その朝、長野県警が発した緊急連絡は、南アルプス一帯の山小屋に戦慄を走らせた。 『昨日未明、麓の精神科療養所より、重度の被害妄想を患った女性患者一名が脱走。山中へ逃走した模様。発見しても決して近づかず、直ちに通報せよ』
竹田は、南アルプスの深部、地図上では点線ですら省略された廃道を辿っていた。 標高二、三〇〇メートル。この界隈は、這松(はいまつ)と花崗岩の礫(れき)が織りなす荒涼とした風景が続き、一度ガスに巻かれれば、熟練の登山家といえども方向感覚を失う「死の領域」である。
九月中旬の気圧配置は不安定だった。竹田のアネロイド気圧計の針は、数時間前から不気味な下降を示している。
異変に気づいたのは、彼が「独標(どっぴょう)」と呼ばれる突き出した岩塊を越えた直後であった。 背後、およそ五〇メートル。 ハイマツの影から、ひらりと白い布のようなものが揺れた。
(……人か?)
竹田は足を止めた。双眼鏡を取り出し、ピントを合わせる。 レンズの中に映し出されたのは、あまりに場違いな女の姿であった。 薄汚れ、ぼろぼろになった白いワンピース。足元は裸足に近い。何より異常なのは、その立ち姿であった。 彼女は、険しい岩稜帯に立ちながら、微動だにせず竹田を見つめていた。その目は、感情の欠落した黒い穴のようであった。
竹田はあえて声をかけず、再び歩き始めた。関われば、この厳しい山行に支障が出る。
一時間後。 竹田が急峻な痩せ尾根を越え、ふと振り返ると、女は依然として五〇メートル後方にいた。 彼は歩調を上げた。心拍数は一四〇を超え、肺が冷たい空気を激しく求める。 だが、どれほど速度を上げようとも、どれほど険しい岩場を通過しようとも、振り返れば、女は必ず「五〇メートル後ろ」に立っているのだ。
彼女は何もしない。 叫ぶわけでも、助けを求めるわけでもない。 ただ、竹田が足を止めれば彼女も止め、竹田が進めば彼女も進む。 その距離は、定規で測ったかのように正確であった。
「おい! 何の用だ!」
竹田は怒鳴った。声は岩壁に跳ね返り、空虚に響いた。 女は答えない。ただ、首をわずかに傾け、竹田を凝視し続けている。
夕闇が迫り、山が墨色に染まり始めた。 竹田は焦燥に駆られ、幕営地でもない斜面に無理やりツェルト(簡易テント)を張った。 夜の寒気は容赦なく体温を奪う。彼はストーブに火を灯し、震える手でコーヒーを啜った。
ふと、気配を感じてツェルトの隙間から外を覗いた。 月光に照らされた岩の上に、彼女は座っていた。 五〇メートル先。食事を摂る様子も、寒さに震える様子もない。 ただ、じっと、竹田のツェルトを見つめている。
(……なぜだ。なぜついてくる。)
竹田の脳裏に、合理的ではない疑念が湧き上がった。 あれは本当に人間なのか。この高度、この気温で、あのような格好で生存できるはずがない。 精神病院を逃げ出した女? いや、それは自分の脳が作り出した「もっともらしい説明」に過ぎないのではないか。
深夜、竹田の理性はついに限界を迎えた。 静寂が、耳鳴りのように脳を圧迫する。 五〇メートル先に座り続ける「影」の存在が、放射能のように彼の精神を焼き切ろうとしていた。
「来るな……来るなと言っているんだ!」
竹田はツェルトを飛び出し、女に向かって石を投げた。 石は暗闇に消え、手応えはない。 女は立ち上がり、静かに数歩下がった。 やはり、距離は「五〇メートル」のままだ。
竹田は笑い始めた。 暗黒の山嶺に、乾いた笑い声が響く。 彼はザックを放り出し、空身で走り出した。逃げるためではない。その「距離」をゼロにするためだ。 岩を掴み、崖を降り、死に物狂いで彼女へと肉薄する。
だが、彼が近づけば近づくほど、女は音もなく後退していく。 まるで鏡像のように、あるいは磁石の同極同士のように、その距離は決して縮まらない。
「ああ、そうか……。わかったぞ。」
竹田は、自分が何を理解したのかも分からぬまま、恍惚として呟いた。 空には満天の星が、冷酷なまでに輝いている。 彼はもはや、自分が登山者であることも、下山すべき道があることも忘れていた。
翌朝、通りかかった登山パーティが、稜線から数百メートル下の谷底を見下ろして凍りついた。 そこには、一人の男が、何もない空間に向かって手を伸ばした形のまま、凍死していた。
奇妙なことに、その遺体の周囲五〇メートルの円周上には、雪の上にぐるりと「裸足の足跡」が、完璧な円を描いて残されていたという。
山岳警備隊がその足跡を辿ろうとしたが、足跡はある一点で、まるで煙のように途絶えていた。 山岳気象の記録によれば、その夜の最低気温はマイナス五度。 人間が裸足で歩けるはずのない、峻烈な夜の出来事であった。
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