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10年前の読書日記19

2014年5月の記

 先日『いい感じの石ころを拾いに』という本を出したら、さっそく某新聞で取り上げてもらい、インタビュー記事が載ったのはありがたい話なのだが、いまだ脱サラ作家という紹介のされ方で、少々情けなくなった。

 会社辞めたのは20年も前の話だし、だいたい作家なんておおかた脱サラだったりするのではないか、もっと他に書くことはないのか。そうか、他に書くことがないのか。なるほど私はとくに華々しい賞をもらったこともないし、ベストセラーや問題作を世に問うたこともない。その程度の物書きだから、いまだ脱サラ作家としてしか紹介してもらえないのだ。と凹みつつ本を眺めていると、ふと、カバーのプロフィールに「大学卒業後、約10年間のサラリーマン生活を経て、作家となる」と冒頭から書いてあるのに気づいた。自分で宣伝しとるがな。

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 そんなわけで念願だった本が出て、仕事としてはひと段落し、次なるテーマに向かって邁進しようと思っているところだが、まだまだ石から目が離せない案件が出てきて困惑している。

 ある人に、ロックバランシングを知っているかと聞かれ、まったく知らなかったので調べたところ、なにやら面白そうだったのである。
 ロックバランシングとは、その名の通り石をバランスよく積むアートだそうで、ネットで検索すると、いくつもの石積み写真が賽の河原かと思うほど出てくる。単なるヒマ人の趣味かと思ったら、今や世界規模のイベントも開かれるほど流行しているという。

 ただランダムに石を積むのではなく、ありえない形に積んだほうがオツ、ということになってるようだ。ミャンマーのチャイティーヨーパゴダに、ゴールデンロックといって、崖の上のバランスよく載ったままいくら押しても落っこちない巨大な岩がある。あれのミニチュア版みたいな感じか。

 先日、ロックバランシングの日本における第一人者という人に取材する機会があり、多摩川の川原で技を見せてもらったのだが、そのへんの石ころをテキトーに拾って、すごい形に積んでいくので驚いてしまった。あえて小さい石の上に大きな石を載っけるのだ。しかも大きい石は横長に安定感のある感じで載せるのではなく、なるべく縦向き。わざわざ立てた形で、ありえなさがマックスになるように積むのである。
 実際目にするまでは、接着剤でくっつけているんじゃないかなどと疑っていたが、トリックは何もなかった。

 ただ、その時点でも私は、凄いとは思いつつも、自分がそれにハマる気はしていなかった。だって石積んでそれでどうするのか。持って帰るわけにもいかないし、パフォーマンスとしてもそのうち飽きそうである。

 ところが、自分も促されてやってみると、自分でも出来てしまって、驚いた。小さい石ころの上にでかい石が立ったのである。
 石には、がっちり安定する秘密の重心みたいなものがあるようだ。そこを見定めて石を載せると、石の重みそれ自体が全体を押さえつけ、崩れるどころかかえって安定させるように働く。面白くなってそこらじゅうの石を積みまくった。

 積んでどうするのか、という声は相変わらず自分の内側から聞こえてくるけれど、びっくりしたのは積む行為そのものが理屈ぬきで楽しいことだ。積んでどうならなくてもいい。

 そうして思ったのだった。ああ、また石か……と。

 いや面白いのである。面白いから文句はないんだけど、また石でいいのかという問題である。ただでさえ、石を拾っているだけで、ついに石まで行きましたか、とまるで隠居老人扱いされたのだ。次はもっと、ハツラツとしたものを追いかけたいではないか。

 実際、ある人にロックバランシングの魅力を話すと、「宮田さんは、どうしてそうやっていつもショボい方へショボい方へと進んでいくんですかね」と憐れみの目で見られたりした。大きなお世話かつ、その通りだから困るのであった。

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 昼の間は日差しがきついが、朝夕はまだ涼しくて気持ちがいい。そんな5月のある宵に、妻が突然バーベキューをやりたいと言いだした。どこでやるのかといえば、わが家の庭である。

 庭? 言っておくが、うちの庭は幅1・5メートルしかない。そこにエアコンの室外機が置いてあって、実に狭いぞ。

 しかしなぜかこの日に限って妻はやる気を見せ、近所のスーパーへ行って肉と炭を買ってきた。私はバーベキューなどちっとも好きではないが、この狭い庭でバーベキューという酔狂さが気に入って、さっそく火を起こし、子どもにも手伝わせて、肉焼いて食ったのである。室内で食うより狭い。

 ちょうど庭の前は道路だから、ときどき仕事帰りのサラリーマンや近所の人が通り過ぎていく。そこでわれわれは焼けた肉の匂いをもうもうと漂わせながら、背中を丸めてチマチマと肉を食った。子どもたちも楽しんでいたようだから、それはそれでいいけれど、やってることは実にショボかった。家族ぐるみでショボい。

 そして、あらためて自分のやることは何もかもがショボいことを自覚した。趣味もショボいし、生活もショボいし、ファッションとかもショボい。作風がショボいのは前から知っていたけども、私の辞書にショボい以外の文字はない気がする。

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 ダウンシフターという生き方について、テレビで特集されているのを観た。収入を減らしてでも、自由のきく仕事に転職もしくは独立し、なるべく束縛されずにゆったり生きるという話だった。生活はおおむねショボくなるが、それは見方次第であり、ショボいといえばショボいけれども、自由度は高く、ストレスも少なめである。つまり、私が脱サラして物書きになったのも、そういうことだった。

 都会は嫌いだし、満員電車は乗りたくないし、興味のない仕事に全力を尽くせなかったから、収入と引き換えに、自由を得たわけだ。同時にいろいろショボくなるのは仕方ないとこれを受け入れた。
 そして20年の歳月が流れ、ショボいのは、いつしか私の存在そのものになったのである。

本の雑誌2014年7月号から転載

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