餓鬼谷村(がきだにむら)
「その看板を信じた者は、二度と生きて帰ることはできない……。」
大正末期、北アルプスの北端、飛騨山脈の深い襞(ひだ)に隠れるように存在する「餓鬼谷(がきだに)」という集落があった。 この村の冬は、気象学的に見ても異常であった。日本海から吹き付ける湿った北西風が、後立山連峰の峻険な稜線に衝突し、狭隘な谷間に絶望的な量の積雪をもたらす。積雪は容易に五メートルを超え、一度吹雪けば、そこは生命の存在を拒絶する「白い煉獄」と化した。
村の地質は脆弱な破砕帯で構成され、耕作地は猫の額ほどもない。冬になれば、蓄えの尽きた家から順に、老人の「衰弱死」が報告される。それがこの地の日常であった。 だが、この飢餓の村には、代々伝わる恐るべき「冬の糧」を得る方法があった。
「源蔵さん、風向きが変わったぜ。今夜は、来る」
村の若者、利助が低い声で告げた。 古びたマタギ小屋で独り銃を磨いていた源蔵は、窓の外の気圧計に目をやった。水銀柱は目に見えて降下している。等圧線が異常な密度でこの谷を跨いでいるはずだった。
「……また、標(しるべ)を立てたのか」
源蔵の問いに、利助は答えなかった。 この村の男たちは、猛吹雪の夜、峠の難所に「偽の道標」を立てる。正しい道にある石仏を雪で覆い隠し、絶壁の縁へと続く獣道の先に、あたかも安全な山小屋があるかのように、カステラ灯(角灯)を模した偽の明かりを置くのである。
ホワイトアウトに陥った旅人は、その明かりを救いと信じ、自ら雪庇(せっぴ)を踏み抜いて数百メートルの谷底へと消えていく。翌朝、村人たちは沈黙のうちに谷へ降り、遺体から米、塩、着物、銀銭を剥ぎ取る。それは彼らにとって「強奪」ではなく、峻烈な自然が与えてくれる「山の恵み」であった。
その夜、観測史上例を見ない二つ玉低気圧が通過した。 風速は四十メートルを超え、家屋を揺らす風の音は、まるで巨大な獣の咆哮のようであった。
村の男たちは、予定通り「獲物」を仕留めた。越中から信州へ向かっていた薬売りの一行、五名。彼らは偽の道標に導かれ、一人残らず餓鬼谷の断崖から吸い込まれていった。 翌朝、村人たちは手慣れた様子で遺体を回収し、証拠隠滅のために、村外れの「風穴」へそれらを投げ込んだ。
風穴は、地熱の影響で冬でも凍結しない深い竪穴である。村人にとってそこは、罪を葬るためのゴミ捨て場に過ぎなかった。 しかし、源蔵だけは知っていた。その風穴の奥底には、この一帯の主である巨大なツキノワグマが眠っていることを。その熊は、右の耳が欠け、体重は四十貫(約百五十キロ)に達する、この山域の絶対的な支配者であった。
「……奴を目覚めさせたな」
源蔵の危惧は、気象の変化と共に現実となった。 その年の暖冬と、続く猛烈な寒波。そして、冬眠の穴の中に次々と投げ込まれた「新鮮な肉」の匂い。 空腹のまま冬眠に入りかけていた「耳欠け」は、血の匂いによって強引に覚醒させられた。一度人間の肉の味を覚えた獣は、もはや野生の秩序には戻らない。それは「穴持たず」と呼ばれる、狂暴な食人獣への変貌であった。
三日後、村を包囲していた雪雲が、一瞬の晴れ間を見せた。 だが、それは自然が仕掛けた卑劣な罠だった。放射冷却によって気温はマイナス二十度まで下がり、雪面は氷のように硬く閉ざされた。
深夜。村の静寂を破ったのは、利助の家の板壁が粉砕される音だった。 悲鳴は、猛吹雪の音にかき消された。 源蔵が現場に駆けつけたとき、そこには無残な光景が広がっていた。利助が奪い取ったばかりの豪奢な木綿の着物は、鮮血に染まり、ボロ切れのように散らばっていた。
ツキノワグマの攻撃は、執拗かつ正確だった。鋭利な爪は人間の頭蓋を一撃で粉砕し、獲物を引きずり出していく。 村人たちはパニックに陥った。彼らは、自分たちが旅人を陥れた「偽の道標」と同じように、今度は自分たちが、奪った着物の匂いと体温によって、獣を呼び寄せる道標となっていることに気づかなかった。
「着物を捨てろ! 匂いのする荷物をすべて雪に埋めろ!」
源蔵の叫びは、飢えた村人たちの耳には届かなかった。極寒の中、奪った防寒着を手放すことは、死を意味するからだ。
翌朝、餓鬼谷村を訪れる者は誰もいなかった。 ただ、紺碧の空の下、美しくも残酷な新雪がすべてを覆い隠していた。
源蔵は、愛銃の村田銃を肩にかけ、一人、村の境界線に立っていた。 村の家々は沈黙し、あちこちで家畜の死骸と人間の一部が混じり合い、凍りついている。 雪の上には、風穴の方角へ続く、巨大な一本の足跡があった。
源蔵は、その足跡を追って、深い雪の中へ一歩を踏み出した。 彼は村を救おうとしたのではない。山に生きる者として、狂ってしまった山の均衡(バランス)を、自分の命をもって正さねばならないという、マタギとしての冷徹な義務感に突き動かされていた。
峠の頂に立つ「偽の案内板」が、風に吹かれてカタカタと乾いた音を立てている。 その先には、昨日まで他人の不幸を待ちわびていた村の男たちの、血塗られた終焉があるだけだった。
源蔵の姿が、純白の稜線の向こう側に消えていく。 後にはただ、人智を超えた峻厳な山脈の静寂だけが、支配していた。
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