文字を持たなかった昭和473 困難な時代(32)娘の進学
昭和の鹿児島の農村を舞台に、昭和5(1930)年生まれのミヨ子(母)の来し方を軸にして庶民の暮らしぶりを綴ってきた。
あらたに、昭和50年代前半に取り組んだハウスキュウリに失敗し一家が厳しい生活を送った時期について書いている。家計は八方ふさがり、家庭内の雰囲気は重く気づまりだったことなどを述べた。
そんな中で高三になった娘の二三四(わたし)には、夫の二夫(つぎお。父)もミヨ子も家から通える範囲での就職を望んでいた。二三四は公務員試験を受けてはいたが、大学受験を諦めきれずにおり、しかも志望校は県外の大学だった。
二三四は第一志望、というか唯一受験した福岡県の公立大学に合格した。経済的な事情が進学反対のいちばんの理由だと思っていた二三四は、両親に対して宣言した。
「仕送りはいらない。自分でなんとかする」
高度経済成長期を経たとは言え、一般家庭の経済力には差がある一方、進学したい意思を持つ生徒は増えていた。そんな若者を救いつつ労働力を確保するため、新聞配達をしながら大学や専門学校に通う新聞奨学生の制度もあった。集落の優秀な青年が新聞奨学生で大学に行っていることは近隣の皆が知ってもいた。二三四は、自分にもなんらかの道はある、と信じたかった。いや、賭けに出たのかもしれない。
結論を言えば、二三四は働きながら大学へ通う道へと進むことができた。 そこに至るまでの、家庭内での葛藤と重苦しい雰囲気、二三四の意思を尊重して支援してくれた高校の先生方、二三四を受け入れてくれた会社などなど、書きだせばきりがないことどもは、いずれ二三四自身について書く機会に述べたいが、ともかく進学できることになった。
二夫は最後まで不承不承であり、不機嫌な夫にミヨ子はずっと遠慮していたが、二三四は自分の「稼ぎ」で自分の道を切り開く生き方、家族といえども他者に強く影響を受ける生活から抜け出す道を手に入れたのだった。昭和56(1981)年の春である。
