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AIを使いたおして、バカになりながら賢くなろう――内省と理論が循環する、人間中心の学習プロセスについて

「AIを使うと、人はバカになる」

この言葉は、半分は事実だと思います。
実際、私自身もその入口に立っていました。

このNoteのきかっけは、AIとのチャットで
「ロイ・バスカーの批判的実在論について教えてください」
という、極めて端的な問いから始まりました。

今振り返ると、この問い自体は、思考の丸投げです。
自分で十分に調べたわけでもなく、ベースとなるスタンスが明確だったわけでもない。
典型的な「AIに聞けばいいや」という態度であり、まさに「バカになる」使い方だったと言ってもいいでしょう(笑)。

もしこれが、
「研修で使うから要点をまとめたい」
「宿題が出たから資料を作りたい」
といった文脈であれば、AIの出力をそれなりに整えて、はい完了、で終わっていたはずです。

思考は深まらず、問いも更新されず、何も残らない。
いわゆる「バカになるループ」に一直線です。



多くの議論が見落としている「もう一つの軸」

多くの「AIを使うとバカになる論」は、この現象を的確に捉えています。
そして、その原因を「プロンプトの質」の問題に回収しがちです。

もっと良い問いを投げよ。
一次情報を入れよ。
文脈を丁寧に与えよ、と。

しかし、私にはそこに強い違和感がありました。

問題は、問いの巧拙やテクニック以前に、
何のためにAIを使っているのかという、もっと根本的なところにあるのではないか。
そう感じたのです。


学習の中心は、コンテンツではなく「人」にある

この「バカっぽい質問」から始めたAIとの対話において、
私の目的は、正解を知ることでも、効率よく知識を取り込むことでもありませんでした。

そうではなく、

  • 自分の実体験(一次経験)を起点に内省すること

  • そこで生じた違和感や問いを、理論や概念(二次的な知)と往復させること

  • その循環の中で、新たな意味や理解を生成すること

にありました。

この目的が定まった瞬間から、
最初の問いの意味も、その後のやり取りの質も、まったく別のものに変わっていきました。

拙い言葉でもいい。
前提が曖昧でも構わない。

その代わりに、自分は
「経験」「感情」「引っかかり」
といった、極めて人間的な素材を差し出す。

今回の私の場合は、批判的実在論の説明を受けた後、
ポスト構造主義との違いに着目する対話へと進みました。

  • ポスト構造主義には、権力や支配を本能的に忌避しているような感覚があること

  • 一方で、批判的実在論には、それらの存在を認めつつ、絶対視もしないリアリズムを感じたこと

  • そして、「放っておかれたことで、クソみたいな現実を再生産し続ける構造をなんとかしたい」というのが、幼少期から持ち続けている自分の願いなのではないか、と気づいたこと

そうした個人的で生々しい応答を重ねていきました。

するとAIは、それらを受け止め、理論や概念とつなぎ、
思考を前に進めるための対話相手として機能し始めたのです。


内省と理論が循環する学習プロセス

このとき起きていたのは、
内省(一次経験)と理論学習(二次的概念)が、同時かつ循環的に進行する学習プロセスでした。

これはAI時代ならではの新たな営みであると感じています。かつてであれば大学教授レベルの方と対話をしなければできなかった学習方法が、(もちろん、全てを代替するわけではないないですが)誰でも簡単にできるようになったという気がします。

尚、ここでいう内省とは、単なる頭の中の思考ではありません。
実際に自らの経験に没入していた身体感覚や感情、違和感を、
後から丁寧に言語化していく営みです。

この内省の本質的な点については、
※Note『鏡としてのAI、羅針盤としての人間――大AI時代の最初の一歩』
でも詳しく書いていますので、関心のある方は参照してください。


バカになっていい領域と、賢くならなければならない領域

ここで重要なのは、
すべての場面で賢くあろうとしないことです。

例えば、最適な移動手段の確認や、定型的なメール文の作成など、正解が明確で、因果が比較的安定しており、さっさと判断して動いた方がいい領域では、むしろ積極的に「バカになる」方が良い。

考えずにAIに聞き、
要点をまとめてもらい、
次の行動に進む。

ここでは、思考を手放すこと自体が合理的であり、問題はありません。

一方で、
正解がなく、因果が見えず、
人や関係性、価値や意味が絡み合う領域では話がまったく変わります。

ここでは、

  • 思考を省略しない

  • 違和感を急いで消さない

  • 結論を出す前に踏みとどまる

そうした「賢くなる」態度が不可欠です。

AIは、この領域でも役に立ちます。
ただしそれは、考えることを代替する存在としてではなく、
考え続けるための媒介としてです。


学習とは、知識を取り込むことではない

ここまで来ると、AI時代の学習観そのものを、更新する必要があるように思えます。

AI時代の学習とは、
外から知識を取り込むことではありません。

自分自身の経験を「素材」にして、
そこに理論や概念を何度も往復させながら、
意味を編み直していくプロセスです。

言い換えれば、
コンテンツ中心主義から、人間中心主義への移行です。

AIは、知識の供給装置である以上に、
人間が人間であり続けながら学ぶための、強力な媒介になり得ます。

AI時代の学習サイクル

批判的実在論から見た、AI時代の学習の希望

最後に、再び批判的実在論に立ち返ってみたいと思います。

批判的実在論は、
私たちが観測している現象の背後に、
それを生み出す構造やメカニズムが存在すると考えます。

同時に、それらの構造は決して固定的でも、普遍的でもありません。
人間の行為や関係性によって、再生産もされるし、変化もする。

ここに、希望があります。

AIによる学習もまた、
人をバカにする構造を再生産することもあれば、
人を賢くし、変容を促す構造の一部になることもある。

その分かれ目は、
AIという技術そのものではなく、
私たちがどのような学習態度で、
どの構造にどの様に関与しようとするのか、にあります。

AIを使い倒して、バカになりながら賢くなる。
その往復を引き受けながら、
放っておけば再生産されてしまう現実の構造に、
少しずつでも介入していく。

そんな学習者・実践者が増えていくこと。
そこにこそ、AI時代の学習の本当の可能性があるのだと、私は思っています。

最後までお読みい頂きありがとうございました☆


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