【掌編】オレンジ色の朝。
今朝はめずらしく、起こされる前に目が覚めた。月曜日だというのに。お母さんは、当たり前のようにわたしより早く起きて、台所に立っている。
「おはよ」
短めのあいさつも、いつもと変わりなし。その横顔が少しだけ明るい。明るさ二割増しに見える気がする。
「はい、これ。小雪と夏帆の分。今日はマーマレードぬってね」
「はあい」
二枚の四角いお皿が、食卓に運ばれてくる。まだあったかいトーストがのっている。あったかいうちにってところがポイントだ。わたしはマーガリンのふたをカチッと音を立てて開けてから、銀色のバターナイフで黄金色のかたまりに縦に切れ目を入れ、ナイフの先にたっぷりとすくいとる。
これはマーガリンじゃない、バターだ、バター。とろけるような香ばしい香りのする、北の国からやってきたバター。
空想しながら指先をやさしく動かして、黄金色のかたまりをトーストの上にぬりつけていく。ジ、ジ、ジ。パンの表面がこすれる音。そのうち表面からじわじわと黄金色がしみこんでいき、ついさっきまで白地に茶色のこげ目がほんのちょっとついただけの、カサついていたパンが、淡い黄色の、正真正銘の、美味しそうなトーストへと変身していった。
「夏帆、冷蔵庫からマーマレード取ってきて」
「…」
起きてきたばかりの夏帆の前髪には、あいかわらず寝癖がついている。左がわ斜め向き、ぴょこんと前髪がとびでている。半開きの目をこすりながら、白い冷蔵庫を開けた夏帆が、オレンジ色の瓶を取り出して、よろけながらこっちに歩いてくる。
ようし、ここからが第二弾。瓶のふたを左に回すと「カポン」と気持ちのよい音がした。中にはたっぷりのマーマレード。マーマってお母さんと関係があるのかと想像したけど、そうではないと同じクラスで物知りの吉沢くんが、先週教えてくれた。給食で小さなマーマレードが出たときに。
「ポルトガル語でマルメラーダって意味なんだよ。マルメロ(西洋かりん)のジャムのこと」
「なんでそんなこと、知ってるの?」
「いつかクイズ王選手権に出るつもりだから、なんでも調べてるのさ」
小さなスプーンでふた匙分すくって、それぞれのパンの上にポトリと落としてっと。みかんの皮の部分がうすーく入ったマーマレードを、ていねいにコーティングすると、朝食用のトーストの出来上がり。これにヨーグルトと小鉢に盛られたきゅうりとコーンとレタスのサラダをいっしょにいただく。飲み物はミルクティー。
「いただきまーす」
わたしと夏帆がパンをかじっているあいだも、お母さんは台所でまだ何かやっている。夕食の準備らしい。おそい時間に仕事からもどってきても、あわてなくても済むように。
目の前で口を大きく開いてヨーグルトをぱくついている夏帆の目が、だんだん開いてくる。ふっ、この子ったら、朝ご飯にカラダ、起こしてもらってる。
わたしはかじったトーストを右頬の内側でもぐもぐかみながら、テーブルの右端にかざってある花をじーっと見つめる。オレンジ色のカーネーション。オレンジ色といっても、珊瑚の色みたいな、赤とオレンジのちょうど真ん中くらいのやさしい色。花びらがいっぱい、フリルのようにしわがよって、花びらの先はかすかにギザギザ。じっと見てても見飽きない。
うちには花瓶がない。お母さんが「これ、使おうよ」といって使い終わった500mlのペットボトルを用意してくれた。そこに三分の一くらい水を入れてから、一輪のカーネーションを挿してみた。
「かわいい。いいわねえ。家の中に花があるのって」
お母さんの声も、ほんのり華やいで聞こえる。
昨日の日曜日は母の日だった。わたしはそれをすっかり忘れていた。友だちのなづなの家に遊びにいったら、
「今年はあたし、奮発したのよ」
と鼻の穴をふくらませたなづなが、指差した先には、りっぱな鉢植えのカーネーションがあった。
リビングの、テレビの横にある低い棚にかざされたそれは、白いあみあみのカゴに入れられた、真っ赤な花を十個以上もつけたカーネーションだった。カゴにもあざやかな赤いりぼんがつけてあった。
帰り道、自転車屋さんのとなりのお花屋さんを見つけた。一輪挿し用のカーネーションが、いくつも、青いバケツに入れられている。三百円。これなら買えそう。ポケットから小銭入れを取り出した。
「これ、ください」
わたしが買って帰ろうとすると同時に、わたしよりももっと小さな男の子がふたり、お花屋さんに入ってきた。夏帆と同じくらい?二年生かな。
「おい、赤いカーネーション、まだあるぞ」
「良かったな。おれとお前の分でおしまいだ」
オレンジ色のカーネーションじゃダメだったかな?でもいいの。だってこっちの色のほうが、うちのお母さんに似合う気がしたんだもん。
「これ、母の日のプレゼント。一本だけど。いつもありがとう」
お花を渡したあと、花を持ったお母さんをスマホで何枚か撮ってあげた。
「はい、チーズ」
首を少しだけ左にかたむけたお母さんは、うれしそうで、ちょっと緊張しているような、よそいきの顔で画面におさまった。
「じゃ、わたしもいただきまーす」
お母さんは朝はいつもほんのちょっとしか食べない。ヨーグルトとクラッカー、それからブラック・コーヒーだけ。ベージュ色のマグカップを口元に運んでから、ふうっとため息をついている。そして、わたしと同じようにだまって見つめている先には、オレンジ色のカーネーションがある。
「オレンジって元気が出る色よね」
「今日もなんかいいこと、あるかなあ。あればいいな」
わたしと夏帆がごちそうさまして、洗面所で歯みがきをしているあいだも、お母さんは、なんどもなんども、カーネーションをながめていた。いつもより少しだけリラックスしてる気がした。
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