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凍てつく断罪

標高二千八百メートル。北アルプスの稜線にへばりつくように建つ石積みの避難小屋は、今や猛烈な地吹雪の只中にあった。
 外は視界ゼロの猛吹雪だ。時折、風が石壁を叩くたびに、古い建材が悲鳴のような音を上げる。
「……気圧が九百五十ヘクトパスカルを切ったか」
 倉本は使い込まれたプロトレックの文字盤を見つめ、低く呟いた。
 彼は元山岳遭難救助隊の隊員だ。今は山麓の観測所に身を置いているが、この時期の気圧配置の変化には、野生動物のような鋭い嗅覚を持っていた。
 ランプの火が揺れる。ラジオからは、数日前から繰り返されているニュースが、ノイズ混じりに流れていた。都内で発生した強盗致死事件の容疑者・石田が、この山域の登山口で目撃されたという。
 その時、重い鉄の扉が凄まじい風圧と共に押し開けられた。
 雪煙と共に転がり込んできたのは、一人の若者だった。
「助かった……、死ぬかと思った……っ」
 若者は名乗らなかったが、倉本は一目で確信した。
 若者の装備は、登山ショップの店頭に並んでいる最新の高級品ばかりだった。しかし、パッキングの重心は滅茶苦茶で、ピッケルの石突きには岩を叩いた傷一つない。何より、凍傷寸前の彼が手袋を脱いだとき、その右手の甲には、指名手配のビラにあった通りの生々しい「新しい傷」があった。
 倉本は黙ってストーブの火を強め、熱い茶を差し出した。
 若者は飢えた獣のようにそれを啜りながら、しきりに外の様子を伺っている。
「……おじさん、明日には降りられるよな? 下までの道は、あんたが知ってるんだろ?」
「道か。道なら、もう消えたよ」
 倉本は静かに言った。
「一晩で一メートルは積もる。ここから下山するには、雪崩の危険を予見し、正確なルートファイディングができるガイドがいなければ無理だ。……もっとも、君にその必要があるのならの話だがね。石田君」
 沈黙が小屋を支配した。
 若者の顔から血の気が引き、代わりに見開かれた瞳に殺意が宿る。彼は傍らに立てかけていたピッケルを、逆手に握り直した。
「……へえ。気づいちゃったんだ。だったら話は早い」
 若者は震える足で立ち上がり、尖った石突きを倉本に向けた。
「悪いな、おじさん。俺はこんなところで捕まるわけにはいかないんだ。あんたをここで殺して、明日の朝、俺一人で降りる。山なら『不慮の遭難死』で済むだろ?」
 倉本は動じなかった。座ったまま、若者の握るピッケルの「持ち方」を憐れむように見つめた。
「振り下ろすがいい。だが、私が死ねば、君の死も確定するぞ」
「何だと……?」
「……ふざけるな!」
 若者の叫びは、猛吹雪の咆哮にかき消された。
「脅して俺を縛り付ける気だろう。そんな手に乗るか。あんたのザックにあるプロパンの缶を奪えば、俺一人でも生き残れるはずだ!」
 若者の瞳に宿ったのは、反省ではなく、追い詰められた鼠の凶暴な生存本能だった。彼は振り上げたピッケルを、倉本の肩口へ叩きつけた。
 倉本は呻き声を上げ、倒れ込む。若者は荒い呼吸を繰り返しながら、倉本のザックからガス缶と地図、そして予備の防寒着を強引に奪い取った。
「……やめておけ。今出れば、本当に死ぬぞ……」
 倉本の絞り出すような警告を背に、若者は狂ったように笑った。
「あんたみたいな古臭い理屈に付き合ってられるか。俺は俺のやり方で生き残る!」
 若者は重い扉を蹴り開け、荒れ狂う白銀の地獄へと飛び出していった。
 数時間後。風が止んだ。
 気圧の谷が抜け、小屋の周囲には不気味なほどの静寂が訪れていた。肩を負傷した倉本は、這うようにして扉を開け、外へ出た。
 そこには、昨夜の嵐が嘘のような、透き通った冬の銀河が広がっていた。
 倉本は、小屋からわずか五十メートルほど離れた雪面に、不自然な盛り上がりがあるのを見つけた。
 近づいてみると、それは若者だった。
 彼は奪ったガス缶を手に持ったまま、雪の中にうずくまって固まっていた。倉本が予言した通り、マイナス二十五度の極低温下では、奪ったガスも、最新のウェアも、何の役にも立たなかったのだ。
 若者はまだ息をしていたが、その瞳に宿っていた傲慢な光は消え、ただ虚空を見つめていた。重度の凍傷で、彼の手足はもはや自分の意志では動かない。
「……言ったはずだ。山は平等だと」
 倉本は、若者を担ぎ上げることはしなかった。自分の負傷した肩では無理だと悟っていた。彼はただ、若者の傍らに座り、自分に残されたわずかな白灯油のコンロに火を灯した。
「救助を要請した。ヘリが来るまで、あと二時間はかかる。……君は生き延びるだろう。だが、その両手足は、二度と山を歩くことも、他人の金を奪うこともできないだろう。山が君から奪ったのは、命ではなく、君が汚した自由だ」
 夜明けの光が稜線を染め始める。
 救助隊のヘリの音が遠くに聞こえてきた。真っ白な雪原の上、温かなオレンジ色の炎を見つめる男と、すべてを失って凍りついた若者。
 朝日だけは、罪人にも聖者にも等しく、残酷なほど美しく降り注いでいた。


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