文字を持たなかった明治―吉太郎34 家を買う②「銭取いけ行っ」
明治13(1880)年生れの吉太郎(祖父)の物語を続けている。前項「嫁の来手」では、跡継ぎでもない五男の身として自力で家屋敷を手に入れるために、吉太郎は働きに働いたであろうと推測した。
実際、家屋敷はもちろん、田畑も山林も、のちに一人息子の二夫(つぎお。父)が相続することになる地所はすべて、吉太郎が一人で買い広げていったものだ。しかし、いかに働き者であろうと、まったくのゼロから地所を広げていくとなると、農業――地元では「作(さく)」と呼んだ――だけでは難しかったはずだ。
猛暑、冷夏、少雨、多雨、それに毎年鹿児島を襲ってくる台風などの気候現象が農作物に及ぼす影響が、いまよりもよりダイレクトだった時代、不作の年があれば数年はそのダメージを引きずっただろう。それに吉太郎は独身だった。どんなに働き者でも、一人でできる農作業は限られただろう。
そこで想像するのは、出稼ぎなど短期間で現金収入を得る手段を併用していたのではないか、ということだ。そして実際吉太郎は、農作業以外の仕事をしに遠方へ行っていたらしい。
そのことを二三四(わたし)は、吉太郎にとっての嫁であるミヨ子(母)から何度となく聞かされた。嫁に来てから聞かされた話も含め、吉太郎の「出稼ぎ」(便宜上こう呼ぶ)は集落では有名だったのかもしれない。いや、せいぜいが数十戸、数百人の集落である。隣近所の事情は筒抜けだっただろう。
ミヨ子の話を総合するとこうだ。
現金収入を得に外で働く――鹿児島弁だと「銭取いけ行っ(ぜんといけ いっ)」――ために、吉太郎は樟脳が取れる山に入ったという。
樟脳は樟(クスノキ)の木片を水蒸気で蒸留して精製して作る薬品で、消臭・芳香・防虫・医薬用(鎮痛効果)と幅広い用途がある。いまでこそ身近ではないが、昭和中期頃までの家庭では極めてポピュラーな存在で、二三四(わたし)が覚えている範囲でも、衣類用としてタンスに入れるものから、消臭剤を兼ねてお手洗いに吊るすものまで種類も豊富だった。結晶質なので、成分が揮発して空気中に放散されると徐々に固体が減って(溶けて)いき、使い終わりや換えどきが目に見えたものだ。
樟脳は日本にとっても外貨収入源として重要な働きをした。とくに戦時中は火薬製造の原料としても使われたらしい。
一方でその成分を含むクスノキは主に九州南部が主な分布地で、ある意味産地は限られる。そのため、終戦まで日本の統治下にあった台湾でも樟脳の生産を奨励するほど、収益源としての樟脳は重宝された。ただし戦後は合成樟脳の普及と精製にかかる手間暇から、クスノキを原料とする国内での樟脳製造は急速に廃れていく。
――といったことは本項を書くために樟脳について調べる中で初めて知ったものも多いのだが、「樟脳はお金になる」という時代背景の中で、吉太郎も樟脳が取れる山へ働きにいったのだと思われる。
