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雪洞の女王蜂

観測史上稀に見る発達した低気圧が、北アルプスの稜線を完全に制圧していた。
「風の音が変わったな」
久保剛一は、雪洞の入口を塞ぐスノーブロックの隙間から漏れる風鳴りに耳を澄ませた。それは、低く唸るような地鳴りから、金属板を叩きつけるような高音へと変貌をしていた。風速はゆうに四十メートルを超えているだろう。
雪洞内は、蝋燭の炎が酸欠で頼りなく揺れている。温度計はマイナス五度を指しているが、湿った防寒着を通して奪われる体熱は、それ以上の過酷さを三人に強いていた。
救助隊員の佐久間は、自分の震えを抑えることができなかった。彼は遭難した久保親子を捜索中に、不運にもこの「白い地獄」に巻き込まれた。プロとしての自尊心は、猛吹雪という物理的な暴力の前に粉々に砕け散っていた。
「……久保さん、食糧が、もうこれだけです」
佐久間が差し出したのは、防水布に包まれた数粒の乾パンと、凍りついて石のように硬くなった練乳のチューブだけだった。三人の生命を維持するには、あまりにも無力な量だった。

沈黙が支配する空間で、久保の娘、奈緒がゆっくりと上体を起こした。彼女の瞳には、死を目前にした人間の混濁はなく、むしろ高山の稜線を貫く冬の陽光のような鋭さがあった。
「お父さん、佐久間さん。提案があります」
奈緒の声は、湿り気を帯びた雪洞の壁に吸い込まれることなく、明瞭に響いた。
「その食糧、すべて私がいただきます」
佐久間は耳を疑った。極限状態における食糧の独占は、山岳遭難において最も忌むべき禁忌である。
「奈緒さん、何を……。それは、死ねと言っているのと同じだ」
「いいえ、逆よ」
奈緒は淡々と言葉を継いだ。
「三人で分け合えば、全員の体温が均等に下がり、救助が来る前に全滅する。けれど、私一人が十分な熱量を摂取すれば、少なくとも一人は確実に救助隊を誘導できる体力を維持できる。若く、基礎代謝の低い私が生き残るのが、この場における最も『効率的な』判断だと思わない?」
それは、あまりにも非情で、かつ完璧な合理主義であった。久保剛一は、娘の顔を凝視した。そこにはかつて自分が山で教え込んだ「感情を排し、事実のみを見ろ」という登攀哲学が、残酷な形で結実していた。
「……わかった。奈緒、お前が食え」
剛一は吐き出すように言った。佐久間は絶望し、顔を覆った。

その夜、暗闇の雪洞には、異様な音が響き渡った。
「カリ……、ガサ……」
奈緒が乾パンを噛み砕き、練乳を啜る音だ。その音は、飢えに震える剛一と佐久間の鼓膜を、熱せられた針のように刺した。
(奈緒、お前はそれでいい。生き残れ。女王蜂のように、他者を踏み台にしてでも……)
剛一は、娘への憎しみと、それ以上の深い諦念の中で意識を混濁させていった。
五日目の朝。
奇跡的に「気圧の谷」が抜け、空には抜けるようなコバルトブルーが広がった。遠くから、救助ヘリのローター音が空気を切り裂いて近づいてくる。
「助かった……、助かったぞ!」
佐久間が狂喜し、雪洞の壁を突き破った。眩い光が差し込み、雪洞内を照らし出す。
しかし、そこには予想だにしない光景があった。

奈緒は、座った姿勢のまま凍りついていた。
その手には、昨夜「食べた」はずの乾パンが、一粒も欠けることなく握りしめられていた。練乳のチューブも、封を切られた形跡すらない。
彼女が昨夜立てていた音は、自分の爪で氷を削り、空の袋を鳴らしていただけの「演技」だったのだ。
もし彼女が「私は食べないから二人が食べて」と言えば、父も佐久間も、己の良心と責任感から決してそれを受け入れなかっただろう。譲り合い、逡巡する時間は、そのまま凍死へのカウントダウンとなる。
だから彼女は、あえて「強欲な女王」を演じた。二人から、自分を助けるという選択肢を奪い、生きることへの執着を、怒りや嫉妬という形で維持させたのだ。
救助ヘリに吊り上げられる際、剛一は愛娘の亡骸を抱きしめた。彼女の遺体は、羽を休めた女王蜂のように小さく、しかしどんな岩壁よりも気高く、冷たかった。
剛一が奈緒の遺体を搬送するためにその防寒着を整えた際、内ポケットから一枚の紙切れが滑り落ちた。それは非常食の包装紙の裏に、震える手で鉛筆を走らせた書き置きだった。

お父さんへ
嘘をついてごめんなさい。 私は山を、そしてお父さんを愛しています。 山は私に、命の重さは「感情」ではなく「行動」で示すものだと教えてくれました。

私が二人から食糧を奪うふりをしたのは、お父さんたちに「生き残る義務」を感じさせるためです。私を憎んででも、その怒りを熱に変えて、生き延びてほしかった。 私一人の命で、二人の未来が買えるなら、これほど効率的で幸福な取引はありません。

お父さん、自分を責めないで。 私は今、とても静かな気持ちで、山の一部になろうとしています。

さようなら。 最後に見た北アルプスの空は、本当に綺麗でした。

奈緒

剛一の頬を伝う涙は、触れたそばから極寒の風にさらわれ、小さな氷の粒となって雪原に散った。 ヘリの爆音にかき消されながらも、剛一は何度も娘の名を呼び続けた。その声に応えるものはもう何もない。ただ、彼女が守り抜いた命の鼓動だけが、父の胸の中で、雪洞の静寂を打ち破るように強く、激しく脈打っていた。
山は常に沈黙している。ただ、吹き抜ける風の音だけが、一人の若い女性がその命を賭して完遂した「非情なる愛」の物語を、永遠に雪の中に封じ込めていた。

上記動画をYouTubeで動画にしてあります
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動画リンク
https://youtu.be/2U5viKRlbKM

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