断絶のザイル
谷川岳一ノ倉沢。その岩壁は、数多のクライマーを呑み込んできた「魔の山」の象徴である。 鉛色の雲が、衝立岩の頭を低く押さえつけていた。湿った風が、岩肌をなめるように吹き抜ける。
「次、行くぞ」
先行する進藤の声が、ザイルを伝って微かに響いた。 私は、冷え切った指先をチョークバッグに突っ込み、濡れたスタンスに足をかけた。進藤とは大学の山岳部以来、十五年の付き合いになる。互いの命を一本のナイロンザイルに託し、幾多の難所を越えてきた。
だが、この日の私の胸中は、吹き抜ける乾いた風よりも荒んでいた。
一週間前、私は見てしまったのだ。 深夜の喫茶店、薄暗い隅の席で、私の婚約者である美奈子と進藤が、互いの手を重ね合わせるようにして密談している姿を。 進藤は、私が最も信頼し、将来の仲人まで頼もうと思っていた男だ。だが、その日から私の脳裏には、黒い毒液のような猜疑心が滴り始めた。
(あの夜の密会は、俺を消すための相談だったのか。この一ノ倉で、事故を装って……)
登攀が進むにつれ、私の心は激しく千切れた。 岩を掴む指の感触は、確かに進藤が張るザイルの安心感を伝えてくる。彼は、私のわずかな重心の揺れさえも見逃さず、完璧なタイミングでザイルを操っている。これほどの信頼に応える技術、それは長年の友情がなければ不可能なはずだ。
(進藤を信じろ。あの夜のことには、きっと何か理由があるはずだ。)
しかし、一ノ倉の峻烈な高度が、私の理性を削り取っていく。 進藤が打ち込むハーケンの音が、カーン、カーンと高く響く。その鋭い音が、私には彼らの裏切りの高笑いに聞こえてならなかった。
烏帽子奥壁の中盤、垂直に近いフェース。 テラスでピッチを交代した際、私は進藤の横顔を盗み見た。 彼は無言で登山ナイフを点検していた。一ノ倉の厳しい登攀において、ナイフは万が一のザイル切断のために不可欠な装備だ。しかし、鈍く光るその刃が、私を谷底へ突き落とすための「処刑の道具」に見えて仕方がなかった。
「高木、次は俺がリードする。お前は少し休め。顔色が悪いぞ」
進藤の言葉は、どこまでも優しかった。その優しさが、今の私には「獲物を油断させる捕食者の冷徹さ」にしか感じられない。 信じたい、だが怖い。殺される前に、殺さなければ。
風が咆哮を上げた。視界はガスに閉ざされ、世界には私と進藤、そして垂直の岩壁しか存在しなくなった。
進藤が先行し、難所のハングを越えようとしたその時だ。 頭上の岩陰に入り、進藤の姿が見えなくなった。
「高木! ザイルを送れ! ここが正念場だ!」
進藤の声が、岩壁に反響して歪んで聞こえた。 その時、私の足元で小石がパラパラと崩れた。死の恐怖が限界を超え、私の理性を焼き切った。 (来る。今、上から岩が落とされる。あいつが俺を殺しに来る!)
私は、確保器からザイルを外した。 「……すまない、進藤。お前たちの思い通りにはさせない」 震える声で呟きながら、私は登山用ナイフを逆手に握りしめた。
「おい、高木!? ザイルが緩んでるぞ! 何を――」
岩の上から進藤が顔を出した。その手には、私を安全に引き上げるためにセットしようとした、予備の支点補強用のスリングが握られていた。 だが、私にはそれが自分を引きずり落とすための縄に見えた。
私は狂ったように、自分と彼を繋いでいた唯一の絆――ザイルにナイフを突き立てた。 力任せに引き裂かれたナイロンの繊維が、悲鳴のような音を立てて弾ける。
「な……高木……っ!」
進藤の身体が、一瞬、宙に浮いた。彼は驚愕と、そして言葉にできないほど深い悲しみが混じった目で私を射抜いた。 そのまま、彼は音もなく霧の底へと吸い込まれていった。
一時間後、私は独り、頂上直下のテラスに座り込んでいた。 足元には、無残に切断されたザイルの端が転がっている。 震える手で進藤のザックを漁ると、一通の封筒が出てきた。それは美奈子が彼に宛てた手紙だった。
『進藤さん、先日のお願い、聞き入れてくださってありがとうございます。 高木さんは、最近山での事故が続いていることをとても気に病んで、自信を失っています。でも、彼はあなたと登る時が一番幸せそうなのです。 どうか、今回の山行で彼の命を守ってください。彼を無事に私の元へ帰してください。あの日、喫茶店で私の手を握って「任せろ」と言ってくれたあなたの言葉だけが、今の私の支えです。』
霧が晴れ、一ノ倉沢の巨大な岩壁がその全貌を現した。 冷徹な岩肌は、ただ沈黙している。 私は、自分が殺したのは親友ではなく、自分の命を誰よりも案じてくれていた二人の真心だった。
谷川岳の風は、どこまでも冷たく、私の罪をあざ笑うかのように吹き荒れていた。
YouTubeで上記小説を動画にしてあります。
リンクを貼っておきますので
チャンネル登録・高評価よろしくお願いいたします
