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餓鬼谷異聞:対決

月明かりさえ届かない、雪の肺胞の底。 源蔵は、標高一五〇〇メートル付近の岩棚で足を止めた。そこは、かつて村の男たちが「偽の道標」を立て、数多の旅人を奈落へ突き落としてきた因縁の崖の上だった。

風が止んでいた。 異常な静寂は、山の主が至近距離にいることを告げていた。

「……来たか」

源蔵は愛銃、村田銃のボルトを引き、単発の弾薬を装填する。 雪を蹴立てる音はしない。だが、前方三十メートル、濃密な闇が凝縮されたような巨大な「影」が、音もなく雪原からせり出してきた。

「耳欠け」だ。

立ち上がれば優に二メートル半を超える巨躯。その右耳は無残に引きちぎれ、剥き出しの牙からは、村人のものか、奪われた木綿の着物の繊維が混じった黒い唾液が滴っている。 獣の瞳は、もはや野生のそれではない。人間の肉の味を知り、知恵と悪意を宿した「穴持たず」の復讐者の目だった。

「グォ……」

地響きのような低いうなり声が、源蔵の足元を揺らす。 源蔵は銃を構えた。狙いは眉間。だが、相手はあまりに速かった。

耳欠けが雪を爆ぜさせ、弾丸のような速度で突進してくる。 源蔵は引き金を引いた。

――ドンッ!

鈍い銃声が谷に響く。 弾丸は耳欠けの左肩を貫いたが、致命傷には至らない。獣は止まらず、丸太のような前足が源蔵の視界を覆った。

「ぐっ!」

源蔵は咄嗟に銃身で払い、雪原を横へ転がった。鋭い爪が源蔵の頬をかすめ、鮮血が新雪を汚す。 立ち上がる間も与えず、耳欠けが再び襲いかかる。源蔵は腰のナガサ(マタギ刀)を抜き放ち、突進してくる巨躯の下へ自ら潜り込んだ。

死の抱擁。 獣の熱い吐息と、むせ返るような血の匂いが鼻を突く。 源蔵は渾身の力を込め、ナガサを獣の脇腹、心臓を目掛けて突き立てた。

「これで……終わりにすっぞ!」

ドスッという嫌な手応えと共に、刀身が根元まで埋まる。 しかし、耳欠けは怯まなかった。それどころか、傷口をさらに深く抉らせることを厭わず、残った前足で源蔵の体を抱き込み、その強靭な顎を源蔵の肩へと突き立てた。

「ガァッ!!」

源蔵の鎖骨が砕ける音がした。 互いの血が混じり合い、雪を赤黒く染めていく。 源蔵は薄れゆく意識の中で、崖の縁を見た。そこには、村人が立てた偽の案内板が、今も風にカタカタと震えている。

(……ああ、これも山の計らいか)

源蔵は残った力を振り絞り、ナガサを握る手に体重を乗せたまま、獣と共に崖の縁へと体を投げ出した。

「……連れて行ってやる。俺も、この村の罪も」

一瞬、浮遊感。 月光を浴びた「白い煉獄」が、二人を飲み込むために口を開けていた。 源蔵は最期に、耳欠けの瞳を見た。そこには恐怖ではなく、ようやく深い眠りにつけるという安堵のような色が、一瞬だけ宿った気がした。

翌朝。 谷底へ続く雪庇は無残に崩れ、そこには二つの命が消えた痕跡だけが残っていた。 吹き荒れる風が、すべてを均一に白く塗り潰していく。

数日後、救助隊が谷を訪れたとき、村には人っ子一人残っていなかった。 ただ、峠の頂には、どこへも辿り着けない「偽の道標」だけが、空しく空を指していた。

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動画リンク
https://youtu.be/piMN0PIcUco

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