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涙の正体──それは悲しみではなく、可能性への「悔しさ」だった

文章なら書けるのに、声に出そうとすると涙があふれてしまうテーマがあります。

それは、

「人の存在そのものや、人の想いが、もっと大切に扱われる社会をつくりたい。」

という願いです。

CTIのコーチングスクールでもそうでした。
会社の飲み会で締めの挨拶をするときもそうでした。
毎年取り組んでいるインターンシップでも同じです。

頭の中では話す内容が組み立てられています。

けれど、声に出そうとすると涙があふれてしまい、言葉にならない。

文章では書けるのに、声では伝えられない。

ずっと「なぜだろう」と思っていました。

悲しいのではなく、悔しい

「また泣いてしまった。」

そんな日の夜に、少しだけ見えてきたことがあります。
まず、この涙の理由は、悲しみとは少し違いました。

一言で言い切るのは難しいのですが、一番近い言葉はこれでした。

悔しい。

人の存在も、人の想いも、人のアイデアも。

私たちは、お互いをもっと大切に扱い合う知性も分別も、本当は持っているはずなのに。

子どもに対してもそうです。
挑戦者に対してもそうです。
会社組織に対してもそうです。
日本という国や社会に対してもそうです。

私は、「本当はもっと違う関係性を築ける」という可能性を知っています。
だからこそ、今の現実を見ると悔しくて仕方がない。

悲しさと悔しさの違いはどこにあるのでしょうか。

今の私なりの答えは、

悔しさには、「可能性への信頼」が含まれている。

ということです。

悲しみは、失われたものに触れる感情です。
悔しさは、「まだ変えられるはずなのに」という未来への感情です。

だから、悔しさには成長因子があります。
自分自身の可能性も、人の可能性も、社会の可能性も、諦めきれない。

その感情が、私の中では「悔しさ」なのだと思いました。

構造が見えるから、悔しい

以前、私はこんな記事を書きました。

「構造が見えてしまう。それだけでは絶望になる。」

今なら、その意味も少し違って見えます。

私が見ているのは、「今ある構造」だけではありません。

構造的には十分起こり得るにもかかわらず、まだ発現していない可能性です。

例えば、本来ならもっと活躍できるはずの仲間。
もっと伸びるはずの子ども。
もっと歓迎されるはずのアイデア。
もっと助け合えるはずの関係性。

そうした「まだ生まれていない」けれど、「十分に起こり得る未来」が見えてしまう。

だから悔しい。

しかも、その構造を短い言葉で説明することは、とても難しい。

「なんとなく違和感がある。」
「もっと良くできる。」
「半歩踏み出すだけでいいのに。」
「たった一人でも信じてくれる人がいれば……。」

そう感じても、それを数分で伝え切る言葉はありません。

その「伝わらなさ」にも、私はずっと悔しさを感じてきたのだと思います。

「人を大切に」だなんて、何を今さらと思われたかといるかもしれません。

私の願いは、概念としてこれを伝えることではなく、「大切に扱われる」という体験そのものが、この世界に増えることなんだと感じています。

「伝わらなさ」と向き合ってきた人生

振り返ってみると、私は物心ついた頃から、「余計なこと」ばかり考えてきました。

人より少し先のことを考えたり。
人が見ていない可能性を見つけたり。
頼まれてもいないのに新しい提案をしたり。

だから、人より多く断られてきました。

人より多く、「こいつ何を言っているの?」という顔をされながら、こんな言葉も何度となく受け取ってきました。

「お前はお前の仕事をしろ。」
「やることをやってから言え。」
「一人前になってから言え。」
「まずは稼いでから好きにすればいい。」
「変えたいなら出世しろ。」

もちろん、その言葉にも一理あります。

でも、当時の私には、「今感じている違和感そのもの」を受け止めてもらえなかったようにも感じていました。

順番を間違えたり、説明が長くなったり、伝え方が悪かったり。
理想主義的すぎたり、青臭すぎたり。

共有できていると思っていた前提が、実は全く共有できていなかったり。

今思えば、そんな小さな「伝わらなかった経験」と「受け止めてもらえなかった想い」を、何千回も積み重ねてきたのだと思います。

そして今でも、毎日のように、それを繰り返しています。

しかも私は、かなり敏感で傷つきやすい性格です。

挑戦する。
傷つく。
また挑戦する。

そんなことを何十年も繰り返してきました。

会話だけではありません。
詩を書いたこともあります。
音楽で表現しようとしたこともあります。
下手くそな漫画や絵を描いたこともあります。
小説も、ブログも、Noteも、YouTubeも。

振り返ると私は、「想いをどうすれば伝えられるのか」を探し続けてきた人生だったのかもしれません。

存在は、祝福されるべきもの

今回の対話で、一番大きな気づきがありました。

私が本当に願っていたのは、

「評価される社会」

ではありませんでした。

それは、「価値を認めてほしい」という願いとも、少し違いました。

私が願っていたのは、

「歓迎される社会」

だったのです。

子どもが生まれたとき、私たちは成果を評価しません。

「生まれてきてくれてありがとう。」と言います。

それは評価ではなく、祝福です。

私は、人の存在そのものも、そこに宿る想いも、アイデアも、本来はそのように扱われるべきだと思っています。

まだ見えていないだけかもしれない。
まだ言葉になっていないだけかもしれない。
まだ育っていないだけかもしれない。

だからといって、その存在が祝福されなくていい理由にはなりません。

まず歓迎する。
まず存在を認める。

その上で、

「どう育てようか。」
「どう一緒に面白くしようか。」

そう考える社会のほうが、きっと豊かです。

人も、想いも、アイデアも、「ある条件を満たしたら認める」のではなく、

まず祝福し、歓迎する。

そこから共に育てていく。

そんな関係性を、もっと社会の中に増やしていきたいと思っています。

希望とは、存在に宿る可能性を諦めない知性

私はこれまで、「希望とは知性である」と書いてきました。

今回の対話を通して、その意味が少しだけ深まりました。

希望とは、単なる楽観ではありません。
「きっとうまくいく」と信じることでもありません。

希望とは、
存在に宿る可能性を諦めない知性
なのだと思います。

人にも。
組織にも。
社会にも。

そして、自分自身にも。
まだ発現していない可能性がある。

だからこそ、悔しい。
だからこそ、諦めない。

人の存在も、想いも、アイデアも、本来はもっと祝福され、育まれる世界があり得る。

その可能性を、どうしても諦めきれない。

そんな希望が、身体からあふれ出していたのが私の涙の正体なのかもしれません。

私が泣いてしまう場には共通点がありました。
それは、私にとってはどれも、「人の成長」「人への願い」「自分が本当に大切にしていること」を、自分の言葉で伝える場だということです。

そして、その事を振り返った時に、今回一つだけ、自分の中で言葉になったことがあります。

希望とは、未来を信じることではない。
存在に宿る可能性を、見捨てないことである。

人も。
想いも。
アイデアも。
そして、自分自身も。

まず祝福する。
まず歓迎する。

そこから未来は始まるのだと、私は信じています。

だからこれからも私は、常に可能性の側に立ち続けます。

「人の存在そのものや、人の想いが、そこに生まれただけで祝福され、もっと大切に扱われる体験が溢れる社会をつくりたい。」

最後までお読み頂きありがとうございました☆

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