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餓鬼谷村(がきだにむら)

あらすじ
大正末期、飛騨山脈の寒村「餓鬼谷」。そこは吹雪の夜、旅人を偽の道標で絶壁へと誘い、遺体から略奪を繰り返す「餓鬼」たちの棲家だった。ある夜、村人が死体を捨て場に投げ込んだことで、冬眠中の巨大熊「耳欠け」が狂暴な食人獣として目覚めてしまう。奪った防寒着の血の匂いを辿り、村を蹂躙し始める獣。孤高のマタギ・源蔵は、自らが生み出した「山の呪い」を断ち切るため、村田銃一丁を手に雪原へと歩み出す。極限の雪山で繰り広げられる、人間と獣の業を描いたサバイバルホラー。


序章:閉ざされた谷

大正十五年、十二月。 飛騨山脈の北端、標高にして一千メートルを優に超える位置に、その村はあった。 名を「餓鬼谷(がきだに)」という。
地理学的に見れば、そこは神が設計を誤ったかのような場所であった。 村が位置するのは、後立山連峰の峻険な稜線が複雑に絡み合い、深い皺を刻んだ谷の底だ。地質は脆弱な破砕帯(はさいたい)で構成され、常に崩落の予兆を孕んでいる。夏は湿った空気が澱(よど)み、冬になれば日本海から吹きつける湿った北西風が山壁に衝突し、絶望的な量の積雪をもたらす。
「……また、この音が始まったか」
村外れの一軒家。古びた囲炉裏の傍らで、源蔵は独りごちた。 外では、地鳴りのような風の音が轟いている。それは「鳴る」というよりは、巨大な獣が肺の奥底から絞り出す「咆哮」に近い。気圧計の水銀柱は、数時間前から目に見えて降下を続けていた。等圧線が異常な密度でこの谷を跨いでいることを、源蔵は長年の経験から察知していた。
この時期の餓鬼谷を支配するのは、色を失った白の世界――「白い煉獄」である。 一度吹雪が始まれば、一寸先は文字通りの無へと帰す。積雪は一晩で一メートルを容易に超え、家々の茅葺き屋根は雪の重みに喘ぎ、沈黙のうちに押し潰されていく。
だが、この谷が「餓鬼」の名を冠する真の理由は、気象の過酷さだけではなかった。 ここには、文明の光が届かない。大正という時代が、帝都東京でデモクラシーやモダン文化に沸いている一方で、この谷では、太古から続く「飢え」という名の冷徹な法がすべてを支配していた。
耕作地は「猫の額ほど」という言葉ですら過分なほどに狭く、痩せ細っている。初夏に植えた稗(ひえ)や粟(あわ)も、冷害によって半分も収穫できれば御の字だった。 冬になれば、蓄えはすぐに底を突く。 源蔵は知っている。十二月の末にもなれば、村のあちこちから「衰弱死」が報告されることを。 それは病死でも事故死でもない。単に、生命を維持するための熱量が、冷気によって吸い尽くされただけの結果だ。死体は凍りつき、カチカチになった状態で、春に雪が解けるまで納屋の隅に放置される。 そんな環境で、倫理や道徳といった、腹の足しにもならない贅沢品は、真っ先に雪の下に埋め殺された。
源蔵は囲炉裏にくべた薪を火箸で突いた。 彼の膝の上には、丹念に手入れされた一本の銃が置かれている。 村田式歩兵銃。 日清、日露の戦場を駆け抜けた旧式の単発銃だが、源蔵にとっては己の命を繋ぐ唯一の友であり、マタギとしての誇りそのものであった。 彼は他の村人とは異なり、この谷で唯一、山の均衡(バランス)を知る男だった。 山から必要以上のものを奪わず、奪いすぎた者には山が必ず報復することを、彼はその肌で理解していた。
「源蔵さん、いるか。利助だ」
不意に、厚い板戸を叩く音がした。風の咆哮に混じって、若く、しかしどこか濁った声が響く。 源蔵が重い腰を上げ、戸を細く開けると、そこには雪まみれになった利助が立っていた。 頬は凍傷で黒ずみ、瞳には飢えと、それゆえの不気味な高揚が宿っている。
「……何用だ。この嵐の中を」
「風向きが変わったぜ。今夜は、来る」
利助の声は低かったが、確信に満ちていた。 源蔵は、利助の背後の闇を見た。 その先にある峠の難所。そこには、数日前に利助たちが工作した「偽の道標」がある。 本来の安全な道筋にある石仏を雪で覆い隠し、代わりに断崖絶壁へと続く獣道の先に、あたかも温かな山小屋の明かりに見えるよう、カステラ灯(角灯)を模した偽の灯火を置く。
旅人は、ホワイトアウトの中でその光を救いと信じ、最後の一歩を踏み出す。 その先にあるのは、温かな暖炉でも温かいスープでもない。 数百メートルの暗黒。 重力という名の、峻厳な自然の処刑である。
「また、やるのか」
源蔵の言葉には、非難の色は薄かった。ただ、諦念が混じっていた。 この村にとって、滑落死した旅人の荷物は、天から降ってくる「山の恵み」と同義であった。 米、塩、着物、銀銭。 それらは、餓鬼谷の住民が、もう一ヶ月だけ生き延びるための「糧」となる。
「死ななきゃ、俺たちが死ぬんだ。源蔵さん、あんただって分かってるはずだ。これは『狩り』なんだよ。獲物が、たまたま二本足だったってだけの話だ」
利助は吐き捨てるように言い、雪の中に消えていった。 源蔵は独り、闇の中へ向かう利助の背中を見送った。
外の風が、さらに一段と強度を増した。 二つ玉低気圧が、飛騨山脈の背骨を今まさに乗り越えようとしている。 気圧の急激な変化は、人間の精神をも狂わせる。だが、狂うのは人間だけではない。
源蔵はふと、村の外れにある「風穴」の方角を見やった。 地熱の影響で冬でも凍らない、あの不気味な竪穴。 村人たちが罪を投げ捨てるゴミ捨て場。 その奥底で、何かが蠢き、冷たい大気を吸い込み始めている予感があった。
山の均衡が、今、決定的に崩れようとしていた。


第一章:白い罠と獲物たち

富山、すなわち越中の国から信州へと抜ける「薬売り」の一行にとって、後立山連峰を越える旅は、常に死と隣り合わせの博打であった。  一行は五名。  先頭を行くのは、この道三十年のベテラン、平助(へいすけ)だった。背中には、漆塗りの重厚な薬箱を背負い、その中には「反魂丹(はんごんたん)」をはじめとする越中の秘伝薬が詰め込まれている。  彼らの後に続くのは、まだ二十歳にもならない若手の三吉(さんきち)と、屈強な荷運びの男たち三名。
「……平助さん、これあ、いけねえ。風の音が変わった」
三吉が震える声で叫んだ。  つい一時間前まで、空には冬の薄日が射していた。しかし、山の天気は気まぐれなどという生易しいものではない。日本海側から急速に発達しながら進んできた「二つ玉低気圧」が、その凶悪な触手を山脈へと伸ばしてきたのだ。
風が、雪を「降らせる」のではなく、地面から「削り取って」吹き上げる。  視界はまたたく間に十メートル、五メートルと縮まり、やがて自分の伸ばした手の先すら見えない完全な「ホワイトアウト」へと変貌した。  気温は急降下し、濡れた吐息が即座に睫毛や眉毛に氷となってこびりつく。
「止まるな! 止まればそのまま凍りつくぞ! 記憶を頼りに、峠の石仏を探せ。そこまで行けば、風を避けられる岩陰があるはずだ!」
平助は必死に声を張り上げた。だが、その声すらも、風速四十メートルに達しようとする咆哮にかき消される。  彼らが背負う薬箱は、今やただの重りだった。雪に足を取られるたび、箱の角が肩に食い込み、体力を容赦なく削っていく。
一歩、また一歩。  感覚の消えた足で、彼らは雪の壁を泳ぐように進んだ。  平助の脳裏には、地図が完璧に刻まれているはずだった。この先、道は二手に分かれる。左は険しいが最短の峠道、右は緩やかだが遠回りの谷道。その分岐点には、古びた石仏が鎮座しているはずだった。
「あった……石仏だ!」
三吉が歓喜の声を上げた。  雪の中に、うっすらと人型のシルエットが見える。  だが、彼らは気づかなかった。その石仏が、本来の場所から動かされ、本来の道とは逆方向を指し示すように、利助ら村人によって偽装されていることに。
「こっちだ、右だ! 右の道が正解だ!」
平助は安堵した。石仏が右を指している(ように見えた)。  一行は、導かれるように「獣道」へと足を踏み入れた。それは、村人たちが数日前から踏み固め、あたかも「多くの人間が通った本道」であるかのように細工された、死への滑走路であった。
風はさらに猛威を振るい、一行の意識を朦朧とさせる。  低体温症が始まっていた。三吉の意識は遠のき、ただ前の人間の背中だけを追う機械的な運動に成り果てていた。
その時だった。  真っ白な闇の向こう側に、小さな、しかし温かな「光」が灯った。
「……明かりだ。山小屋の明かりだぞ!」
誰かが叫んだ。  それは、絶望の淵に立たされた彼らにとって、神の救済に見えた。  ゆらゆらと揺れる橙色の光。それは、村の男たちが絶壁の縁に置いた「カステラ灯(角灯)」であった。  カステラ灯は、雪の中でも消えないよう、特別に設えられた木箱の中で蝋燭を灯したものだ。ホワイトアウトの中では、光源の正確な距離感は掴めない。旅人たちは、その光が「すぐそこにある温かい部屋」の窓明かりだと錯覚した。
「助かった……これで、助かるんだな」
三吉は涙を流した。凍った涙が頬を切り裂く。  一行は、競い合うように光の方へと駆け寄った。  重い薬箱を背負ったまま、最後の力を振り絞り、雪を蹴立てて進む。
光まで、あと五メートル。  三メートル。  二メートル。
先頭の平助が、光を掴もうと手を伸ばした瞬間。  足元の感覚が、唐突に消失した。
「……え?」
平助の視界から、雪面が消えた。  そこは、道ではなかった。  風によって張り出した「雪庇(せっぴ)」――土台のない、雪だけの庇(ひさし)の上だったのだ。  五人の重みに耐えかねた雪庇が、雷鳴のような轟音と共に崩落した。
「うわあああぁぁぁぁ!」
悲鳴は、暴風の中に一瞬で吸い込まれた。  平助は、自分が空を飛んでいるような錯覚に陥った。  次の瞬間、凄まじい衝撃が全身を貫き、漆塗りの薬箱が粉々に砕ける音が聞こえた。  数百メートル下の谷底。そこは、餓鬼谷村の男たちが「獲物」を待ち構える、天然の処刑場だった。
雪の上に投げ出された平助は、辛うじて生きていた。  だが、両足は不自然な方向に曲がり、内臓が破裂しているのか、口から熱い血が溢れ出す。  隣では、三吉が首の骨を折り、見開いた瞳で夜空を見つめていた。
朦朧とする意識の中で、平助は聞いた。  雪を踏み締める、複数の足音を。
「……お、おい……助けて……」
平助は、暗闇に浮かぶ人影に手を伸ばした。  助かった。人が来てくれた。  だが、近づいてきた利助の顔には、同情の色など微塵もなかった。  利助は無言で、平助の指に嵌められていた銀の指輪を力任せに引き抜いた。
「ぎ、あああ!」
「いい獲物だ。越中の薬売りは、いつもいい着物を着てやがる」
利助の背後から、他の男たちが現れた。  彼らは手慣れた手つきで、まだ息のある者からも、容赦なく防寒着(どんざ)を剥ぎ取り、懐の銀銭を奪っていく。  それは救助ではなく、屠殺に近い「解体」の作業だった。
「源蔵さんの言う通り、今夜は豊作だな。これだけの塩と米があれば、この冬は越せるぜ」
男たちの笑い声が、風の咆哮に混じる。  平助は、自分が何に嵌められたのかを理解した。  この村は、山ではない。山に棲みついた「餓鬼」そのものなのだ。
死にゆく平助の視界の端で、男たちが遺体を次々と引きずっていくのが見えた。  向かう先は、村外れの暗い穴。  地熱で雪が溶け、湯気が立ち昇る不気味な竪穴――「風穴」である。
ドサッ、ドサッ。
物言わぬ肉塊となった薬売りたちは、暗黒の底へと投げ込まれた。  そこが、この山域の真の支配者の「寝所」であるとも知らずに。
風穴の底。  暗闇の中で、一対の巨大な瞳が、カッと見開かれた。  鼻孔をくすぐる、強烈な「血の匂い」と「新鮮な肉」の芳香。  空腹の限界で眠りに就こうとしていた巨大獣――「耳欠け」が、人間の罪によって、地獄から呼び戻された瞬間であった。


第二章:罪の収穫と山の掟

谷底に吹き溜まった新雪は、あらゆる悲鳴と断末魔を吸い込み、ただ無機質な白さで沈黙していた。  崖下へ降りた利助たち五人の男は、腰まで埋まる雪を掻き分け、平助たちが墜落した地点へと辿り着いた。松明の火は強風に煽られ、狂ったように影を躍らせる。
「……死んでるか」
一人の若者が、雪から突き出た三吉の腕を蹴飛ばした。反応はない。骨が砕ける嫌な感触だけが伝わる。利助は鼻を鳴らし、平助の遺体の上に跨がった。  平助の目はまだ開いていた。凍てつく寒さと激痛の中で、彼の意識の最後の欠片は、自分の上に覆い被さる利助の影を、救いの神だと誤認したまま消えようとしていた。
「いい着物だ。信州のどんざ(防寒着)は綿が厚い」
利助は平助の胸ぐらを掴み、容赦なくその衣服を剥ぎ取り始めた。硬直の始まった死体から服を脱がせるのは、並大抵の重労働ではない。利助は懐から研ぎ澄まされた出し入れ釘を取り出すと、平助の服の合わせ目に刃を立て、無造作に切り裂いていった。
それはもはや、人間が行う作業ではなかった。猟師が獲物の皮を剥ぐ、その手つきそのものだ。  他の男たちも、散らばった薬箱の中から、銀銭の入った財布や、高価な反魂丹、保存食の干し肉を貪るように回収していく。
「利助! 見ろ、こいつは塩を持ってやがる。二貫はあるぞ!」
一人が歓喜の声を上げた。餓鬼谷において、塩は金よりも価値がある。冬の間に獲った獲物を保存し、自らの命を繋ぐための聖遺物だ。  彼らの顔には、罪悪感など微塵もなかった。あるのは、明日も生きられるという野卑な安心感と、他者の不幸を「収穫」と呼ぶ狂気だけだった。
「……全部剥いだか。なら、さっさと穴へ放り込め。夜明けまでに痕跡を消さねえと、山狩りが入る」
利助の指示で、男たちは「肉塊」となった五人の遺体の足を掴み、雪の上を引きずり始めた。雪面には、赤黒い筋が五本、村外れの「風穴」に向かって引かれていく。
風穴は、村の北端、古びた水神の祠の裏手に口を開けていた。  標高が高いこの地にあって、その穴の周囲だけは雪が積もらない。地熱を帯びた湿った空気が、地の底から絶えず吐き出され、不気味な湯気を揺らしている。村人にとってここは、生活の汚物や、表に出せない「不都合なもの」を葬るための、底なしのゴミ捨て場であった。
「せーの、でいくぞ」
ドサッ、という鈍い音が連続して響いた。  平助、三吉、そして名前も知らぬ三人の男たち。彼らの遺体は、暗黒の縦穴へと吸い込まれ、二度と戻らぬ旅へと出た。  利助たちは穴の縁に溜まった血を雪で隠すと、略奪した品々を抱え、勝利者の足取りで村の中心部へと戻っていった。
だが、彼らは見ていなかった。  風穴の縁から少し離れた岩陰で、村田銃を抱えた源蔵が、その一部始終を冷徹な眼差しで見つめていたことを。
源蔵は、手元の気圧計に目を落とした。  指針はさらに下がり、嵐のピークが近いことを示している。だが、彼の胸を騒がせているのは気象の変化ではない。  風穴から漂ってくる、異様な「匂い」だった。  それは死臭ではない。  長い眠りから強引に引き起こされた獣が放つ、濃厚な脂の匂いと、飢餓感に満ちた熱気だ。
「……馬鹿野郎どもが。あそこに何を投げ込んだか、分かってねえ」
源蔵は低く吐き捨てた。  この一帯には、代々伝わる山の主がいた。右の耳が欠け、四十貫(約百五十キロ)を超える巨躯を持つツキノワグマ――通称「耳欠け」だ。  本来、熊は冬眠に入る前、己の腸(はらわた)を空にする。不純物が残ったまま眠れば、体内での腐敗が命取りになるからだ。  しかし、今年は暖冬の影響で、耳欠けは十分な脂肪を蓄えられぬまま、不完全な眠りに就いていた。そこへ、利助たちが「新鮮な血肉」を立て続けに放り込んだのだ。
風穴の底では、凄まじい変異が起きていた。  暗闇の中、平助の遺体の上に、巨大な前足が乗せられた。  一度は活動を停止しかけていた心臓が、血の匂いという強烈な刺激を受け、再び脈打ち始める。  獣の鼻腔が広がり、人間の肉の味を記憶する。    通常、野生の獣は人間を避ける。だが、一度「人間は容易に手に入る食料である」と理解した個体は、もはや野生の秩序には戻らない。  それは「穴持たず」と呼ばれる、狂暴な食人獣への変貌であった。  耳欠けの瞳に、知恵と、そして人間に嵌められたことへの憎悪に似た光が宿る。
翌朝。  村は、奪い取った食料と防寒着によって、皮肉な活気に満ちていた。  利助の家からは、剥ぎ取ったばかりの木綿の着物を焚き火で乾かす、香ばしいような、しかしどこか生臭い匂いが漂っている。
源蔵は村の小道を歩き、利助の家の前で足を止めた。  軒先には、三吉が持っていたであろう、小さな守り刀が誇らしげに飾られている。
「利助、その着物を捨てろ」
源蔵の言葉に、囲炉裏で酒を煽っていた利助が顔を上げた。
「……何言ってんだ、源蔵さん。せっかく手に入れた一級品だぜ。これを着てなきゃ、今夜の冷え込みで凍死しちまう」
「匂いが消えねえ。雪で洗おうが、焚き火で炙ろうが、死んだ奴の血と脂の匂いは、獣には丸見えだ」
「獣だぁ? こんな大吹雪の中に、何が出るってんだよ。熊だって寝てる時間だぜ」
利助は鼻で笑い、再び酒を喉に流し込んだ。  周りの男たちも、源蔵の忠告を「老いぼれの被害妄想」だと嘲笑った。  源蔵はそれ以上何も言わず、踵を返した。  山の均衡は、もはや修復不可能なほどに破壊された。    その日の夕刻。  放射冷却によって気温はマイナス二十度を下回り、雪面は氷のように硬く閉ざされた。  村を包囲する静寂は、まるですべての生命が息を殺して、何かの到来を待っているかのようだった。
深夜。  利助の家の厚い板壁が、まるでおもちゃのように粉砕される音が響き渡った。
「――ガアッ!!」
それは、この世のものとは思えない咆哮だった。  利助の絶叫が、真冬の夜気に突き刺さる。  だが、彼を救いに行く者は誰もいなかった。  村人たちはそれぞれの家で震えながら、自分たちが「偽の道標」として呼び寄せたものが、今度は自分たちを「獲物」として指し示していることに、ようやく気づき始めたのである。


第三章:蹂躙される夜

板壁が砕ける乾いた音は、凍てつく夜の静寂を粉々に粉砕した。  利助の家の中に雪混じりの冷気がなだれ込み、囲炉裏の火が激しく踊る。その逆光の中に、壁よりも巨大な「闇」が立ち塞がっていた。
「……あ、あ……」
利助の喉からは、言葉にならない掠れた音しか出なかった。  目の前にいるのは、単なる獣ではない。  雪を纏った毛並みは針のように逆立ち、右耳が欠けたその頭部は、家屋の梁に届くほどに高い。何より恐ろしいのは、その瞳だ。獲物を探す獣の濁った光ではなく、自分をこの冬空に引きずり出した者たちを明確に選別するような、冷徹な殺意が宿っていた。
「ガァッ!!」
咆哮一閃。  利助が反射的に振り回した火箸を、耳欠けの巨爪が紙屑のように弾き飛ばした。  次の瞬間、利助の視界が反転した。  強靭な顎が、利助の肩に食い込む。いや、食い込むという表現では生ぬるい。剥ぎ取ったばかりの木綿の着物(どんざ)ごと、肉と骨を「咀嚼」したのだ。
利助の絶叫は、二度目の咆哮によって掻き消された。  耳欠けは利助を咥えたまま、紙細工のように家の外へと引きずり出した。雪の上に鮮血の帯が引かれ、利助の意識は、自分が奪った薬売りたちの末路をなぞるように、深い闇へと落ちていった。
隣家で震えていた村人たちは、利助の絶叫を聞いてパニックに陥った。  ある者は竹槍を手に取り、ある者は古びた猟銃を抱えて外へ飛び出した。だが、彼らが目にしたのは、自然界の均衡を完全に踏み越えた「化け物」の姿だった。
「撃て! 撃ち殺せッ!」
村の男の一人が、震える手で村田銃の引き金を引いた。  ドンッという銃声が響くが、弾丸は耳欠けの分厚い脂肪と冬毛に弾かれ、致命傷には至らない。  耳欠けは、銃声を恐れるどころか、それを発した人間へ向かって弾丸のような速度で突進した。雪を爆ぜさせ、時速四十キロを超える速度で肉薄する。
「ぎゃあああ!」
男の身体は、耳欠けの一撃で空中に舞い、立木に激突して動かなくなった。  耳欠けは、倒れた男には目もくれず、次々と家々の扉を破壊し始めた。  その行動には、ある明確な法則があった。    ――匂いだ。    源蔵の警告通り、耳欠けは「奪われた着物」と「薬売りの荷物」の匂いを執拗に追っていた。  風穴に投げ込まれた遺体の匂い、薬箱から溢れた生薬の匂い。それらを発する家だけを、正確に、そして残虐に選んで襲撃しているのだ。    村人たちはようやく、自分たちが手にした「山の恵み」が、今や自分たちを死へと導く「偽の道標」に変貌したことを理解した。
「着物を捨てろ! 荷物を外へ放り出せ!」
誰かが叫んだ。  恐怖に駆られた村人たちは、昨日まで宝物のように抱えていた防寒着を雪の中に投げ捨て、銀銭の入った袋を暗闇へと放り投げた。  だが、遅すぎた。  一度人間の肉の味を覚え、その「弱さ」を知った耳欠けにとって、もはや荷物は刺身のツマに過ぎない。真の獲物は、その内側に隠れた温かい血肉であることを、獣の知能は完全に学習していた。
深夜二時。  餓鬼谷村は、生きながらの地獄と化した。  放射冷却によって気温はマイナス二十五度まで下がり、外へ出れば数分で身体が凍りつく。しかし、家の中にいれば耳欠けの牙が待っている。    人々は極寒の雪原へ逃げ出し、そこで凍死するか、あるいは闇から迫り来る巨大な影に捕食されるかという、二択を迫られた。    源蔵は、自らの小屋の屋根の上から、その惨劇を静かに見つめていた。  彼の小屋には、奪い取った品など一つもない。耳欠けは源蔵の存在を認識しているはずだが、あえて無視している。それは、源蔵が「山の秩序」の一部であることを、獣が本能で察知しているからだろう。
「……あいつは、村を食い尽くす気だ」
源蔵は傍らの村田銃を強く握りしめた。  このままでは、夜が明ける頃には餓鬼谷から人の気配は消えるだろう。  それは、自然による「清掃」だった。  偽の道標を立て、旅人の命を啜って生きてきたこの村そのものが、山にとっては排除すべき異物となっていたのだ。
不意に、雪を蹴立てる巨大な足音が源蔵の小屋の真下で止まった。  耳欠けだ。    獣はゆっくりと頭を上げ、屋根の上の源蔵を見据えた。  月光の下、その右耳の欠損した断面が痛々しく光っている。  耳欠けの瞳は、もはや狂気に染まってはいなかった。そこにあるのは、自らを「穴持たず」へと貶めた世界に対する、深淵のような虚無感だった。
「……待ってろ。すぐに行ってやる」
源蔵が低く呟くと、耳欠けはまるで承知したかのように短く鼻を鳴らし、再び村の深部へと消えていった。
朝が来る。  だが、その朝は、餓鬼谷にとっての「終焉」の始まりに過ぎない。  源蔵はゆっくりと屋根から降り、冷え切った銃身を抱いて、一人、村の境界線へと歩き出した。


終章:均衡を正す者

夜明けは、研ぎ澄まされた刃のような鋭い冷気と共に訪れた。  雲一つない紺碧の空の下、新雪は残酷なほどに美しく輝いている。だが、その白銀の絨毯の下には、昨夜の惨劇が凍りついたまま埋もれていた。
源蔵は、村の中央道を一人歩いていた。  かつて活気のあった家々は、今や沈黙する墓標と化している。粉砕された板壁からは、血に濡れた畳や、食い散らかされた家財が剥き出しになっていた。  雪の上には、あちこちに「戦利品」だった木綿の着物や銀銭が、持ち主だった者たちの体の一部と共に散乱している。それらはもはや何の価値も持たず、ただ凍てつく山風に吹かれてカタカタと乾いた音を立てるだけだった。
「……誰も、いなくなったか」
源蔵の声は、白く凝固して虚空に消えた。  彼は村を救おうとしたのではない。救えるはずもなかった。  彼が背負っているのは、人間としての情ではなく、マタギとしての、あるいは山の一部としての「冷徹な義務感」だった。  人間が山の掟を破り、私欲のために旅人を殺し、その結果として「穴持たず」という異形を生み出した。その狂ってしまった天秤の重りを、自らの命を持って等しく戻さねばならない。
村の境界線。  そこから峠へと続く急斜面に、巨大な一本の足跡が刻まれていた。  引きずった跡はない。耳欠けは、もはや獲物を運ぶ必要すらないほど、その腹を村人たちの血肉で満たしているはずだった。足跡は真っ直ぐに、あの因縁の崖――「偽の道標」が立つ場所へと向かっている。
「そこで待っているんだな」
源蔵は愛銃、村田銃のボルトを引き、一発の弾薬を装填した。  薬室に滑り込む金属の音。それが、この静寂の世界で唯一、人間の意志が介在する音だった。
標高一千五百メートル。  「偽の道標」が立つ岩棚に辿り着いたとき、風が止んだ。  気象の空白地帯。その中心に、それはいた。
耳欠けは、崖の縁に座り込み、遥か眼下の村を見下ろしていた。  朝日を浴びたその姿は、神々しくすらある。右耳の欠損はもはや傷ではなく、この山の荒ぶる神の象徴のように見えた。  源蔵が十メートルの距離まで近づくと、耳欠けはゆっくりと立ち上がった。    二メートル半を超える巨躯。  吐き出す息は蒸気機関のように白く、激しく。  その瞳に映っているのは、もはや食欲ではない。自分と同じく、この山の一部としてしか生きられない、孤独な「同族」を見つめるような静かな眼差しだった。
「グォ……」
地響きのような低いうなり。  源蔵は銃を構えた。狙いは眉間。村田銃の単発の弾丸。外せば、次はない。    刹那。  耳欠けが雪を爆ぜさせ、弾丸のような速度で突進してきた。  その速さは、もはや生物の限界を超えている。  源蔵は呼吸を止め、引き金を絞った。
――ドンッ!
鈍い銃声が、冷たい大気を震わせた。  弾丸は耳欠けの左肩を貫き、鮮血が噴き出す。だが、四十貫の巨体はその衝撃すら飲み込み、一歩も怯まない。  源蔵の視界が、巨大な黒い影に覆われた。   「ぬうぉっ!」
源蔵は咄嗟に銃身を盾にし、横へと転がった。  直後、耳欠けの前足が、源蔵がさっきまでいた岩場を粉砕した。火花が散り、石の破片が源蔵の頬を切り裂く。    銃は折れた。  源蔵は素早く腰のナガサ(マタギ刀)を抜き放つ。  耳欠けは再び襲いかかってきた。今度は、逃げる隙を与えないための「抱擁」――ベアハッグだ。  源蔵はあえて、その死の懐の中へと飛び込んだ。    獣の熱気。  人間の血が混じった、むせ返るような脂の匂い。   「これで……終わりにすっぞ!」
源蔵は渾身の力を込め、ナガサの刀身を耳欠けの脇腹、心臓の位置を正確に狙って突き立てた。  ドスッ、という、肋骨を断ち切る感触が腕に伝わる。  同時に、耳欠けの牙が源蔵の肩に食い込んだ。   「ガァァァッ!!」 「ぐあああっ!」
肉が千切れる音と、骨が砕ける音が重なる。  互いの血が混ざり合い、真っ白な新雪を赤黒い汚泥へと変えていく。  激痛で意識が飛びそうになる中、源蔵は崖の縁を見た。  そこには、風に揺れる「偽の案内板」があった。   (……俺も、この村の餓鬼の一人だったのかもしれねえ)    山を守るふりをして、村の狂気を見て見ぬふりをしてきた。  その罪を清算する場所は、ここしかない。    源蔵はナガサを握る手に最後の力を込め、さらに深く抉り込みながら、自らの身体を崖の向こう側へと投げ出した。   「……連れて行ってやる。俺も、この村の業も。全部だ」    耳欠けの瞳が、一瞬だけ見開かれた。  そこには、ようやく地獄から解放されるという安堵のような色が宿った気がした。    一瞬の浮遊感。  月光を反射した「白い煉獄」が、二人を飲み込むために、優しく口を開けていた。    ――。    数日後。  二つ玉低気圧が過ぎ去り、抜けるような冬晴れの下、救助隊の一行が峠に辿り着いた。  だが、彼らが目にしたのは、人の気配が完全に消え去り、雪に埋もれた「沈黙の村」だけだった。    峠の頂には、一本の案内板が、どこへも辿り着けない虚空を指してカタカタと震えていた。  その足元から崖下へと続く崩落の跡は、新雪によって美しく覆い隠され、そこになにがあったのかを物語るものは何一つ残っていない。    山は、ただ静かに、そこにあった。    春になれば、雪は解け、血も、肉も、そして罪も、すべては山の一部へと還るだろう。  後に残るのは、人智を超えた峻厳な山脈の、永遠とも思える静寂だけであった。


#創作大賞2026

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