謝している。
私にできること、できないこと、背負わなくて良いもの、手放すべきこと、そんなことをこれから意識していこうと思っているまさに今、叔母との関係は頼るべき人に任せて、私はたとえ細くても丁寧に繋がりながら、新たな関係を作れたらと思う。でも、無理はしない。
私の心も大切にしながら…
また笑顔で会える日を楽しみに💗

書くチーさんの言葉をもらいました💗
投稿するのに1ヶ月かかってしまいました💦
まず叔母の記事を書くために、新しいマガジンの作成から始めていたので…
自分と向き合い続けて、そしてやっと叔母と会えて、記事としても投稿できたことにホッとしています💗
叔母を心から愛せているか、と言えばまだわからない。今はそれでも良いと思っています。
ただこれからも叔母の幸せを祈る私でいたいと思うのです。
今回も長い記事に
お付き合いいただき
ありがとうございました
<m(__)m>

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