文字を持たなかった昭和 百四十一(お盆、その一)
母ミヨ子が現役主婦だった、昭和40~60年頃。8月の前半は行事が続いた。
ひとつは、地域挙げての伝統行事「七夕踊り」(その一、その二、その三、その四、その五)があるためだ。
「七夕踊り」が終わって、ほっとしたような寂しいような気分が抜けきらない中、お盆の準備が始まる。鹿児島は旧暦に合わせる形での8月13日から15日をお盆として過ごすのが普通だった(このためわたしは、就職して東京に出て来たとき、7月にお盆を迎えると知ってたいそう驚いた)。
ミヨ子の嫁ぎ先にはもちろんちゃんとした仏壇があり朝晩位牌を拝んではいたが、お盆はお仏壇の祖先と対話するのとは別の意味があって、丁重に準備をしたものだった。わたしが思い出せる範囲で、どんなふうにご先祖をお迎えしたのか書き留めておきたい。
「その一」の本項では、初盆について書く。
初盆の対象は日本各地で若干の違いがあるようだが、ミヨ子たちが住む町では、前年のお盆以降に亡くなり、当年のお盆までに四十九日の供養をすませた人の霊(みたま)が対象だった。7月にもなると、町内の荒物屋さんや隣り町の温泉街にあるM百貨店などに灯籠や提灯が展示販売される。百貨店と言っても3、4階建ての小規模な店だったが、昭和50年代に入って農協系のスーパーが近くにできるまで、「何でもそろう」店は近隣ではこの百貨店くらいしかなかった。
百貨店ができる前はどうやって立派な灯籠を調達していたのだろう? もしかすると冠婚葬祭にお金をかけるようになったのは高度成長期以降のことで、それ以前は、お香典か、せいぜいふつうの提灯を贈る程度だったのかもしれない。
初盆を迎えるお宅が親戚や近隣にあると、8月初め頃までには灯籠や提灯を贈った。おつきあいがそれほど深くないお宅なら、お香典やお線香を包む場合もある。初盆のお宅は、8月12日には仏間を清掃し灯籠や提灯の支度をする。灯籠はバランスを考えながら並べ、提灯は縁側の天井などに架けた竹竿に吊るした。
ミヨ子の舅(わたしの祖父)の吉太郎が亡くなったのは昭和45年の晩秋で、初盆は翌年だったが、夫の二夫(つぎお)の顔が広かったこともあり、吉太郎の初盆には灯籠も提灯もたくさんいただいた。
その頃には灯籠も派手になっており、廻り灯籠も幾つかあった。灯籠の中心に据えた白熱電球の上に針金でできた支柱が立てられ、上部に羽根のついた、図柄が描かれた筒がそれにぶら下がっていた。電源を入れて白熱電球が熱を帯びると、暖められた空気が上昇し、筒の上部の羽根を回すのだ。それによって、図柄が回転する様子が外側の灯籠部分に映しだされる、という仕組みだった。
子供たちは赤や青や緑の水玉がくるくる回る灯籠を眺めて、物珍しさと美しさを感じると同時に、神妙な気持ちになったものだった。
